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水古郷

作者: snow
掲載日:2026/05/03

snowと申します。

多くの素敵な作品が投稿されている中、お会いできたことを嬉しく思います。

思うままの世界を自由に書かせて頂いてますので、気楽に読んで頂ければ良いなぁと思っています。

誤字脱字などは注意していますが…ご容赦くださいませ。

では、最後までお楽しみください。

すべてが水で覆われている惑星が存在していた頃、そこにある生命体は優雅に水中を散歩していた。重力すら感じないその世界で流れに身を任せて漂う。

透き通った美しい世界の中、色とりどりの植物や生物たちも楽しそうに身体を揺らしている。

そんな穏やかな世界の調律に、一筋の亀裂が入った。

小さな、小さな生命のかけらによって…

時刻ときの流れさえ緩やかに感じる水中の世界に突如現れた小さな球体。それは微かに生命のぬくもりを放つ不思議な玉。

やがて半透明な球体の中、何かがゆっくりと動き出す。少しずつ形を手に入れながら成長していき、強いずかに何かが開く。

あ…今、視線が…重なった?

そして無言のまま、時刻ときが流れてゆく。

しばらく見つめ合っていた瞳は、ゆうるりと笑を浮かべ…

「……」

静かに何かを告げているようだった。


人は水に溺れ、魚は光に溺れる。


その言葉が事実なのか、デタラメなのか定かではないが、ずっと頭の片隅にある。


たまに人の溢れかえる街を歩いていると、不意に光の渦に飲み込まれて軽いめまいを覚える。そんな時は仕方なく人波から外れ、落ち着くまでの間、路地裏の壁に背を預けて流れゆく景色をぼんやりと眺めてみる。

建物の隙間から見上げれば、どこまでも澄み渡る大空を颯爽と駆け抜ける風の囁きが聞こえてくる。

街の喧騒を遮るために目を閉じれば、限りなく澄みきった大海を悠然と包み込む波の唄が

耳に届いてくる。

どちらの空間も、懐かしてく好きだ。


そして、誰もいないその空間で目を閉じていると、唯一存在しているはずの自分自身さえ、このまま消えてしまいそうなほど、不明確で頼りないものに思えてくる。それなのに…

ただどこまでも広がっている地平線や水平線を見つめて、この世界の端を探している自分の姿をしっかりと想像しているのだ。

心のどこかで「終わりが来ること」を望んでいるのだろうか…それとも「終わらないこと」を望んでいるのだろうか…もしかしたらそのどちらでもなく、ただ何かを捜し求めているだけなのかもしれない。


「……」

ふと何かが聞こえた気がして、閉じていた目をハッと開く。

「気のせい、だよな。」

まるで白昼夢を彷徨う旅人のような感覚を手放し現実に戻ると、俺は再び人波に紛れて歩き出した。

きっとこんな幻想がこれから先も繰り返されるのだろうな、と思いながら歩いた。


「あー。ほんっと、毎日暑すぎだろ。」

いつもは閑散としている居心地の悪過ぎるこの場所。普段はほとんど連絡がつかない音信不通の集団のくせに、エアコンの効きまくった楽園と化す時期だけは一体どこから湧いてきたのか不可解な数の人間が生息し始める。

そして姑息な攻防戦を勝ち抜いた者が、この楽園の特等席を得るのだ。…で現状、その特等席でエアコンの恩恵を受けているのはオレなのだが…

「はぁ。遅れるわけにもいなかいかぁ。」

少し大きめの声で言ってわざと重苦しいため息を吐き、仕方なく席を明け渡した俺は恨めしそうに時計を睨みつける。

「あーあ。己の運のなさを嘆くわ。」

ぐだぐだと理由をつけて出かけなくても良い方法を探ってみたが、助けてくれる心優しいヤツなんているわけがない。やっぱり行くしかなさそうだ。

当初から誰も引き受けたくない案件だったし、しかも依頼主はオレの事を指名していたのだから、断れないのもわかりきっているけれど、こんなにも薄情なヤツらだったのかと、改めて心に刻みつけてやった。

「こんな日に…予定なんか入れるもんじゃないな。」

というよりは、最近のこの暑さが異常過ぎるのだ。少しの間とはいえ楽園で癒されたはずの身体は、ドアを開け外気に触れた刹那、文字通り一瞬で蒸発しそうな程の殺意を感じる暑さに襲われた。

「もはや地獄…だなぁ。」

暑さで溶ける、なんて可愛いもんだよな。

ボーっとする思考回路でその様子を想像してしまった俺は、ひきつった笑顔で後悔した。

「ははは。見事にやる気がなくなったわ。」

まぁ。昔からやる気なんてものとは無縁の生き物なんだけどな。

「炎天下の中をお散歩なんて、いい趣味だねー。」

「あ?」

聞き覚えのある声に反応し、なんとか振り向こうとしたが、暑さ対策と称して陽射しを避けながらできるだけ日陰を渡り歩くオレの背中に衝撃が訪れる方が早かった。

「げっ」

「ちょっ暴れるなよ。落ちるだろうが。」

いきなり飛びつかれて体勢を崩さない方がおかしい。

「おまえのせいだろうが!」

自分と同じくらいの体格のヤツを急におぶってんだから、当然身を屈める。

「重い!下りろって。」

「うわぁ。失礼なヤツ。」

クスクスと笑いながら楽しそうにしばらくぶら下がっていたが、やっと気が済んだのか大人しく俺の背から下りた。

「まったく…何考えてんだか。」

呆れた表情の俺にはお構いなしで、高々と両腕を伸ばし気持ちよさそうに目を細めている。

「おまえがこんな時間に動いているの、久し振りに見たわ。」

「ふふ。お互い様だね。」

お得意の何を考えているのかわからない、柔らかな微笑みを浮かべている。

お互いの仕事の都合上、あまり街で出会うことなんてないのだけれど、運悪く出会ってしまった時はこうやって稀に絡まれることがある。まさに『今』がその時なんだが…

「ねぇ。もしかして、身体の調子が悪いとか?」

「は?」

ずっと腰に手を当て背筋を伸ばす動作をしている俺を見て、ちょっと心配そうに、そしてすごく不思議そうに問いかけてくる。

「おまえが、急に飛び乗ったせいだ!」

「はははは。どっか悪いのかと思った。でもまさか、そんなことあるわけないか。」

コイツ…一体、俺のことをなんだと思ってんだろうか。まぁ、相変わらず掴みどころのない自由人は、いつも通り楽しそうで何よりだ。

「今から仕事なの?」

「進行形で、仕事。」

「ふーん。」

今まで笑っていたのに、急につまらなそうな表情で腕組みをして、どこか遠くに視線を流す。

「今度は、どこに行くの?」

いつもはそんなこと興味持たないくせに。

「今から行くのは大学の研究室。次の目的地は…彩湖島さいこじまだ。」

その言葉を聞いて明らかに動揺した様子で、俺の顔をじっと見つめた。

「それ…行くの?」

「依頼だし…何故か指名されたからな。」

「ふーん。」


『彩湖島』

俺たちの生まれ育った場所だ。

隠された伝説が眠る島として、ある種の専門家たちの間では「世界最古の秘境」と呼ばれているらしい。




その島は、今俺がいる場所から遠く離れた、ほぼ誰もしないようなところにある、小さな孤島だ。昔は大陸の一部だったらしいが、実際にその事を知る者なんて誰もいない。俺が生まれた時、すでにそこは孤島だった。


