# bridge – 10
# bridge – 10
愛莉がプロダクションビルに到着したのは、家を出発してから丁度一時間後。午後六時を迎えようとする頃合であった。
いつもであれば夕闇が美しいグラデーションとなって空に広がる時間帯であるが、今日はくすんだ曇天の所為で周囲には既に闇が落ちている。プロダクションビルにも早々に明かりが灯っており、愛莉はその明かりが一際多く灯る三階の事務室へと突き進んでいった。
♪ ♪ ♪
ノックを二度鳴らし、挨拶をしながら事務室に入ると、中にいたのは宗光と小暮だけであった。
二人は向かい合った状態で、難しい表情を浮かべながら何かを話し込んでいた。静かな緊張感が漂い、見るからに声を掛け辛い雰囲気であったが、今の愛莉には関係のない話だ。スタスタと事務室内を突き進み、猛然と小暮のそばに歩み寄る。その堂々とした姿勢から放たれるオーラが、宗光と小暮の視線を愛莉の下へと呼び寄せた。
「金園さん!? どうしたの、こんな時間に!?」
「……」
「か……金園、さん?」
曇りのない目で真っ直ぐに見つめてくる愛莉に、小暮は思わずたじろいだ。今までにない迫力で詰め寄ってくる愛莉の表情は、どこか怒っているように見えなくもない。
葵に続いて愛莉まで怒り出したとなると、いよいよ自分の手には負えなくなる。そんな焦りがじわじわと小暮を苛み、自然と冷や汗が込み上げてきた。
そんな小暮の内心を知ってか知らずか、愛莉は落ち着き払った静かな口調で話し出す。
「……小暮さん。お願いがあります」
「な、何かしら……?」
「葵ちゃんの、自宅の住所を教えてください」
「……え?」
小暮は、その言葉に目を丸くした。何故愛莉が葵の家の住所など尋ねてくるのか、意味がわからず呆けてしまう。
「ど、どうしたの急に? 何かあったの?」
「別に、何もありません。ただ、葵ちゃんに会いに行くだけです」
「……ちょ、ちょっと待って金園さん。どうして佃さんに会う必要が?」
「葵ちゃんと話したいことがあるからです」
「……」
それ以外の理由はない、とその瞳が強く語っていた。一分の隙もない強固な意志が愛莉の全身を覆い、気迫の鎧を形作っている。それは、葵の住所を聞くまではここを動かない、と言う意志も同時に示していた。
「えっ、と……」
しかし、小暮は愛莉に対して言い淀む。葵のことはプロダクション側に任せると会議で決めた以上、愛莉に勝手な行動を許すわけにはいかなかった。
だが、それをどう説明したものか。それを話した所で、今の愛莉が素直に言うことを聞いてくれるとは思えなかった。
「……話を聞いて、どうするのだ?」
すると、黙って話を聞いていた宗光がそう切り出した。
「あの娘と相対し、話を聞いて、お前はどうするのだ?」
「それは――聞いてみないと、わかりません」
「ふむ……では、その話がお前の望むようなものでなかった場合、お前はどうするのだ?」
「それは……」
「真実とは非情なものだ。その話が、お前にとって良き結果をもたらすとは限らない。あの娘が、真実を語るとも限らない。それでもお前は、我々に事の収束を任せるのではなく、自ら話を聞きに行くというのか?」
「……」
宗光の鋭い眼差しが、愛莉の決意を試すかのように突き刺さる。思い止まらせようとするのではなく、退けるのではなく、最悪の場合に直面した時自分がどうするのか、それを想定させることで、愛莉の心の強さを量っていた。
愛莉は、視線を一旦床に落とす。宗光の言葉を受け、今一度自分自身にその目的と覚悟を問い質した。
何のために葵と話をするのか。その話で何を得ようとしているのか。
そしてその結果、自分はどうしようとしているのか。
「私は……」
考えて、考えて。
「……私は……」
考えて――辿り着く先は、やはり一つしかなかった。
