第10話 格の違い
ドラゴンが咆哮した。
空気が破裂した。岩壁が震え、砕けた岩片が降り注ぐ。ライアは両手で耳を塞いだ。反射でやっと身体が動いた。声──いや、もはや声ではない。大気そのものが暴力になったような衝撃だった。
ドラゴンが顎を開いた。牙の一本一本がライアの腕ほどの長さがあり、その奥に灼熱が渦巻いている。ブレスか。あれを吐かれたら、岩棚ごと消し飛ぶ。
だが、ドラゴンはブレスを吐く前に、その巨大な顎でソルブレアに噛みついた。
──速い。
人間界最強の生物の一撃は、ライアの目では追えないほどの速度だった。上下の顎がソルブレアの身体に閉じる。やっと目が追いついた。万力のような顎が、小さな身体を──
「遅いのう」
ソルブレアの声が聞こえた。
ライアは自分の目を疑った。
ソルブレアは、ドラゴンの上顎と下顎をそれぞれ片手で掴んでいた。閉じようとする顎を、両腕を広げて止めている。よく見ればソルブレアの両腕に禍々しい魔力が宿っていた。
ドラゴンの顎が軋む音がした。閉じようとする力と、それを止める力が拮抗している──いや、違う。拮抗などしていない。ソルブレアの腕は微動だにしていなかった。
「いきなり噛みつくとは、礼儀がなっておらぬな」
ソルブレアはドラゴンの顎を掴んだまま、呆れたように言った。まるで行儀の悪い犬を叱るような口調だった。
ドラゴンが暴れた。尻尾を叩きつけ、翼で風を起こす。岩棚が揺れてライアの身体が転がった。だがソルブレアは顎を掴んだまま、ぴくりとも動かない。暴風の中心にいながら髪の一筋も乱れていなかった。
「暴れるでない。──余計に痛くなるぞ」
ソルブレアがドラゴンの上顎を引き上げた。ドラゴンの首が仰け反る。人間界最強の生物が、少女に首を持ち上げられている。その光景はライアの常識を根底から覆すものだった。
ドラゴンが尻尾を振り回した。太い樹木のような尻尾が、横薙ぎにソルブレアを狙う。
ソルブレアは顎を離し、跳んだ。尻尾の上に着地すると、そのまま尻尾を両手で掴む。
「おとなしくせぬか」
ソルブレアが尻尾を掴んだまま回転した。一回、二回──ドラゴンの巨体が宙に浮いた。人間界最強の生物が、振り回されている。三回転目で、ソルブレアが手を離した。
ドラゴンの身体が岩壁に叩きつけられた。
轟音。岩壁が砕け、灰色の粉塵が舞い上がる。地面が大きく揺れ、ライアは岩にしがみついて身体を支えた。
粉塵が晴れると、ドラゴンは岩壁にめり込んだまま動かなくなっていた。完全に力が抜けている。金色の目が辛うじて動いているが、もう抵抗する意志は残っていなかった。
ソルブレアはドラゴンの頭に飛び乗ると、角の根元を覗き込んだ。
「ふむ……この角でも持ち帰ればよかろう」
小さな手で角を掴み、捻った。だが角はびくともしない。
「硬いのう……んん……ぬぐぐ……」
ソルブレアは両手で角を握り直し、足をドラゴンの頭に踏ん張って引っ張った。ドラゴンの頭が揺れる。それでも角は折れない。
「くっ……この……頑丈な角じゃな……!」
ソルブレアは爪を立てて角の根元を削り始めた。ガリガリと嫌な音がする。
その時、ドラゴンの喉から、低い音が漏れた。
咆哮ではない。もっと弱い、震える音だった。
──泣いている。人間界最強の生物が、角を削られて泣いていた。金色の目から、大粒の涙が零れ落ちている。
ソルブレアの手が止まった。
ドラゴンの涙を見下ろして、ソルブレアは少しだけ顔を曇らせた。
「……済まぬな。痛いか」
ドラゴンは答えない。ただ、涙を流している。
「長引かせる方が酷じゃな──すぐに終わらせてやる」
ソルブレアの手元が光った。何をしたのか、ライアには分からなかった。ただ一瞬、ソルブレアの掌から眩い光が閃いて──次の瞬間、ドラゴンの瞳から光が消えていた。
静寂が降りる。
風の音だけが、ライアの耳に届いた。
ソルブレアはドラゴンの頭の上に座ったまま、しばらく動かなかった。それから、折れた角を持ち上げた。太さがライアの頭ほどもある漆黒の角だった。
「終わったぞ」
ソルブレアは角を抱えて岩棚に降り立った。ライアの前に立ち、角を差し出す。
「ほれ。これがお主の欲しかったものじゃろう」
ライアは震える手で角を受け取った。ずしりとした重み。ドラゴンの体温がまだ残っている。
……何も言えなかった。
目の前で起きたことが、まだ頭の中で処理しきれていない。人間界最強の生物が、この小さな少女に──顎を止められ、尻尾を振り回され、岩壁に叩きつけられ、そして一瞬で命を奪われた。
所要時間は、三分にも満たなかった。
ドラゴン。A級冒険者が複数パーティで挑む相手。あの咆哮、あの顎、あの尻尾──ライアは最初から最後まで見ていることしか出来なかった。身体が動かなかった。足が震えて、立ち上がることすら出来なかった。
それを──ソルブレアは欠伸をしながら倒した。
「ソルブレアちゃん」
「ん?」
「……ありがとう」
「礼はよい。我は家臣に優しい姫じゃからな」
帰りの空は、行きよりも長く感じた。ライアは角を胸に抱えたまま、眼下に広がる景色をぼんやりと見つめていた。
ソルブレアがドラゴンの涙を見て、手を止めたあの一瞬。それでも命を奪い、角を折ったのはライアのためだ。ソルブレアは情を殺して、自分のためにドラゴンを倒してくれた。
この角を無駄にしてはいけない。ソルブレアが背負ったものを、意味のあるものにしなければ。
ライアは角を抱え直した。胸の奥で、恐怖とは違う何かが、静かに燃えていた。