年中気温が高く、ほとんど雨も降らなかった。異常気象じゃなくても、夏の暑さは厳しくて子供たちはいつも盛大に水しぶきを上げながら海へ飛び込んでいた。

俺たちにとって海と遊ぶ事は日常で、飛び散る水が光を受けてキラキラと輝く様子を今でも鮮明に思い出せる。

どこまでも澄み渡る大空と、どこまでも澄みきった海…

その世界こそ、俺のはじまりの、地…


特別なことなんて何もない日常だったからこそ、遠い昔の記憶になってしまった。時間が流れた分だけ、俺たちの当たり前だった日常は薄れていった。

たとえば…そう。どこかの街では塾や習い事に行く子供たちの姿が当たり前であったり、また別の場所では家の手伝いや畑仕事をする子供たちの姿がごく自然に見慣れた風景であるかのように、それぞれの場所に馴染んでいる。俺の生まれ育った島での当たり前の風景にはいつだって海が一緒であったように。

島を出て住み着いたこと場所で、時折無表情な子供たちの姿を見かけると、不意に遠い昔の記憶が蘇り、島で過ごしていた時間が懐かしくなることがある。



「おっちゃん、これ何?」

「ああ。これはなぁ…」

目の前に広げた薄汚れたシートの上に、無造作に並べられている得体の知れないモノを突きながら問い掛ける子供と怪しい笑顔で説明を始めるおっちゃん。

誰が見ても不気味さしか感じない。

いつからなのか知らないが、気まぐれに漁場の端に見慣れない船が来るようになった。その船には、見たことのないおかしなモノがたくさん積まれている。大人たちは、その男が島に来ることを快く思っていなかったが、子供たちにとっては最高の訪問者なのだ。

どこで拾い集めてきたのかわからないガラクタなのに、何故か興味を惹かれたその瞬間、ガラクタは宝物になる。

そしてたくさんの事を誇らしげに語るおっちゃんは、目を輝かせて楽しそうな子供たちに囲まれているのだ。


「なぁ。おっちゃん、これ、何?」

なんとなく定位置の岩場から様子を眺めていた俺は、少年の持っている箱がこの前見てた本に載っていた物と似ていると思った。

「さあな。開けてみな。」

上機嫌で腕を組んだまま、開けてくれる様子すらない。

「なー。おっちゃん、開けて。」

目の前で頼まれているのに、受け取ろうともしない。

「自分で開けてこそ、意味があるってもんだろう?」

と言って笑うおっちゃんを見て、きっと開けられないのだと直感で理解した俺は、岩場から降りて開かない箱を悔しそうに持っている少年に声を掛けた。

「俺が開けてやるよ。」

「うん。」

元気に返事をし、俺にその箱を手渡してくれた。

「やっぱり。」

受け取った箱をじっと見て、本で見た『カラクリボックス』だという事に気付いた俺は、覚えている手順を思い出しながらカラクリボックスの板を順番にスライドさせていく。

「よし、あとはここの板をスライドさせてみな。」

最後の手順を残し、少年に箱を返した。

「うわー。すげー。開いた。」

「やったな。」

「へぇ。大したもんだな。」

開けられなかった少年が喜んでいるのはわかるのだけれど…おっちゃん、あんたマジで開け方知らなかったのかよ。

子供といっしょになって大騒ぎしている姿を見て、俺は正直呆れていた。


「おい。」

「んー?」

役目を果たし、定位置である岩場に戻るために集団から離れた時、おっちゃんが呼び止めた。

「なんか用?」

「これ、おまえにやるよ。」

そう言って大人の手のひらぐらいの大きさのモノを投げた。

「何?貝?」

俺は受け取った物を訝しげに眺めながら不思議そうに尋ねる。

「オレの、特別なお宝だ。」

おっちゃんは咥えたままの煙管に火を点けて深く吸い込み、満足そうに煙を吐き出した。

「特別って…所詮、おっちゃんの宝なんだろう?」

不信感を込めた視線を送ると、彼は目を細めて笑った。

「そのお宝はなぁ、世界にひとつしかない、上物だ。」

「あ、そ。それで、中身は何?」

俺が妙に落ち着いていることが気に入らなかったのか、急に不機嫌な表情で『教えん』と言ってそっぽを向いた。

「まぁ。どうでも良いけどな。」

結局、また開けられなくて困ってるとかいうオチじゃなけりゃ…中身が何だって構わない。

背を向け何も言わない彼をそのままに、俺は岩場に戻り、いつものように視線を巡らせる。

「アイツ、まだ居るのか。」

この場所から海を眺めると、防波堤にいるアイツの姿がよく見える。

「あー。そろそろ迎えに行ってやるか。」

青い海が少しずつ朱色に染まってくる頃、俺はアイツを迎えに行くことにしている。時間を忘れて作業に没頭しているアイツを放っておいたら、そのまま遠くへ行ってしまいそうで…どこかに消えてしまいそうで不安だから…なんてな。


「おい!そろそろ帰るぞー。」

「あっ流ちゃん。」

俺の声に反応して、即座に作業を止め両手を振って返事をする。

「置いてくぞ。」

「えっ待って。すぐ片付けるって。」

さっきまでの真剣な表情はどこへ行ってしまったのだろうかと思うほど、楽しそうな笑顔で片付けを始める。

「はい。流ちゃん、半分持たせてあげる。」

「はぁ?俺はおまえの荷物持ちじゃねぇわ!」

目の前にいる、元気いっぱいの少年は強制的に荷物を半分俺に私、さっさと道を横切っていく。

「流太郎、置いてくよー。」

「おいおい…」

ほとんど車の通らない大きな道の向こう側で、スケッチブックを振り回している姿を見て呆れた。

あんず待てって。」

呼ばれるままに道を横切り、杏の元へと駆け寄る。


なぁ、杏。

おまえはまだ、描き続けているのか?

