8 おまえはアレか、そういうアレなのか
さらに、数日の後。
動けるようになった私は、壊れたバイクを荷台に積んで彼女を助手席に乗せて、最寄りのバイク屋を目指していた。
この場合の最寄りというのは太平洋沿岸のK市、コタンから一〇〇キロほど南ということになる。ほぼ一直線の道が延々と続くが、前にも後ろにも対向車線にも他の車の姿は一切見えない。路上に何かいるとしたら、ほぼ間違いなくエゾシカである。
何日か前にも私はこんな中を旅していたわけだけれど、オホーツク海沿岸を南下していたそのときとでは、私の心境はまったく違っていた。
つい数日前まで、私ははっきりとした目的もなく独りだった。
今はくるみがいる。彼女の小さなぬくもりが私の肩にもたれ、安らかに寝息をたてている。
寝言をつぶやいたりする。いびきをかく。もぞもぞとよく動く。果ては、歯軋りまでしやがる。
非常に運転しづらい。
よくもここまで赤の他人に気を許せるものだと思う。
こいつは少し危ないんじゃないか。頭の中身ということではなく、身の安全という意味で。
私は見た目のせいで人からよく恐がられる。警戒心が強い上に、他人を近づけようとするつもりがないから、しぜんと敬遠されるのが常だった。
「おまえは私が恐くないのか」
声にだしてつぶやいてみる。
初めて会ったときのことが思い出される。恐がっていたのはむしろ私のほうだった。くるみはまるで、私が誰か知っているみたいだった。
誰かと間違えているのか。誰かの影を私に重ねているのか。
空っぽのあの家を思い出す。彼女が「私の家」とは呼ばなかったあの家。肌寒い、ただ家族の痕跡だけが残っていた、あの広すぎる家。
尋ねればたぶん、こいつは答えるだろう。あらかじめ用意しておいた、奇妙奇天烈な嘘を。こいつはきっとそんなふうにして、自分の弱い部分を守っているのだ。だったら、私は踏み込むべきではない。知る必要があるのは、くるみの過去ではない。
私はこのあと東京に戻り、自活しながら創作に打ち込む、そのつもりでいた。でもそれは、本当に確信を持ってくだした結論だっただろうか。
地方と中央の違い、発表の機会やギャラリストの質、東京を選ぶだけの合理的な理由はいくらでも並べられる。
でも、東京に戻ってそれから、私は何を目指し、どんなものを作っていくつもりなんだろう。
私にはその答えがなかった。
日本最上級の教育を受けて、技術や思想はこれ以上望み得ないくらいに詰め込まれたが、私にはそれを活かすべきモチーフが欠けていた。
それは人まねをしていれば見つかるものなのか。
闇雲に創作を続けていれば出てくるものなのか。
わからない。
わからないまま、ただ追い立てられるように旅を続けている。
未明との約束を果たすため? 違う。ただ、自分の空虚さから目をそらすためだ。
私は車を止めた。
「おまえは私の何を知ってるんだ?」
私は何者なのだろう。何者になるんだろう。
「にゅうん」
母猫に甘える子猫みたいな、くるみの寝言。私はどこまで遠くへ行くのだろう。どこに私の居場所があるのだろう。こんなふうに温かく柔らかなものと寄り添っていられる時間が、この先の人生にどれだけあるのだろう。
どういうい慣性が働いたのか、くるみの身体が私のほうに倒れかかってきた。
シートベルトに拘束されて結構苦しい体勢だと思うのだが、それでもくるみは目を覚まさない。私もそのままずっと、彼女の重さを受け止めていたいと思った。
「あ、こら」
「にゅうう」
くるみの手が私の胸に触れている。本当に子猫みたいな奴だ。
「こら、くすぐったいから……触る、なって」
おまえ、親はどうしたんだ。
拾った子猫に話しかけるように、そう訊いて見たくなる。
「おまえ、本当は起きてるんじゃないだろうな……って、……うわ、そこは、やめ……あ……だめ、だって……や、め……やめんかあっ!」
髪の毛をつかんで無理やり引き剥がした。くるみはくすくす笑っている。もちろん、完璧に目を覚ましている。
「しずくちゃん痛ーいー」
「なんだおまえは、アレか、そういうアレなのか。私の身体に、その、あの……だーっ」
恥ずかしさでわけが分からなくなって絶叫した。
「しずくちゃん、顔真っ赤。かわいー」
「こっち見んな、馬鹿、変態」
身体で払ってもらう、というのはこういう意味だったのか。いや、これもまた別の悪ふざけなのか。
「と、とにかく、もうすぐ市街地だから、おとなしく座ってろ」
「えー」
「次に私に触ったら、縛り上げて荷台に放り出す」
「ええっ!しずくちゃんてそういう趣味なの?」
がつん、とハンドルに頭突きをかました。ダメだ、完璧に遊ばれている。
「頼む、お願いします。静かに座っててください」突っ伏したままそう言った。
「うむ、おまえがそこまで云うのならな」
間近の人間から性的なまなざしを向けられ続けるというのがどういう経験か、私はこのとき初めて理解した。一時間あまりの緊張に満ちたドライブの末、目的のバイク屋に到着したときには、安心のあまり腰が抜けたようになった。