猫と聖夜
この世界には人間と獣人がいる。
人間、の説明はいらないでしょう?皆もよく知ってるだろうし。
そろそろ時間だから、さっさと獣人の説明をしよう。
猿以外の動物から進化したヒト型のイキモノ、それが獣人。
とはいえ、どんな動物でもいいってわけじゃない。犬とか、狼とか、ライオンとか…まぁ、色々いるけど、どれも体全体が毛で覆われているのがセオリー。
獣人は毛むくじゃらで二足歩行する大きな動物をイメージしてもらえれば近い、と思う。
人間と獣人は仲が悪いわけじゃないけど、見た目はもちろん、風習とかが違うから基本的に別々に暮らしている。大きい街に行けば両方が入り乱れているのも、まぁ見れるけど。
空を見る。
まだまだ光は射してこないけど、時計台の時間からして頃合いとしてはちょうどいいはず。
あたしは腰掛けていた建物を無造作に蹴る。
ふわり、と内臓が置いていかれる感覚とともに、雑多な煉瓦造りの街並みが視界を急スピードで流れていく。
特に意識しなくても、地面が近づくと体が半回転して足が下になる。
足を曲げて衝撃を殺す。
裸足の足に石の冷たい感触が伝わってくるけど、それにもすぐ慣れる。
半瞬遅れて伸ばしっぱなしの髪の毛が背中に落ちてきて、あたしは壊れかけて明滅する街灯の下に降り立った。
くぅ、と間の抜けた音が寝静まった街に響いて、そういえば今日もまだ何も食べていなかったことを実感する。
「…お腹すいたなぁ」
今日初めて出した言葉は乾燥した空気のせいかひどく掠れていて、少し笑えた。
早くいかないと、なくなるかも。
そうなっちゃえばこの寒空の下、わざわざ寝床を出てきた意味がなくなっちゃう。
降りる時に見た、明るい光の灯る方向への道を探して、キラキラしい飾り付けのされたショーウィンドウが目に入る。
そこに映った人影は、人間のようなつるつるの肌に、ぼさぼさの黒くて長い…人間風に言えば髪の毛を持っている。でも、耳は黒くて三角で、お尻からは長いしっぽが生えていて、ぱさついた毛におおわれている。
それが、あたし。人間に猫の耳としっぽをくっつけた姿。
獣人のなりそこない。
そこに辿り着いた時。
ちょうど表の電気が消える瞬間で、あたしはそのタイミングの良さににんまりする。
今日のご飯には間に合ったようだ。
ごみの散らかる裏路地に入る。
肉や魚や野菜、あらゆる生ごみの匂いが嗅覚に優れたあたしの鼻を刺す。食べ物は腐りかけが一番おいしいって言うかもだけど、これは明らかに腐っているだけの匂い。
目的の扉から少し離れた場所にある、真っ黒なごみ袋の後ろに座り込んで、待つ。
ところどころ猫か何かに引き裂かれたごみ袋からは、魚の骨とか、果物の皮が覗いている。
あたしもやったことあるけど、人間のごみには意外と食べられるものがある。最近は烏とか野良猫が集まることを嫌がって、ごみを外に出さない街が多いけど、さして大きくもないこの街の路地裏ではまだまだ。
ありがたいことだけど、あたしの目的はこれじゃない。
ごみ袋から辺りをうかがうように首を伸ばす。
目的の扉の前にはすでに猫が何匹かたむろしている。どの猫も小さくてまだ子供だ。
あたしも、こんな中途半端な生き物に生まれるくらいだったら、ただの猫に生まれたかった。そうしたら、ご飯も寝床ももっと簡単に手に入れられるのに。
ここを見つけたのは単なる偶然だった。
獣人の町から売られた先は人間の好事家の元だった。
蒐集品の一つとしてあたしはそこにあった。
それなりに良い生活をさせてもらったと思う。
キレイな服を着せられて、おいしくて温かなご飯を与えられて。毛並みはいつも整えられてつやつや光っていた。あたしはあたしの持ち主やその友人たちの前で、この奇異な体を愛でられれば良いだけだった。
でも、あたしのことは全部、あたし以外の人が決めていた。
だから。
生まれてからぴったり15年を数えた夜、抜け出した。捨ててあった布を頭からかぶって闇にまぎれて人間の街を転々とした。耳としっぽさえ隠せば獣人の町にいる時よりも、あたしはよっぽどうまく擬態できた。
ごみをあさることも覚えたし、寝床の見つけ方もうまくなった。