あの時の…幻のような現実を…


一度だけ見た、あのシーン。

俺でさえもまだ鮮明に思い出せるほど、印象的な長い長い、一瞬の出来事。

勝手に自分の定位置にしているあの岩場から見える防波堤や、灯台の奥に切り立った崖がある。今では立ち入り禁止になっているけれど、俺たちがまだ小さい頃は挙って島の男たちが度胸試しをしていた。

子供が真似をすると危険だからと、参加はもちろん、見物すら禁止されていた。だけどたった一度だけ、偶然そのシーンを目にしたことがある。


その日も学校帰りに杏と一緒に海に来ていた。学校で毎年開催される遠泳大会の練習がてら海で泳いでいる俺を、杏がそばで見守っている。最近の「いつも通り」だったけれど、何故かいつも以上に泳ぎに夢中になってしまった俺は、帰る時間が過ぎていることに気付いていなかった。そんな俺に杏が声を掛ける、

「ねぇ、流ちゃん。崖の上…誰かいるよ。」

杏の言葉を聞いて、崖の方を見上げると確かに誰かがいる。

「誰、だ?」

そして、俺たちは永遠の一瞬を目撃したのだ。


きっと島で一番危険であるその場所から見下ろすと、激しい波が岩肌にぶつかり砕ける様がよく見える。砕け散った波は水しぶきとなり、その水滴は逆再生の雨粒のように下から上へと流れていき、光を浴びて輝く。

風が少し和らぎ、打ちつけるように激しかった波も心持ち柔らかくなった時、崖上の人影はわずかな躊躇いもなく、地を蹴った。

「あ!」

「跳んだ!」

地面を蹴った身体は軽く浮かび上がった後、勢いよく水面へと向かう。何ひとつ無駄な動きがなく、しなやかに伸びた四肢が光の衣を纏い、すーっと水中へと溶けていく…

一瞬の出来事なのに、長いスローモーションを見ているようだった。

かなりの高さから大人の男性が飛び込んだのに、バシャンという水音も、水しぶきすらも生まれなかった。

波間にはただ静かに、ゆっくりと水紋が広がっているだけだ…


「浮かんで…こない?」

「おい。嘘、だろう?」

しばらく無言で見守っていた俺たちはだんだん不安になってきた。素潜りが得意だったとしても、こんなに長時間息を止めていられるわけがない。

「流太郎…誰か呼んできた方が良いんじゃ、ないかな…」

いつだって元気な杏の声が震えていることに気付いた俺は、急にとてつもない恐怖を感じた。

「あ、ああ。でも…」

周囲を見渡しても、すでに陽の沈んだ海に人の気配なんてなく、俺たちは為す術もないまま途方に暮れるしかなかった。

あんなに高い崖から飛び込んだのだ。慣れているものであっても、何か小さなアクシデントで運悪く命を落とすことだってある。ただ、それを確認することは恐怖でしかない。だからと言って知らない顔で放っておくわけにもいかず、俺たちはそっと手を重ねて水の中を覗き込もうとした瞬間、黒い影が水面から飛び出した。

「うわあ!」

「おうっ」

驚いたのは俺たちだけではなく、当然かもしれないが水中から顔を出した人物が一番動揺しているようだった。

「あー。びっくりした。こんな時間にまさか人がいるなんて思ってなかったぁ。」

水から上がるタイミングを逃した男は、浮かんだまま左胸を押さえて何度か深呼吸を繰り返している。

「ふっ…あははは。」

目を閉じて何度か深呼吸をしたことで落ち着いたのか、男は何故か突然笑い出した。そしてひとしきり笑うと、今度は静かにじっと俺たちを見つめて微かに笑を浮かべた。

コロコロと変化するその表情を見て、あっけにとられている俺たちを横目に『よっ』と軽い掛け声とともに岩場に上がり寝転ぶ。

「なぁ。おまえらってこの島の子か?」

「…ああ。」

返事を聞いた男がいやらしくニヤリと笑った時、背筋がゾッとした俺は無意識のうちに杏野腕を掴んでいた。

「黒真珠を探してんだ。おまえら、知らないか?」

怪しく笑う男の瞳をじっと見ると、言い様のない程イヤな予感がした。

こんな訳のわからないヤツに海も、島も荒らさせたりしない。

「知らない。知ってても教えないけどな。」

「へぇ。じゃあ…これでも教えない、か?」

言うが早いか男は俊敏な動きで杏に手を伸ばす。

「痛っ」

「杏!」

勢いよく杏の腕を引っ張り片腕で簡単に捕まえた男は、もう片方の手で暴れる俺の頭を難なく押さえ込んで不敵に笑っている。

「杏を返せ!」

押さえ込まれながら伸ばす手は、もう少しのところでお互いに届かない。

「そういえば、この辺は人喰いザメがいるんだってなぁ?本当か?二人揃って仲良く餌になるのも楽しそうで良いなぁ。」

「!」

俺はどうなっても良い。海に投げ飛ばされるのなら本望だ。生まれた時からこの海と一緒だったから、なんとでもなる。

でも、杏は…

「おーい。サメ、いるのかぁ?餌の時間だぞー。」

太い腕で俺たちを軽々と抱え込んだまま、男はゆっくり海へと近寄っていく。

コイツ、頭おかしいんじゃねぇのか?

「ほおら、よっ!」

現実を見ていない瞳をした、狂気に取り憑かれている男は笑いながら俺たちを海へ放り投げた。

宙を舞い解放された俺は、水の中で彷徨う杏の姿を必死に探す。


どこだ?どこに、いるんだ?

周囲を見渡し、目を閉じ力なく誘われるままに下へと向かっている杏を見つけた。俺は急いで腕を伸ばしその身体を掴もうとした時、予想に反して杏が俺の腕にしがみついた。

『ヤバイ…』

溺れた者の救助で一番、注意すべき事なのに…予期せぬ動きに巻き込まれ、上手く泳げなくなってしまった俺は流れに飲み込まれないようにと必死だった。

せめて杏だけは、どんなことをしても助けたくて、なんとかその身体を引き寄せた。

『ホントに、海で死ぬのかよ…』

死に場所としては最高だけど、まだ生きていたいかも…

水に包まれ、意識が薄れていく中そんなどうでも良いことを考えていた俺は、突然力強い何かに引っ張られた。

『誰…だ?』

子供とはいえ、二人を抱えた状態で迷いなくまっすぐに水面へと泳げるなんて、すごい。

しばらくして水面にたどり着いたその人は、俺たちをゆっくり順番に陸へと担ぎ上げ、再び水中へと静かに戻っていった。

今のは、誰なんだろう。見たことのない人だった…


「んー?浮いてこないって事は、本当に喰われちまったのかぁ?」

助け上げられた岩場で呼吸を整えていると、男のそんな言葉が聞こえてきた。

「バカなガキどもが。」

そんな狂った高笑いが響き渡る岩場に、闇への導きが這い寄っていることに誰も気付いてはいない。

「馬鹿は、貴様だな。」

暗闇から音もなくぬっと出てきた冷たい手が、男の足首を捉えて容赦なく水中へと引きずり込んだ。

『あ…』

まだ呼吸が整っていないが、なんとか少し上体を起こせた俺は、その瞬間を見てしまった。

一回り程差がありそうな体格の男を容易く捕まえているのは、俺たちを助けてくれた人?