「……葵ちゃんの、気持ちが知りたいんです」
「……」
「……私は最初、あんな言い方をされて、全部を否定されて、ただ怒っていただけでした。感情的になって、何も考えようとはしていませんでした。でも、紫乃ちゃんから葵ちゃんの気持ちを考えてみようって言われて、悠子ちゃんから葵ちゃんの昔の話を聞いて、思ったんです。葵ちゃんが、どうしてあんなに怒っていたのか、理由を知るには直接話を聞くしかない。それに、その理由に昔のアイドルグループでの出来事が関わっているなら、そこで何があったのかを聞くしかない。そうしないと、頭の悪い私には、葵ちゃんの気持ちがわからないって。だから、私は葵ちゃんと話がしたい。そして、私の気持ちも、葵ちゃんに伝えたい。なにもわからないまま、ただ悩み続けるのはもうイヤなんです」
愛莉は宗光の目を見つめながら、自分の気持ちを素直に告白した。いくら考えても、目的とか、覚悟とか、そういったものを論理的に説明できそうになかった。
ただ今は、葵と話をして、あの時彼女が何を想っていたのかを知りたい。そして、何故自分が反論したのか、その気持ちを葵に伝えたい。それだけが、愛莉に答えられる全てであった。
「……」
宗光は、愛莉を見つめ返しながらしばし沈黙を保っていた。言葉では表しきれない気持ちをも汲み取るかのように、その視線が愛莉の瞳の奥に深く入り込む。
そして、何か腑に落ちたかのような表情を見せると、おもむろに口を開いた。
「……止めても、無駄なようだな」
「……はい」
「……よかろう。では、お前にあの娘の過去を見せてやるとしよう」
「しゃ、社長!?」
愛莉よりも先に小暮が驚き、宗光の顔を凝視しながら慌てふためき始めた。裏返った声を事務室内に響かせながら、とんでもないことを口にする自分の上司に異を唱える。
「待って下さい! 佃さんのことは私達で何とかすると決めたはずじゃ!」
「……だが、こうなっては仕方がなかろう。この娘は、自ら解決の糸口を掴もうと歩み始めている。我らがその道を妨げるなどあってはならぬ。元来、人間の諍いに我らが干渉すべきではないのだからな」
「で、でもですね! 二人がまた喧嘩をしてしまったら――!」
「故に、今ここで記憶を見せるのだ。あの娘は真実を語らぬであろうからな」
「それこそ危険です! 人間に神の目線を許容できるほどの精神力はありません!」
「そうだ。よって、神の目線ではなく、あの娘の目線による限定的な記憶を見せる。さすれば、一時の混乱はあろうとも危険はなかろう」
「それは、そうですけど……」
小暮は肯定しつつも、やはり納得がいかないのか不満気な表情を見せる。どうにか宗光を止めようと思案するが、そんな小暮の肩に宗光がそっと手を置いた。
「……イオ。お前の人間を愛する気持ちは、本当に素晴らしいものだ。しかしな、行き過ぎた愛情は、時に大きな桎梏となる。お前も、そろそろそれを理解すべきだ。信じ見守るも、愛の一つであるぞ」
「ですが……」
「何も心配はいらぬ。この娘は、我らが見初めた人間なのだ。必ずや自らの足で立ち上がり、今一度手を取り合い、正しき道を進んでいくであろう。我らは、少しだけその背を押してやればよいのだ」
「……わかりました」
説き伏せられしょんぼりする小暮に、宗光は優しく微笑みかける。二人の議論は着地点を見出し、無事に終局を迎えたようであった。
しかし、それは二人の間だけで完結した話であり、愛莉には全く理解の及ばないやり取りであった。愛莉もそこに関わっているはずなのに、完全に置いてけぼりである。
「あの……結局どう言うことですか? 葵ちゃんの住所は教えてもらえるんでしょうか?」
「なんだ、聞いていなかったのか? お前には、まずあの娘の記憶を見せると言ったであろう。この世全ての記憶が刻まれる虚空アカシックレコードより当該の記憶を引き出し、我が力を持ってしてお前の海馬にそれを与えるのだ」