そして、いくつか目の街がここだ。
きぃ、とここ何日かで訊きなれた音がして灯りが漏れてくる。
「今日も来たんですか。」
寒々しい日の出前の路地裏に、同じくらい冷やかな声が落ちてくる。
にゃあにゃあ鳴く声がいくつも重なるようにして自己を主張している。
「仕方のない仔たちですね。全く…ちょっと待っててくださいよ。」
絶対に見つからないように、身を縮こまらせる。
あと少し、あと少し。
きぃ、とまた蝶つがいがきしむ音がして、かん、と乾いた音がする。
と途端に何かを忙しなく咀嚼する音が響く。
「本当に良く食べますねぇ。明日は聖夜ですからそれは特別メニューの試作品なんですよ。おいしいでしょう?」
変な人。獣人でもないただの猫に話しかけてる。
ひとしきり、相手の居ない会話をして、その人はいつもと同じように扉を閉める。
漏れていた光がなくなるのをしっかりと確認してから、扉の前へ向かう。
仔猫たちが帰った後に残された、銀色のボウル。
さっきから良い匂いをさせているそれをのぞきこめば、乳白色でまだ温かな食べ物が残っていた。
匂いを嗅いで、食べれることを癖で確認して、口に運ぶ。
どことなく甘くて、お腹が温まる。
お腹いっぱい、とはいかないもののそれなりに満たされる。
最後の一滴までしっかりと舐めとって、物足りなさも一緒に呑みこんで、扉の前をあとにする。
そろそろ夜明けだ。
この中途半端な姿が明るみにさらされる前に、寝床へ帰ろう。
その日は普段にあるまじくうるさかった。
あまりのうるささに寝床から這い出てみれば、まだ太陽が中天にあった。
音楽が鳴り響き、人間の話し声も沢山聞こえる。
少し考えて、今日が『聖夜』だったことを思い出す。
一年間で一番多くの灯りが付いて、おいしそうな匂いがあふれて、うるさい日。
何でも人間の信仰する神様が生まれた前の日なのだそうだけれど、獣人には神様がいないから良く分からないし、あたしには関係ないからもう一回寝ることにする。
人間よりもずっと耳が良いけど、丸まって耳をふさげばそれなりに静かになるから。
次に目を覚ますと、やけに寒かった。
辺りはもう暗くなっていて、いつもの静寂が街を包んでいた。
何となく、安心して寝床からそろり、と出て見れば真っ白なものが空から落ちてきていた。
触れれば透明な水に変わるそれをあたしは見たことがなかったけど、雪というものがあることは知っていた。たぶんこればその雪なんだと思う。
髪の毛にも体にもまとわりついてくる白いものはあっという間に水にかわって、あたしの体を重く、冷たくする。
今日は寝床に帰った方がいい。
くぅ、とお腹が返事をする。
頭は冷静に見の振り方を考えているのに、お腹は正直に欲求を訴えている。
「おかしいなぁ…ご飯にありつけないことなんて慣れたと思ってたのに。」
最近は毎日食べ物を食べていたから、こんな空腹のまま寝床に戻りたくないとしきりに主張する。
それに、辺りにはまだまだそれとなく漂うおいしそうな匂い。
ふるふるっ、と体をゆすれば、水滴がいくつも飛び散って体が軽くなる。
雪で滲む視界の中から、いつも通る道を見つけて、まだ誰にも荒らされていない雪の上に足を踏み出す。
いつもと違う感覚を足の裏に感じながら、あたしは駆け出す。
表の電気は、もう消えていた。
今日はまだ時計台を確認していないけど、時間的にはいつもよりも早いくらいのはずなのに。
裏路地に入れば一層冷える感じがして、毛も髪も服もずっしりと体にまとわりついてきて煩わしい。
少し大粒になってきた雪のせいで前がよく見えない。
いくら夜目が利くって言ったって視界を遮られちゃあどうしようもない。
少しずつ、少しずつ。警戒しながら。
いつの間にか扉の前まで辿り着いてしまった。
いつもは、あたしよりもよっぽど早くからいる仔猫たちの姿も、銀色に光るボウルもない、暗い中で立ち尽くす。
じわじわと奪われる体温。
やっぱり、あたしは馬鹿だ。仔猫たちでさえ今日は寝床で丸まってるだろうに、こんなとこまでのこのこ来てしまうなんて。
「…寒い。」
空腹にも、硬くて温かくない寝床にも慣れたけど。