「道案内くらいは、してやろう。」

美しさを感じるが故なのか、例えようもなく冷たい微笑みに見えた。

「う、うわあ…」

意識が朦朧とする中で見たその光景は、夢…なのだろうか。俺の意識はそこで途切れた。


その後、やっと俺たちが目を覚ました時、傍で見守ってくれていた人は心から安堵の溜息を吐いた。そして包み込むような優しい瞳で笑った。その笑顔を見て俺は、何故か意識が途切れる前に見たあの光景を思い出し、あれは夢だったのだと認識した。


それから数週間後、島で行われた度胸試しを隠れて見ていた俺たちは、あの日…光の衣を纏って水中へと溶けていった人物が『彼』であることを知った。

「流ちゃん!今の、見た?」

「ああ。彼が…あの時の…」

崖から飛び立ったしなやかな身体は、まるで魚のように水の中へと還っていった。


事実上、島の度胸試しは今回で最後の催しとなり、崖は立ち入り禁止とされた。

それ以来、二度と飛び込む者はいなくなった。



「杏。」

「んー?」

「おまえは、どこ行くんだ?」

俺の行き先を聞いてからも、ずっと並んで歩く彼を不思議に思い声を掛ける。

「仕事先―。」

興味なさげな声が返ってきた。

「あ、そ。」

それきり黙って歩き続け、結局俺の目的地である大学に着いてしまった。

「俺はここに用事だから。」

「ふーん。」

「じゃあな。」

門を通り抜けようとした時、彼が俺の前に立った。

「何だよ。」

「流ちゃんを指名したの、オレなんだ。」

「あ、そ。…は?何だって?」

小悪魔的な笑顔で、彼はとんでもない事をさらりと告げた。


「ここの教授がね、オレの文献に興味を持ってくれて、ぜひ島の調査をしたいって言い出したんだって。」

「それで俺の事を話したのか?」

「そう。」

彼はずっと島の事を調査し、いくつかの本や写真集、資料などを出版している。始めた頃は俺も手伝っていたが、本業である遺跡調査が多忙になり早々に手を引いた。

「泳げないのに、海底調査の依頼なんか受けるなよな。まったく…何考えてんだよ。」

呆れつつ言葉を投げると、彼は苦笑した。

「だから流ちゃんの事を話したんだよ。」

当り前の事のように話しているが、俺が引き受けなかったらどうするつもりだったのだろうか。

杏は幼い頃、海で溺れた事がある。なんとか助けることはできたけれど、あの時の事を思い出すだけで今でもゾッとする。そんな出来事があったにも関わらず、杏は水を怖がるでもなく、いつも海辺で絵を描いていた。だから俺は…

「おまえは絵描きになるんだと思ってた。」

「んー?なあに?」

俺の呟きは届いていなかったようだ。

「いや、別に。」

崖の上から華麗に飛び立ち、水へと向かうあの人の姿を、真剣な眼差しでよく描いていた。それ程まで強い思い入れがあるのだと感じていたし、忠実に描かれている杏の絵は、とてもリアルで印象的だったことを覚えている。

杏はあの人の姿を追い続け、島の事を調べ始めたのだとさえ思っていた。

数少ない島民に聞いても、名前も素性もわからなくて、時々訪れるあのおっちゃんに尋ねた事もある。結局何もわからないままだけれど、島を調べている杏は、何か情報を得たのだろうか。

「なぁ、杏。おまえはさぁ…」

純粋に島の事を知りたいのか、あの人のことを知りたいのかを聞こうとした時、目の前のドアが開いた。

ゴンッ

「痛っ…」

「あ、大丈夫か?杏?」

突然開いたドアで頭を打った杏はその場にしゃがみこんで動かない。

「おお。すまん。こんなとこに人がいるなんて思ってなかった。」

部屋の前で立ち止まっていた俺たちも悪いけど、まだ立ち上がれない杏を見て、勢いよく開けすぎだろ…と思っていた。

「あ、もしかして。キミがあんず君の話していた…えぇーっと『流ちゃん』君かな?」

流ちゃん…くん?

「おい杏、おまえは一体どういう説明をしたんだ?」

「うん?えーっとぉ。うん。まぁ気にしなくても良いんじゃないかな。」

なんとか体勢を立て直した杏は、おでこに手を当てながら目を逸らし笑った。

「立ち話もなんだし、ちょっと散らかっているけど…中へどうぞ。」

温和な笑顔の青年はズレた眼鏡を直しつつ、ドアを開け放ち部屋へ入るよう促してくれた。 

「失礼します。」

俺の言葉に笑顔で応じてくれる青年に、杏が声をかける。

「ところで教授。どこかへ行くんじゃないのですか?」

「うん?」

青年はしばらく難しい顔で考え込み、やっと思い出せたらしく…

「ああ。そうだ。事務所から呼び出しがあったんだ。ごめんね。ちょっと待ってて。」

そう言って慌てて部屋を飛び出して行った。

「なぁ。」

不意に視界に入ってきたのは、机の脇に置いてある靴。

「ん?」

左右異なる靴が並んで置いてあるのを見て心配になってきた。

「あの人…本当に大丈夫、なのか?」

ついさっき見送った青年の背中を思い出し、俺は今感じている最大の不安を言葉にした。

「いつも通りだし、別に問題ないんじゃないかなぁ。」

確かに楽しく笑える程度の天然なら大丈夫なのかもしれないが…なかなか問題がある気がすると思った時、ふと青年と杏の姿が重なり、俺はイヤな予感を抱いてしまった。


数十分後青年は、両手で抱えるくらいのダンボールを持って戻ってきた。

「あっ資料が届いたんですか?」 

「うん。」

話の流れ的に、島の資料だということはわかった。

二人はおもちゃ箱を開ける子供のような顔で、ダンボールから嬉しそうに紙の束を取り出している。俺は壁に背を預けて、そんな二人の様子を眺めていた。

「杏!今の、それ、見せてくれ!」

「え?何?これ?」

ほんの一瞬だけ見えた画像に反応し、俺は杏が手にしている資料を取り上げてしまった。

「流太郎?」

「あ、悪い。ちょっと…」

それだけを伝え、俺は近くにあった椅子に座り資料を読み始めた。

手元の資料によると、海底で壁画の一部が発見されたらしい。


一見、文字だか絵だか判別のつかない特殊な形が並んでいるだけで、まったく理解できない。でも、確かに見覚えがある。いつ、どこで見たのかまでは思い出せないけど、この文字の並びを知っている…そして俺はなんとか読み取る事ができる文字を繋げていく。