「……小暮さん」
「か、簡単に言うと、社長の力を使って佃さんの過去に何があったのか、その記憶を金園さんにも見てもらおうってことなの」
「……葵ちゃんの、記憶ですか?」
「ええ。金園さんの言う通り、今回の件は、佃さんが以前所属していたアイドルグループでの出来事が大きく関わっているわ。だから、佃さんと話をする前に、まず何があったのかを金園さんに知って欲しいの。話をするなら、それを知った上で佃さんと会って欲しいの。たぶん、佃さんは皆には――皆にだからこそ、そのことは言いたがらないと思うから」
「……でも、そんなことどうやって?」
「社長はね、記憶を司る女神なの。その力は、過去の記憶を引き出し、自分以外の誰かと共有することをも可能とするわ。詳しく言うと色々あるんだけど、とりあえずは神の力が引き起こす神秘、とでも思ってもらえればいいから」
「はぁ……」
「……なんだ、反応が芳しくないな。別に見ずとも構わんが、その場合はお前をあの娘の下へやる訳にはいかぬぞ」
「……いえ、見ます。見せて下さい」
断る理由などあるはずがなかった。元より、それは葵から聞くつもりだったことである。宗光の力でその記憶を見るのが葵と会う条件なのであれば、むしろ願ってもない条件だ。
それが、本当に可能であればの話だが。
「うむ。では、早速始めるとしよう。イオ」
「はい。金園さん、ここに座ってくれるかしら」
小暮はそう言って、自分の席の椅子を愛莉に差し出した。
愛莉は今だ半信半疑であったが、言われるがままにその椅子へと腰を降ろす。そして背筋を伸ばし、目の前にそびえ立つ宗光を仰ぎ見た。
『それにしても……大きい……』
思わず、心の中でそう呟いてしまった。元々ハリウッド女優並のスタイルを持つ宗光だが、椅子から見上げると改めてそのすごさが際立って見える。
出る所は出て、締まる所は締まった理想的なボディライン。愛莉は、まるで二つの実をぶら下げたヤシの木を目の前にしている気分になり、一瞬これからのことを忘れてしまいそうになった。
「……? どうした? 我に何か可笑しな所でもあるか?」
「あっ――い、いえ! なんでもないです!」
「あまり気を抜かぬ方が良いぞ。ごく一部とは言え、別の人間の記憶を圧縮して流し込むのだ。その身に与える影響は少なくない」
「わ、わかりました……」
「では始めるぞ。眼を閉じ、心を落ち着かせるのだ。何が起こったとしても、決して自らを失わず、ありのままを受け入れろ」
「……はい」
愛莉は、深く息を吐きながら目を閉じる。心を落ち着かせるため、肺に溜まっていた空気を雑念と一緒に体の外へと送り出した。
視界は暗転し、普段は気付かない自分の鼓動で体が小さく脈打つ。目を閉じたことで周囲の状況が掴めなくなり、これから何をされるのか少し不安になった。だが、その不安を肥大化させないよう努めて呼吸に意識を向け続けた。
すると、額に微かな温もりが現れる。
感覚から察するに、目の前にいる宗光が自分の額に手をあてがっているのだろう。大きくて柔らかな手の平としなやかに伸びる五本の指が、優しく愛莉の額を包み込んでいる。その温もりが何とも心地よく、愛莉は自然と心を落ち着かせていった。
「そろそろ良さそうだな。準備はいいか?」
「……はい。お願いします」
「うむ。では、ゆくぞ」
「……」
「我は女神ムネーモシュネー! 我が神力にて此の者と彼の地の記憶を分かつ! σύνδεση!」
「――!?」
暗闇が、一瞬で光に呑まれた。
手足の感覚がなくなり、見えない渦が体をさらって行く。
向こうから、何かが迫ってくる。
「――しなくていいよ。わたしは須藤マリア。よろしくね、葵――」