こういう時には人間の持ち物だったあたしに戻りたくなることがある。
きっともっと動物の本能があればこんな馬鹿な真似はしなかった。
きっと獣人らしい見た目があれば獣人に混ざって生活できた。
いっそ人間と全く同じ見た目だったら人間として生きていけるのに。
「今日も来たんですか?」
温度を感じさせない声が上から降ってくる。
びっくりして毛が逆立つ。反射的に飛びずさろうとしたけど、寒さでうまく動かない体を持て余して雪の上に転げる。
「まさかこんな雪の中をやってくる馬鹿な仔なんていないと思っていましたが……」
その人間は転げたあたしに視線を合わせるようにしゃがみこんで、手を伸ばしてくる。
温かな光を背にしてその顔は良く見えないけれど。
「意外といるものですね。」
あたしの耳と髪の毛についた雪を落として、顔を覗き込んでくる。
「前から変だとは思っていたんですよ。仔猫たちには十分すぎるくらいのご飯を出していたはずなのに、ある日突然器が空っぽになるようになったんですから。」
光に慣れてきた目に、人間の持つ透けるような金髪が映る。
「猫が増えたのかと思えば、その姿は見えないくせに、量を増やして出してみればこれまた空っぽになるし。」
…そういえば初めのころと比べて随分と残るご飯の量が増えてきていた気も、する。
「まぁ、こんなに大きな猫が増えたのでしたらそれも当然のことでしょうけど。」
どうみても猫には見えないはずなのに、変な人だ。
「でも、残念でしたね。今日店はお昼で閉めているのですよ。聖夜の夜は家族と過ごすことが一般的で、商売になりませんからね。」
だから余り物はないんです、と言葉が降ってくる。
…そんなこと言われなくても、今日のご飯はとっくに諦めてる。というか、この姿を見られたから、もうここには来れない。この先、またごみをあさる生活に戻らなくちゃいけなそうだ。
結構、気に入ってたのに、ついてない。
人間の『聖夜』って欲しいものがもらえる日のはずなのに、あたしは明日からのご飯にありつく場所を失った。
雪を踏みしめて、立ち上がる。
とりあえず、はやく寝床に戻って丸まろう。
「どうせならうちの仔になりますか?」
背中にぶつかる、言葉。
「私、こう見えても無類の猫好きなんですよ。」
近所に内緒で夜中に猫に餌付けする程度には。
…この人にはあたしが猫に見えているんだろうか。どう見ても餌付けしていた仔猫たちと比べるより、人間と比べた方が似ている形をしているのに。
「とはいえ、食べ物を出す店なので猫なんて飼えなかったんですが、あなたなら問題にならないでしょう。」
振りかえって見てみれば、そのまっすぐにこっちを見る目とぶつかった。
あたしを、飼う?
猫みたいに?
「温かい食事と、寝床を提供しますよ?三食昼寝付き、なかなか魅力的な響きではありませんか?」
確かにそうだと、思う。
でも。
「……あたしの持ち主になるの?」
あの、蒐集家みたいに。
「持ち主?あなたは物ではないでしょう?」
表情は変わらないけど、心底不思議そうな声音。
「おそらくは獣人なのでしょうが、とりあえず生きていることは確かでしょう。」
…やっぱり猫だとは思わないか。
「それでどうするんです?寒いので早く決めていただきたいのですが。」
そんなこというなら、あたしに構わないで早く閉めちゃえばいいのに。
よくよく見てもその眼にあたしを利用したりしようっていう感情は見えない。
蒐集家みたいに、あからさまに珍しい物を手に入れたいっていう執着も感じない。
ただ雨にぬれる猫がすり寄ってくるのを待っているような、そんな感じ。
きっとあたしがこのまま寝床へ向かったら、それを見送って扉を閉めるんだと思う。
…もし、このうちの仔になったらあたしはどうなるんだろう。
この人間が仔猫にご飯をあげるとき、ほんの少しだけ声に温度が宿るのをあたしは知っている。
あたしは自由が好き。
自由のない持ち物としての生よりも、ごみをあさって街を転々とする生き方を選んだ。
これからも、あたしはあたしの生きたいように生きる。
だからあたしは一歩踏み出す。
そうして、あたしは聖夜に新しい温かな寝床を手に入れた。