前世のことわりが連鎖を生む

蘇る記憶とつなぎ止める言霊

それは いつしか

謎に包まれた真実を 解き明かすだろう


水中で撮影された壁画の文字は正直、読みづらい。本来、見たことのない文字を拾い集めて解読する作業は、通常何時間も掛けて行う。遺跡調査でも直面するこの事態は気が遠くなるほどなのだが…今の俺には外国語を訳すよりも簡単なことだ。ただし、島で見つかった古代文字の類にのみ有効なのだけれど。

「一応、アイツに礼でも言っとくかな。」

もし、気が向いたら…

資料を一通り読み終えた俺は、そっと微笑んだ。


「杏、島へ向かうはいつ頃になる?」

「予定だと一ヶ月後かな。」

一ヶ月、か。それまでにやる事は山積みだな。

「わかった。この依頼、正式に俺が引き受ける。」

「本当!ありがとう!」

杏は心から嬉しそうに笑って俺の手を握り、何度も振った。

「教授!流ちゃんが…」

振り向き報告しようとした杏は動きを止めた。

「寝ちゃったんだね。」

「本当に、大丈夫なんだろうな?」

呆れて溜め息を吐く俺に、肩をすくめて苦笑された。


俺はいくつかの資料をコピーしてもらい、とりあえず帰ることにした。

「じゃあ、また連絡するね。」

「ああ。お疲れさん。」


大学の門の前で別れ、それぞれの帰路に着いた。

「さて、忙しくなりそうだな。」

懐かしい彩湖島の景色を思い出し、静かに空を仰いだ。

微睡みの中、突然違和感に襲われ、俺は不意に目を覚ました。

まだ半分以上覚醒しない意識でも、はっきりとした嫌悪を感じて溜め息を吐く。

「最悪…」

また、コイツに起こされてしまった。

この数週間、ほどまともに眠らずパソコンに向かっていたのに、少しも資料が減らない。そして昨日はほかの仕事もあって、いつもより帰りが遅くなった。そのまま寝てしまえば良かったと、今更後悔しても仕方がない。ベッドに行くのも面倒くさくなって、またソファーで寝てしまった自分に非があるのもわかっている。

「まぁ、ソファーの方が落ち着くんだけど。」

でも…

「おまえはベッドで寝りゃあいいじゃん。」

俺は気持ちよさそうに眠っているウリエルの方を見た。疲れてソファーで眠った時に限ってもれなく付いてくる、嫌がらせ的な目覚ましの手段。

勝手に俺の上に乗り、ピクリとも動かない。じわじわと重圧が増してきて、息苦しさに耐え切れず結局俺が起き上がる。

まんまと邪魔者を追い払ったウリエルは、勝ち誇った不敵な笑を浮かべてじっとこちらを見ている。

「ほんっと、ヤなヤツ。」

傲慢な態度で居座るヤツを蹴飛ばしてやろうとした時、スマホの着信が聞こえた。

「んー?あれ?」

音を頼りに部屋を見回しても、どこで鳴っているのか見当もつかない。

「おかしいなぁ。どこやったっけ?」

ポケットを探っても、脱ぎ散らかした服の山を崩しても見つからない。ウリエルに睨まれながらソファーも探したが、やっぱりない。

最後の砦であるカバンを逆さまにすると、解放された中身たちが我さきにと溢れ出してくる。その様子を見ていて、ふと重要な事に気付いた。

「ん?電話、切れてんな…」

微かに聞こえていた音は、既に途切れていた。

「はぁ。本当に最悪な目覚めだ。」

たぶん、杏からだろうな。無事にスマホが見つかったら、後で連絡しておくか。

急にどうでも良くなって、持っていた荷物を放り投げてその場に座り込むと、背中に痛いくらいの視線を感じた。

「同感だ。目覚めというものは重要だからな。貴様なんぞに起こされた事、今思い出しても不愉快極まりないわ!」

「勝手に話し掛けるなって。」

「貴様には文句しかないわ!役立たずのくせに我に命令するな!」

目覚めから機嫌の悪い俺は、普段以上に怒りの沸点がかなり低い。

「おーい。ウリエル。ごはんだぞー!」

「き、貴様!主人を生贄にするとはなんたる不届きな!」

苛立ちを抑えきれなかった俺は無言で立ち上がり、コップの中の住人をつまみ上げ、ウリエルの前に差し出した。案の定、瞬間的に目を覚ましたウリエルは状態を低くし、挑発するように尻尾を振りながら捕獲体制になった。

「う、うわぁ。おい。助けろ!よし。わかった!助ける許可をくれてやる!だから…」

もちろん俺はウリエルの手が届かない位置を配慮しているので絶対安全なのだが、日頃の仕返しも兼ねて微妙な高さで揺らしてみた。

「た、助けて…ください。お願い、します…」

いつも強気な態度からは想像できないくらいの涙目で言われりゃ、仕方ないから助けてやるか。

俺はコップの住人を肩に乗せ、ウリエルを部屋の外へ連れ出してドアを閉めた。

「後でアイツに好物やっとくか。」

今後の、俺の安眠のために。


コップの住人を肩から下ろし、再びパソコンに向かい始めた俺は、気になっていたことを思い出した。

「なぁ、ちょっと見てもらいたいものがあるんだけど。」

「我にか?ふむ、良かろう。跪き許しを乞え。」

想定内ではあったが、ここぞとばかりに偉そうな口調で言われ、なんだか反発する気もなくなった。頬杖をついて、無言でカチャカチャとマウスを動かし、データ化した島の資料を眺めていると、パシパシと杖で手を叩かれた。

「おい。今の、もう一度見せよ!」

「え?どれだよ。」

静かだと思ったら一緒に見てたのか。

「これか?」

見ていた資料画像を数枚戻してみた。

「おお。懐かしき我が故郷。」

画面には島の名前の由来である彩湖が映っている。

「海じゃなくて、湖に棲んでいたのか?」

「オケアノス・ジャッヴァと名乗ってやったであろう。」

呆れ果てた表情で言われるとやっぱり腹が立つ。もしかしたらコイツとは、もともと相性が最悪なんじゃないだろうか。

「海の神って名乗るんだったら、海に棲んでるんじゃないのか?」

「愚か者め。あの島の湖の水は海水だ。」

じゃあ、どこかで湖と海が繋がっている事になる。それなのに、あの湖が枯れてしまったのは何故だ?

