# verse - 2
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履歴書を送付してから数週間後の日曜日。愛莉と紫乃は、とある建物の前で呆然と立ち尽くしていた。閑静な住宅街の一角で強烈な異彩を放つそれを目にしては、呆然とするしかなかったのであった。
幅広の敷地いっぱいにそびえ立つ、三階建ての真新しい建物。その大きさたるや、周囲の建物とは比べものにならないほどである。しかも、圧倒的なのはその大きさだけではない。屋上には半裸の男性を象った彫刻が設置されているし、全体のデザインも近代的という言葉すらかすむ奇抜さだ。至る所が規則性のないガラス張りになっていて、日の光を反射して白々と発光しているようにも見える。
それが、本日のオーディション会場、芸能プロダクション『ラーディアン』のプロダクションビルであった。
「……紫乃ちゃんの家も大きいけど、ここもすごいね」
「何か、大きさだけの問題じゃない気もしますけど……ここで間違いないんですよね?」
「うん。ラーディアンって看板に書いてあるし、オーディションを受けに来てる女の子いっぱいいるし……」
そう言った愛莉の視線の先には、建物入り口に列を成す女の子達の姿があった。オーディションの受付が始まっていることもあり、数え切れないほどの女の子が入り口に溢れかえっている。どの子も気合の入ったオシャレなコーディネートで身を固め、表情を引き締めながら、順番に建物へと吸い込まれていっていた。
「すごい人数ですね。私みたいに付き添いだけの子もいるのでしょうか?」
「何人かはいると思うけど、ほとんどがオーディションを受けに来た子だと思うよ。アイドルって、今すっごく流行ってるから」
「そうなんですか。でも確かに、受付票を持ってる子ばかりですもんね」
建物へと向かう女の子達は、皆揃って一枚の用紙を手にしていた。それは、履歴書を送った者だけに与えられる、オーディションの受付票である。これからオーディションを受ける彼女達にとっては命の次に大切なもの。きつく握り締めずにはいられないそれは、同じ立場である愛莉も手の内に忍ばせていた。
「愛莉ちゃん、受付票は持ちましたか?」
「う、うん」
「上履きは? 携帯の電源は切りました?」
「だ、大丈夫」
「よし。では、行きましょう」
「……」
周りの様子を見た途端に訪れた緊張が、愛莉の全身を締め上げていく。手の平には汗が滲み出ているのに、指先は驚くほど冷たい。自分を気遣ってくれる紫乃の言葉も、激しく高鳴る鼓動でよく聞こえない。それでも、ここまで来たら後には引けない。憧れのアイドルへと近づくために、強張る両足に力を込めて、一歩ずつ確実に受付へと歩を進めて行った。
♪ ♪ ♪
「はい、次の方どうぞ」
入口に出来ていた列に並ぶ事数分。前の人の受付が終わり、愛莉の番がやってきた。
愛莉は一緒に並んでくれた紫乃に付き添われながら、受付票を手にぎこちない足運びで前に進んだ。そんな愛莉を見て、受付に座る係りの女性が優しく微笑む。かっちりと整った七三分けの前髪に、後ろはエレガントな夜会巻きという、いかにも業界人なオーラを漂わせる綺麗な女性だった。
「はい、来てくれてありがとう。えっと、お名前は――金園愛莉さんね」
「は、はい! よ、よろしくお願いします!」
「あはは、そんなに緊張しなくていいのよ。これはただの受付なんだから」
「あ! す、すみません!」
「まあ、緊張するなって方が難しいわよね。こういったオーディションは初めて?」
「はい、初めてです」
「そう。じゃあ、あなたも私達と同じね」
「……同じ、ですか?」
不思議なことを言われて思わず聞き返す愛莉に、係りの女性は受付票にペンを走らせつつ話を続ける。
「ええ、そうよ。ウチのプロダクションって最近できたばかりだから、オーディションを開くのも初めてだし、面接審査をするのも初めてなの。だから、あなたと同じ。私達だって緊張してるのよ?」
「そ、そうなんですか」
「でも、だからこそ気合が入っているし、来てくれた皆の気持ちをしっかりと受け止めて審査するつもりよ。だから、あなたも頑張ってね」
「はい! ありがとうございます!」
「うん、いい笑顔ね。はい、じゃあこれ持って二階の控え室に行ってね」
返却された受付票を受け取りながら、愛莉は大きく頷いた。係りの女性の親しみやすい雰囲気のおかげで、ガチガチだった愛莉の表情は和らぎ、何だか勇気すら沸いてきた気がする。
「はい。じゃあ次はあなたね。受付票をお願いします」
そう言いながら、係りの女性が愛莉の隣に向かって右手を差し出した。その手が指し示したのは、順番待ちをしている次の参加者ではなく、愛莉の付き添いで来ただけの紫乃の方角であった。
「あの……申し訳ありません。私はただの付き添いなんです」
「あら、そうなの?」
「はい。ねっ、愛莉ちゃん」
「そうなんです。一人だと心細かったので、お願いしてついて来てもらったんです。ダメでしたか?」