「――あははは! 葵、転んでるし! ってか、そんな真剣にやったら疲れない? たかが練習なんだから、テキトーにやればいいのに――」
「――あのさぁ、佐藤さん。デビュー曲の歌詞、変えられないんですか? 何か英語が多くてイヤなんですけど」「いやいや、マリアちゃん。せっかく有名な作詞家さんが作ってくれたんだよ? 今更変えるのはちょっと……」「でも、わたしこれじゃあ歌えないんだけど。まあ、佐藤さんが出来ないんならパパに頼むからいいけど――」
「――ってか、何怒ってんの葵? コンベンションライブって業界関係者しかいないんだから、別に本気でやらなくてもよくない? ってか、アイドルなんだから歌とダンスがヘタでもいいじゃん。その方が可愛いし、楽しくニコニコやってりゃファンは喜ぶんだから――」
「――うるっさいなぁ。あんたに言われなくたってわかってるし。ってか、葵ってヤル気ありすぎじゃない?――」
「――はぁ!? まじウザいんですけど! あんたにわたしの何がわかんだよ! 良い子ちゃんぶるのもいい加減に――」
「――全部あんたの所為よ! あんたが全部悪いのよ! 返せよ! わたしのデビューを返してよ!!――」
「――許さないから。絶対に――」
「――ッ!!」
「金園さん!!」
次々と迫ってくる覚えのない記憶。
愛莉は意識を失いかけ、逃げるように椅子から転げ落ちていた。“初めて見るものを思い出している“という矛盾した感覚に混乱し、耐え切れなくなった頭が拒絶反応を示したのだ。咄嗟に小暮が手を差し伸べてくれはしたが、手足に力が入らずその場にへたり込んでしまう。顔を上げることすらままならず、ぼやけた視界が床だけを映し出し、心臓が激しく脈打ちまともな呼吸ができない。
「金園さん、落ち着いて! もう大丈夫だから!」
小暮に背中を擦られながら、深呼吸を繰り返して何とか呼吸を整える。
時間にして数秒の出来事であったが、その数秒が何時間にも感じられるほどの苦しみだった。
「……す、すみません小暮さん。もう、大丈夫です」
「本当に大丈夫? 無理しちゃダメよ」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
そう言って、愛莉は小暮の手を借りつつ立ち上がった。予想外の影響に驚きはしたが、とりあえずこれ以上何かが起きる様子はないようだった。
「……どうだ。あの娘の過去に何があったのか、その一部始終が垣間見えたであろう」
「……はい」
落ち着きを取り戻した愛莉に、宗光が語りかけてくる。
その言葉で、愛莉はあの記憶を今一度思い出した。今度は自らの意思で思い出したからか、混乱もなくすんなりと脳内にその光景を映し出すことが出来る。
そして、全てを思い出した時、愛莉の決意はより強固なものとなっていた。
「……話をしなきゃ、葵ちゃんと」
最初は、単純な怒りだった。
葵は、ただ純粋に、真っ直ぐにアイドルを目指していた。本当に、ただそれだけだった。それなのに、それをうるさいと跳ね除け、ウザいと罵り、全くヤル気を見せないあの女の子に怒りしか覚えなかった。
葵は何も悪くない。葵は自分と出会う前から、アイドルに憧れ、アイドルに向かって一生懸命に走り続けていたのだ。
それがわかった瞬間、愛莉は葵と言い合いをしたあの時のことを思い出す。
そして、全てが一つの線で結ばれた。
「社長、小暮さん、ありがとうございました。少しだけ、葵ちゃんの気持ちがわかった気がします」
「そうか……では、取り乱すことなく、冷静にあの娘と話が出来るな?」
「はい。もう、あんなことは繰り返しません」
「金園さん……」
「……よかろう。では、コナにあの娘の下まで案内させる。少し待つが良い」
「え? あ、あの……住所さえ教えてもらえば一人で行けますけど……」
「遠慮する必要はない。向かうはすぐの所であるからな」
「……?」