「なぁ、ジャヴ。」

俺はコップの住人に頭を下げる。

「頼みがある。おまえの力を貸して欲しいんだ。」

「まぁ…聞いてやらぬでもない。愚鈍だが、一応、その…恩人ではあるからな。」

少し頬を染め、そっぽを向いて姿は明らかに照れている。


「なんだ?貴様はこんな文字が読めぬのか?」

こんな特殊な文字、読めるヤツなんかいない。だから現在でも多くのことが解明されずに謎とされているのだ。


― 光射し 幻想と化す時

  真の姿 現わる

  とこしえは壁を越え 古の理をも壊し

  未知の姿を示すであろう

  真実と虚妄の化身を手に

  選ばれし者と共に 開くであろう


「どういう…意味、なんだ?」

「さてな。」

ずっと気になっていた壁画に刻まれている文字を解読してもらったのは良いが、意味がわからない。

「あのおっちゃんなら、もしかして何か知ってるのかもな…」


昔、ガラクタの中に紛れていたカラクリボックスを開けた俺に『特別な宝』だと言って、よくわからない貝をくれた。当然、疑う気持ち全開だったが、結局捨てる事もできずに島を出る時ですら一緒に持ってきてしまった。

 島を出てこの街の生活に慣れたてきた頃、不意に海が懐かしくなった俺は、殺風景な部屋に少し大きめの水槽を置き、小さな海を作った。そしてなんとなく、おっちゃんにもらった貝をその海へ還してやった。何をやっても、何度試みても開くことのなかった貝が開いたのは、海へ還してから数週間後の事だった。


「…なん、だ?」

「おい愚鈍。我を助けさせてやろう。」

最近仕事が忙しすぎて、きっと幻を見ているに違いないと思わずにはいられなかった。

水槽の中で十センチほどの人型をした生物が魚たちに突かれている…?

「あー。限界越えた感じか?こういう時は…とりあえず寝るか。」

数匹の魚たちに髪や服を引っ張られ、上手く身動きが取れないようだ。

「おい。貴様、聞いているのか!」

水槽の真下で猫のウリエルが興味深げに見つめている事気付いた俺は、仕方なく水の住人を助けてやることにした。

「我が名はオケアノス・ジャッヴァ。覚えておく良い。」

少し深めのコップに水を入れ、俺は救命した生物をその中へ放した。

「はいはい。俺は寝るわ。おやすみ、ジャヴ。」

ウリエルの手が届かない位置にコップを置き、俺は本能に従い現実逃避をした。

それが、俺たちの出会いだ。


「ジャヴ。」

「なんだ?」

名前を呼んだのは良いが、次の言葉を声にする事を何故か少し躊躇ってしまった。

「おまえも…島に来るか?」

画面上の島の風景を、あんなにも懐かしそうに微笑んで眺める姿を見てしまったら、誘ってやるしかないだろう。


「杏、遅い!」

「ごめん。寝てたー。」

島への出発の日、待ち合わせ場所にもちろん杏の姿はなかった。仕方なく連絡すると予想通り寝ぼけた声で返事され、いきなり怒鳴った俺に対して何度も謝りながら急いで支度をし、やっとここにたどり着いたのだ。

「まったく。先が思いやられるわ…」

「貴様よりも愚かな者がいるのだな。」

頭を抱える俺の胸ポケットでジャヴァが呟いた。

街を出発して数時間後、港に着き船に乗り込んだ。

「わぁ。風が気持ちいい。こっからしばらく船旅になるね。」

「そうだな。とりあえず荷物を部屋に運んで休憩するか。」

俺たちはそれぞれ部屋へ向かい、軽く仮眠する事にした。

部屋で資料を調べていた俺は、ジャヴァに解読してもらった壁画に刻まれている文字を何度も読み返す。

「この壁画って、島のどの辺にあるんだ?」

問いかけながらジャヴの方を見ると、いつの間に用意していたのか、荷物の中から俺がおもちゃのブロックで作ってやった階段を持ち出しながら返事をする。

「昔は我が城の傍にあった。」

その階段を水を入れたコップに近付けている。

「城?おまえって城に住んでいたのか?」

優雅に階段を上り、コップの中で幸せそうな笑を浮かべている。

「海の神なのだ。当然であろう。」

あ、そう。『海の神』ね…

島周辺の海は小さい頃から何度も潜っているが、資料画像で見た壁画さえ一度も遭遇していない。まして城なんてどこにもなかった。どこまでも済みきった水中には色とりどりの珊瑚や魚たちがいるだけで、そんな遺跡の欠片さえ見つけたことがない。

「黒真珠の事は、聞いたことあるか?」

「何?」

ジャヴは眉間にシワを寄せ、急に険しい表情で俺を睨んだ。

「貴様も探し求めているのか!愚か…」

「イヤ。俺はいらない。興味ない。」

言いかけた言葉を遮って即答した事で少し落ち着いたのか、ジャヴは背を向けたまま、再び水の中でくつろぎ始めた。

彩湖島の真珠はとても貴重なものとされている。色も形も一級品だといわれ、ずっと昔から高値で取引される程だ。黒真珠は珍しくより高い評価を受けていた。

ただ、島民たちはあまり好んでおらず、漆黒の真珠を手に入れた者は心を捨てたのだと言い伝えられるくらいだった。


「真実と虚妄が、形になったものだと語り継がれておる。」

真実と、虚妄…

「昔話をしてやろう。」

ジャヴは水中から出てきて、俺の近くに座ると静かに話し始めた。


昔、そう。遠い遠い昔の話だ…

まだ島が大陸の一部だった頃…何かの神話ではないが、突然海が割れたことがある。その時の事を知る者は、残念ながら存在していないが、我は今も鮮明に覚えておる。

大きな地響きと共に海が揺れ、波が荒くなった。彩湖の中心部から少しずつ海水が流れ出し、それと同時に島の一部が割れたのだ。

「島の一部が、割れた?」

それが彩湖島が孤島になった原因なのだろうか。


その時に瞬間的にではあるが、海も割れた。

数メートルを優に超える水の壁を両側に、空気に触れた海底には一人の少女が横たわっていた。後の話によると、海が割れた理由は誰かを逃すためではなく、その小さな命を救い出すためだったとされている。

