1「レイルと過ぎ去りし過去」
レイル視点です。
山積みになった書類。書き損じた紙ゴミ。資料や報告書の挟まったファイル。それらが散乱した机を前に、僕はようやく休憩という言葉を思い出した。
長時間座っていた体は、少し動くだけで悲鳴を上げる。仕事に集中しているときは感じないのに、休みたいと思ったときに痛みを感じると何か不公平に思う。とは言え、急ぎで仕上げなければならないものはなくなった。後はゆっくりやればいいと思うと、むしろこの体の痛みは休憩の口実になるだろう。
休憩に言い訳が必要なわけはない。しかし特殊な地位に居て、その上幼いと言っていい年齢の僕はとかく攻撃対象になりやすい。嫌み程度でも後々まで煩く言ってくる奴らがいるから、出来るだけつけ入る隙は作りたくない。
まあ、そういう世界に行くと決めたのは僕自身だ。後悔なんてあるはずがない。そう、後悔なんて、していない。
意識しないで溜息が出た。その大きな音に笑みが出る。限りなく自嘲的だったけど。
放っておくとどんどん思考の海に沈んで行ってしまいそうだ。それはともすると古傷を抉りかねない。仕事に戻ろう。そうすれば、思い出したくないことが脳裏に甦るのを防げる。
無造作に手に取った書面に目を落とす。そこには、つい先日正式に停戦したあの戦争もどきの報告が書かれていた。
同時に思い出すのは、あの時再開した兄弟弟子の顔。腑抜けた笑みと、能天気な考え。昔から何も変わっていない姿は、安心と微かな苛立ちを僕に与えた。
タクト。樵の息子だった彼が何故魔法を学ぶに至ったのか、僕はその詳細を知らない。彼自身が話したがらなかったのと、僕の興味が湧かなかったことがその理由だ。今でも特に知りたいとは思わない。
とにかく彼と僕は同じ師の下、魔法を学ぶ仲だった。それが今は王立魔術師と流れの魔法使いだ。選んだ道の違いだが、彼は地位も何もない身分であっても変わりなかった。
純粋に疑問だ。不安定な足場に居て、何故そうも笑っていられる。僕はこんなに歯を食いしばっているというのに・・・。
別にそれが悪いわけではない。そうではないのだが・・・、やっぱり思うところはある。認めたくはないが、自由に旅する彼に嫉妬のような、羨望のような・・そういった感情を覚えているのだろう。かつて同じ立場に居て、そして今の僕が手放してしまったものをタクトは手にしている。それが苛立ちに繋がる。
僕の方がどう考えても恵まれているというのに・・・。笑ってしまう。やはり自嘲のような笑みしか出てこないが。
手にした紙を山に戻す。タクトの顔を思い出したら、仕事に戻る気分ではなくなってしまった。本当に気の抜けることしかしない奴だ。
本人が居たら文句の一つも言ってやるのだが。しかしあいつのことだから、いつものように笑って聞き流しそうだ。いつだったか、僕が本気で怒っていないのを良いことに好き勝手したことがあったな。
あれは・・・・、そうだ、師匠と出会って間もない頃。タクトとも当然初対面に近くて、お互いのことが分かっていなかったときのことだ。
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自分で言うのもなんだが、僕は天才だ。6歳にして、何をしても優秀な成果を出せた。そんな僕でも一朝一夕で体得できないもの。それが魔法だった。
でも簡単にいかないからこそ、僕は魔法を得たいと思った。だから僕は高名な師を仰ぐことにした。
そう決めたんだから、何の結果も出さず帰るなんて選択肢は存在しない。存在しないけど・・・。
「納得できない」
「どうした、レイル?何か分からないことでもあったのか?」
顔を顰める僕を覗きこむのは、僕と同じく師匠の下で学ぶ兄弟子、タクトだった。僕はこいつの存在がそもそも納得できない。
年上なのはもちろんだが(僕の年齢で本格的な学習をしている者は少ないのだ)、それにしては落ち着きがないし、同じことを何度も教わっているし、僕と比べるのもおこがましいくらいの劣等っぷりだ。
なのに師匠は彼に多大な、僕に対する比じゃないくらいの期待を寄せている。それが何より納得できない。僕の方がどう考えても優れているのに、何が師匠の目に留まったのか分からない。
だから僕は彼のことが嫌いだった。この時も僕は彼を完全に無視した。
彼はしばらく僕の顔を窺っていたけど、諦めたようにその場を去った。外へ出ていくのを待って、僕は師匠のところへ行った。今日こそは彼を弟子にした理由を訊き出すのだ。
僕たちの師匠は高齢な方だった。年齢を感じさせない動きをするとは言っても、見た目はもう立派なお爺さんだ。それでも魔法の研究を断念することはない。その姿勢が好ましくて、僕は心の底から師匠を尊敬していた。例え出会ったばかりであり、噂でしかその人と為りを知らなかったとしても。
「師匠、今少しよろしいですか?」
「ん、レイルか。もちろんじゃ」
好々爺然とした笑みがこちらを見る。僕はそんな師匠に率直に疑問を投げかけた。「何故タクトを弟子にしたのか」ということを。