「ううん、そんなことないわ。ごめんなさい、早とちりしちゃって。でも、そっか……付き添いなんだ……」
係りの女性は意味深に呟きながら、紫乃の目をじっと見つめる。瞳の奥までをも見透かしてしまいそうな、その神秘的な視線に妙な迫力を感じ、愛莉も紫乃も顔を見合わせて困惑した。
「……ねえ、あなた。出来ればで良いんだけど、面接審査に参加してもらえないかしら?」
「えっ!? わ、私ですか!?」
係りの女性の口から思わぬ言葉が飛び出し、紫乃は驚くあまりに声が裏返ってしまっていた。
何の冗談かと女性の顔を見返してみるも、彼女の目は真剣そのものである。それを見てさらに焦る紫乃は、愛莉に助けを求めて視線を移すが、愛莉の顔にはあの煌く笑顔が花を咲かせていた。
「良いよそれ、すごく良い! 紫乃ちゃんも一緒に受けようよ! 二人でアイドルになろう!」
「あ、愛莉ちゃんまで! 何でそうなるんですか!?」
「私、本当はずっと思ってたんだ! 紫乃ちゃんとアイドルになれたら、どんなに楽しいだろうって! 二人でなら、きっと最高のアイドルになれるんじゃないかって!」
「ちょ、ちょっと待ってください! そもそも、私は履歴書を送っていないんですから、参加する資格はありません!」
「まあまあ、二人とも少し落ち着いて。ちゃんと説明するから」
興奮する愛莉と紫乃をなだめるように、係りの女性が二人の会話に割って入る。その言葉でとりあえず黙る二人だったが、様子はまるで正反対。愛莉は喜びに沸き、紫乃は不安で顔を曇らせていた。
「ごめんね、ちょっと私が言葉足らずだったわ。参加して欲しいって言っても、頭数を合わせるために参加してもらえないかな、ってことなの」
「「……あたまかず?」」
二人が思わず口にした疑問が、絶妙なタイミングで重なりハモってしまう。
偶然にしては整い過ぎた二つのメロディーに、係りの女性が堪え切れずに吹き出していた。そのあまりにも痛快な笑い声に、愛莉も紫乃もお互いの息の合い具合が急に恥ずかしくなる。
「あ、あの! 紫乃ちゃんが頭数ってどう言うことですか!?」
「ああ、ごめんね。別に悪い意味で言ったんじゃないの。
実はね、今日のオーディションはグループ面接でやる予定なんだけど、もう既に欠員が出てるのよ。一応、人数調整をしてはいるんだけど、それも何だかうまくいかなくってね。それで、付き添いの彼女には申し訳ないんだけれど、出来たら受けるだけ受けてもらえないかな、と思って声をかけたってワケ」
「で、ですが……やはり、私は正規の手順を踏んでいませんし……」
「ああ、履歴書のことなら心配しないで。応募要項にも書いているけれど、履歴書はあくまでオーディションの受付票を送るために必要だっただけだから。それに、あなた以外にも同じように声を掛けていくつもりよ。この後も欠員が出ないとも限らないからね。もし調整がうまくいけば、その時には出なくてもいいようにできるし」
「はぁ……」
「ね? 将来に向けての良い経験にもなるし、私達を助けると思ってやってくれないかしら?」
「そうだよ紫乃ちゃん! 経験と人助けが同時に出来るんだから、一緒に受けようよ!」
「あ、愛莉ちゃん……」
愛莉は、もう紫乃とオーディションを受けるということにしか意識が向いていないようだった。ぐいぐい迫ってくる輝く笑顔に、さすがの紫乃も少し後ずさる。
だが、紫乃の気持ちも少し揺らいではいた。
面接を受けるという経験は、確かに自分の将来にとって有益なものになるだろう。しかも、アイドルのオーディションなど、この先受けることはまずない。アイドルにならなくてもいい、という前提が約束されているのであれば、受けてみても損はないのではないか。むしろ、自分が受けることによって愛莉とプロダクションの人が喜ぶのでれば、それは素敵なことではないだろうか。愛莉の笑顔を見ていると、その気持ちはどんどん強くなっていった。
「やろうよ、紫乃ちゃん! 私と一緒に!」
「……まあ、そこまで言うなら」
「OK! 話はまとまったみたいね。はい、じゃあこれがあなたの受付票ね」
「えっ!?」
見ると、係りの女性がにっこり笑って紫乃に臨時の受付票を差し出していた。
「あっ、名前は伊集院紫乃です! 私が書きますね!」
「あ、愛莉ちゃん!」
係りの女性の周到さに驚く紫乃を気にも留めず、愛莉は受付票を受け取って名前の欄にスラスラと紫乃の名前を書き足した。係りの女性も、その名前を見て自分の手元にある用紙にそれを書き写していく。
当の本人を置き去りにして、紫乃のオーディション参加手続きは滞りなく終了したのだった。
「はい。じゃあ、二人とも二階の控え室で待っててね。全体説明の後に面接審査が始まるから」
「はい! 色々とありがとうございました!」
「いいえ。頑張ってね」
「頑張ります! 行こう、紫乃ちゃん!」
「……はぁ」
半ば無理矢理に押し付けられた受付票を手に、紫乃は愛莉の後を追う。愛莉は、緊張という言葉すら忘れてしまったかのように、軽快な足取りで二階へと続く階段を駆け上がって行った。