誤って海に落ちてしまった少女を救い出すため、己の命と引き換えにして起こした奇跡…

― おまえの真実(命)、確かに受け取った。


少女を救い出すと、水の壁は勢いよく閉じられ、もちろん二度と海が割れることなどなかった。

数日後目覚めた少女は、全く怖がることなく毎日海を眺めていた。

気になった我は人間の姿を借り、何も言わずにそっと近くに座ってみたことがある。

「海…好き?」

じっと見つめて少女が問い掛けてきた。

「まぁ。好き、かな。」

「私は大好き。」

少女は嬉しそうに笑い、思いがけないことを告げた。

「本当はね、私、呼ばれたの。」

「誰に?」

「たぶん…海に?」

だから自分の意志で海に飛び込んだのだと笑顔で言った。

「海に?呼ばれたのか?」

「わからない。でも聞こえたんだ。」

少女は遠くの方を見つめて、何かを思い出しているようだった。

「何と呼ばれたんだ?」

― 還っておいで。

「だから私は、海へ…」

急に立ち上がった少女は、ふわりと優しく…少し淋しそうに笑う。

それから数週間後、島から少女の姿が消えた。きっと、深く優しく…海が語りかけてきたのだろう。

― 還っておいで。

…と。


「この昔話が真実か嘘か、それを決めるのは貴様次第だがな。」

遥か遠くの記憶を辿るように、とても穏やかな瞳で語られた大切な思い出。俺はそれを真実だと信じて受け入れようと思った。

「話してくれてありがとな。」

「ふ、ふん。こんな昔話を信じるなんぞ、誠に救いようのない愚鈍だ。」

かろうじて威厳を保ちつつ、コップに方へと戻っていく。照れていることを後ろ姿だけで表現できるってのは、中々すごいことなのかもな。

「いい加減、少しは素直になれよな。」

そう言って苦笑する俺は…

「我に命令するでないわ!」

と怒鳴られてしまった。

「はいはい。」

いつまでも文句を行っているジャヴに呆れて、そのまま部屋を出た俺は甲板に向かった。

流れていく風が気持ち良い。

「もうすぐ、着くな。」

潮の香りが濃くなり、少し先に島が見え始めた。


「杏、起きろ。島に着いたぞ。」

きっと爆睡していると思って杏を起こしに来た俺は、案の定しっかりと夢の中だった。

「んー。あと三十分…」

三十分って…しっかりした仮眠の時間じゃないかよ。

「おい。起きろって!」

「もぉ。わかったって!」

何故怒られなければならないのか愚問ではあるが、まだ寝ぼけたままの杏を引っ張り、なんとか船を降りた。

「ところで、教授は?先に来ているんだろう?」

「んー?そのはずなんだけどね。荷物置いてから教授に連絡するね。」

俺たちにとっては帰省と同じだからと、宿泊施設を利用せず、実家に泊まることになり内心ホッとしていた。懐かしい家族との騒がしい再会をし、俺はずっと放置されている自室へと向かう。襖を開けると、畳の匂いが広がった。

「なんか…帰ってきたって感じだわ。」

慣れ親しんだ空間に浸っていると窓を叩く音がした。

「流ちゃん、開けて。」

その声を聞き、深い溜息を吐き俺は窓を開けてやった。

「おまえなぁ。なんで窓から来るんだ?」

「えー?昔よくやったなぁっと思って。」

楽しそうな杏の笑顔は昔と変わらず輝いて見える。

「入って良い?」

「って言いながら入るな!」

表情ひとつ変えず部屋に入ってきて自然に溶け込んでいる杏が、急に何かを思い出し俺を見た。

「あ。教授に連絡したら、明日こっちに着くんだって。」

「は?」

確認や下見がしたいから、先に島へ向かう予定じゃなかったのか?

「なんかね、どうしても外せない学会があったのを忘れてたんだって。」

「あ、そ。」

まだ数える程しかあっていないが、かなりのマイペースでおとぼけな人物だと理解してしまったから、今更何も問題ではないか。

「じゃあ、本格的に動けるのは、早くても明後日だな。」

「だね。」

なれない船旅じゃ、仕方ないだろうな。


「ところで杏、俺は海に潜れば良いのか?」

どこから持ってきたのか、杏は呑気に果物を食べていた。

「うん。できるだけ島周辺の海の景色が欲しいんだ。壁画が見つかると良いんだけどね。」

そう言いながら、果物の入った器を俺の方に近づける。

「さっき流ちゃんのお母さんがくれたの。島の桃、美味しいよねー。」

確かに旬である今が一番美味しいだろうな。でも、いつの間に…

「まったくどいつもこいつも…」

自由気ままなヤツらしかいないのかよ。

「なぁ、海を調べるより、湖を調べたほうが早いんじゃないのか?」

資料として手元にある写真がどこなのかわかれば簡単だが、古すぎて判明しない。俺はジャヴの話を思い出し、何気なく言ってしまってから少し後悔していた。

「なんで湖?」

「え、いや。なんとなく…そう思っただけだ。気にしなくて良い。」

とりあえず今は苦し紛れに誤魔化すしかなかった。

そういえばジャヴの事、まだ誰にも話していなかった…

「湖の事も、もちろん調べるけど、島の周辺の映像を優先したいな。」

少し考え込んでいた杏は、頭の中で今回の探索プランを組み直していたのだろう。その上で出した答えなら、喜んで引き受けよう。

「了解。しっかり撮ってきてやるよ。」

「うん。頼りにしてる。」

杏は特に気にした様子もなく、島の地図を広げる。

「こっちの入江側と崖の下、それから…」

「まだあるのか?」

迷いなく次々にマーキングされていく地図を見て、つい声にしてしまった。

「うん。だって…」

何かを伝えたそうな、でも少し困った表情の杏を不思議に思い、じっと見ているとぎこちない動きで視線を外された。長い付き合いだからこそ、こういう時は距離を置いたほうが良いと直感で判断した。