僕がそのことで納得できていないことを、師匠は気付いていたみたいだ。思案気な顔を見せつつも、師匠の目には穏やかな光があった。まるで可愛い孫たちを見る祖父のような目だった。
むず痒い思いをしながら、静かに師匠の言葉を待つ。
「・・そうじゃな。理由はいろいろあるのじゃが・・・・」
ふと僕を見て、少し笑った。こういう時、師匠は決まって難しい問いを出してくる。
「答えは自分で掴み取るものだ」。
そう言って答えは絶対に口にしなくなる。多分、今回もそうだろう。その予想は当たった。
「ワシが言っては意味がないように思うのぉ。どれ、レイルよ。自分でその答えを捜してみてはどうかな?」
「・・捜すと言っても、どうすれば良いのか分かりません」
分からないからこそ訊いている、とも言える。そして僕は、タクトについて必要以上に考えたくないとも思っていた。でも師匠はそれを許しはしなかった。
「簡単じゃ。タクトと一緒に居れば、自ずと分かるじゃろうて」
そんなわけない。と思ったけど、言わなかった。一緒に居るのが嫌だ、という本音も黙っていた。師匠を尊敬するが故に、僕は彼の言葉を否定したくなかったのだ。
かくして僕はタクトと行動を共にすることになった。
タクトはよく外へと出ていく。狭い所が苦手とかではなく、何か理由があるらしい。
その日初めて一緒に行くと言った僕を、タクトはどう思ったのだろうか。表面上は笑って承諾したが、内心は分からない。そう、僕は彼のことを何も知らないのだ。
樵の息子で、僕より少し早く師匠に弟子入りした。そしてよく外出する。彼について知っていることは、それだけだ。「知っている」なんて誇張にすぎない。僕らは知り合いにも満たない他人だった。
タクトの後ろを付いていく。やはり彼は何か目的があるようだ。迷うことなく道を行く。方角からして街へ行くのではないらしい。
しばらく歩くと山に出た。山と言っても、樹が乱立しているだけのただの丘だが。とにかくタクトは、その中へ踏みこんでいく。そうなると僕も行かざる負えない。獣道を通って中ほどまで進む。
「おーい!」
前を行くタクトが急に大声を出した。足元に集中していた僕は驚いて木の根に躓いてしまう。転びはしなかったけれど、ハタ迷惑なことには変わりない。
文句を言おうと顔を上げた僕の視界に何かが入る。とっさにそちらを見ると、その何かが僕の方へジャンプしてきた。予期していなかった攻撃に僕は為す術もなく倒される。そして顔を湿ったものが撫でまわしてくるのを、ただ受け止めることしかできなかった。
「ああ、駄目じゃないか、エル。・・レイル、大丈夫か?」
胸の上に乗ったそれを、タクトが抱え上げる。身を起こした僕は、ようやくそれを見ることに成功した。そいつは犬だった。真っ白な毛皮の犬。長い舌を出して、へっへっへっと荒い息遣いをしている。どうやらさっきの湿ったものはこいつの舌だったらしい。
無言で顔を拭った。気持ち悪い感触が消えない。僕は動物が嫌いだ。
「・・・何だよ、その犬」
「エルっていうんだ。可愛いだろ?」
そんなことは訊いていない。抗議の視線は伝わらなかった。犬の頭を撫でて一人嬉しそうに笑っている。どうやらタクトは動物好きらしい。そんなどうでもいい情報は知りたくもなかった。ただ、能天気すぎるその笑顔に怒りも湧かなくなっていた。
結局、僕の問いは明確な答えを得ないままだった。それはそれで別に良かったけど、その後からが問題だった。
何を思ったのか、その日からタクトは犬のところへ行くたび僕に報告するようになったのだ。更に2回に1回は「一緒に行かないか」と誘い、帰って来ては「エルも会いたがっている」と言ってくるようになった。
「迷惑だ」と言っても聞かない。何度か無理矢理連れ出されもした。そんな日々を過ごして、いつの間にか僕たちはそれなりにお互いのことを知るようになった。
・・・まあ、師匠が僕に掛ける以上の期待をしている理由は、最後まで分からなかったけど。
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かつてあった時間を思い出していたら、結構時間が経ってしまっていた。目の前の書類が存在を主張している。そろそろ再会しないと。
ペンを手に取る。と、どうでもいいことを思い出した。
「あの犬、今どうしているんだろう・・・」
確かタクトは、里親が見つかったとか言っていたような気がする。笑っているのに寂しそうな顔をしていて、柄にもなく慰めの言葉を掛けてやったっけ。どっちが年上か分からない状況を、師匠は温かい目で見ていた。
まだ元気でやっているだろうか。犬の年齢なんて知らないが、人より早く死ぬ生き物だ。もういないかもしれない。
帰りたいと思っているわけじゃない。でも今日は妙にあの頃を思い出す。「あの時は良かった」とかそうも思わない。今は今でそれなりに楽しめている。
じゃあ、何で思い出すんだろうか・・・。
「・・・・・」
これが片付いたら、久しぶりに休暇が取れるだろう。そうしたら、故郷へ帰る前に、師匠の墓参りに行こう。
手元の紙に文字を綴りながら、そう決めた。