「さて。ひと泳ぎしてくるかな。」

「え?今から行くつもり?いくら流ちゃんでも危ないって。」

もちろん、島で育っているからこそ。夜の海がどんなに危険なのかを知っている。それでも時々、どうしようもなく泳ぎたくなるものなんだ。

「ちょっとだけ、な。」

潮風に誘われるままに、俺は杏が入ってきた窓から外へ出て屋根伝いに海へと向かった。

「流太郎はホント…変わらないなぁ。」

窓枠に肘をつき、遠くなっていく俺の姿を眺める杏が、眩しそうに目を細めて優しく微笑んでいるなんて、きっと俺は夢にも思わないんだろうな。


海に着くなり勢いよく飛び込んだ俺は、久しぶりの水の感覚に嬉しくなって水中でくるりと宙返りをした。そして、ポケットにいるジャヴをそっと解放する。

「愚鈍にしては、気が効くな。」

いつもは偉そうで憎たらしいだけなのに、こんな幸せな笑顔を見てしまったら何も言えない。柔らかい表情で、寄ってくる魚たちと楽しそうにしている姿を見て、せっかく故郷に戻ってきたのだから自由に動き回りたいだろうと思い、軽く目だけで合図をしてゆっくりジャヴから離れた。

本音は、俺自身が久し振りに海を堪能したかっただけ、なんだけど…なんてな。

水の流れに身体を預けながら、フッと笑う。本音を言えば島を一回りしたかったけれど、いくら小さいとは言え、素潜りでは到底無理だ。まぁしばらく滞在して探索に協力するのだから、そのうちに島一周くらいはできるだろう。


「……」

何、だ?

「……で。」

誰?誰か、いるのか?

当たり前だが、周囲を見回しても誰もいない。いや、いたところで会話なんてできるわけがない。

一体、誰なんだ?

こんなに薄暗いと普段以上に何も見えない。そう、見えないはずなのに…これは、何だ?

ほんの一瞬だけ広がった、目を疑うほどの美しい世界に息を飲むほど驚いた。

「……おい、で。」

再び幻聴に翻弄されてしまった俺は、身に迫る危機に気付くのが僅かに遅れた。

「おい!貴様はいつの間に新しい呼吸法を習得したのだ?」

怪訝な顔のジャヴに間近で冷たく言い放たれた時、有無を言わさず現実に引き戻された。そして瞬間的に急激な息苦しさが襲いかかってきた。

「愚か者が!」

冷酷な言葉を受けながらも、全力で水面を目指す。


「ぶっはー。」

危ない。マジで…死ぬとこだった。

さすがに疲れた俺は、水面で仰向けに寝転び波に揺られながら、ただ空を眺めていた。

「貴様の身体は、やはり不便そうだな。」

優雅に水の上を歩きながら近寄ってくる。

「あー。さっきは、ありがとな。」

「ふん。か、勝手に死なれては困るからだ。」

素直に礼を言っているのに、ホント可愛くないヤツ…

「…セイレーンの声でも、聴いたか?」

心配そうに問いかけられた俺は、少し考えてから正直に言った。

「セイレーンかどうか、わからないけど、声が聞こえた。それから、信じられないくらいに美しい世界を見た、気がする。」

一瞬だったけれど思い出せる。たとえそれが幻だったとしても、今ならしっかりと思い出せる程、記憶に深く刻み込まれたから…

「あ、そうだ。杏だ!」

「急に大きな声を出すでないわ!」

杏に描いてもらおう。鮮明に覚えているうちに、杏に伝えれば良いんだ。

若干不機嫌なジャヴを捕まえ、俺は来た時と同じように屋根伝いに杏の家へと向かった。


「杏、頼みがある。」

自室の部屋が明るいことを確認し、屋根から室内に向かって声をかける。

「わー。海のにおいがするー。」

嬉しそうに言って、杏が部屋から顔を出す。

すぐに乾くだろうと濡れたまま行動したせいで、身体中ベタベタでしっかり海のにおいも連れて帰ってきたようだ。

「で、流ちゃんの頼みって、なあに?」

窓枠に頬杖をつき、楽しそうに問い掛けてきた。

「ん?ああ。描いて欲しいんだ。」

無言で不思議そうに首を傾げて、続きの言葉を待っている。

「その、上手く説明できる自信はないけど…描いて、欲しい?」

まっすぐにじっと見つめられていることに戸惑っているわけじゃない。ただ、意味ありげな微笑みを浮かべている杏の瞳が気になり、変な問い掛けをしてしまった。

「それ、聞かれても困るわ。」

杏はクスッと笑ってそう言った。

海で見たあの光景を伝えたくて、なんだかじっとしていられなくなり、考えもなく突っ走ってきたけれど…落ちついて考えりゃ理解できない行動かも、知れない。

「じゃあね、オレは一度家に戻って用意してくる。流太郎はシャワーを浴びて着替えておくこと。良い?」

困惑している俺を見て再び笑みを浮かべながら話す杏に、なんとか『了解』と返事をした。


その三十分後、俺たちは屋根の上で乾杯をし、久し振りに島での時間を楽しんだ。

「そういえば、ウリってどうしてるの?」

「留守番。あー、アイツはおまえに懐いてたよな。」

オレには相変わらず敵意剥き出しだけど…捨てられて路頭に迷っていたアイツを助けたのは俺だったはずなのにな。

「また会いに行こー。」

「来なくて良いわ。」

缶ビールを半分ほど飲んだだけで、すでにほろ酔い状態の杏は頬を淡く染め、普段以上にニコニコしている。

「ねー。流ちゃんが描いて欲しいものって、なぁに?」

膝を抱えるような状態でこっちを向いて問い掛けてくる。

杏ってこんなに酒、弱かったっけか?そう思いながらオレは三本目の缶に手を伸ばす。

「さっき…久し振りに海に飛び込んだ時…」

俺は海での出来事を全て話した。

耳に届くはずのない言葉。目の前に一瞬だけ広がった美しい世界。そして息をする事さえ忘れてしまった事も…話した。そのことに関しては酔っていても事情が把握できたらしく、冷ややかな瞳で『バカじゃん』と怒られてしまった。

でも、話の途中でスケッチブックを開き、何かを描き始めた杏の表情は真剣そのものでまっすぐな眼差しは、あの頃と同じ良い光を感じるほどだった。

絵を描いてる杏って。カッコ良いよなぁ…

話し終わった俺は、まだ筆を動かしている杏の姿を見つめながらそう思っていた。


「こんな感じ…かなぁ?」

「!それ!やっぱり杏ってスゲーな!」

受け取ったスケッチブックを見てそこに描き出された世界に圧巻し、同表現すれば良いのか言葉が見つからなかった。ただじっとスケッチブックを見つめている俺に、杏は静かに問い掛ける。

「流太郎、それを、見たの?海の…中で?」

「ん?ああ、うん。そう。ほんの一瞬だったけど確かに見たんだ。信じ…られない、わな…」

杏は半信半疑、というかどこか落ち着かない様子で視線を巡らせている。信じろっていう方が可笑しいよな。当然か…


海底から伸びる太い幹。豊かな深緑の葉で覆われた枝…

その枝は力強く水面から地上へと広がり、浮島を造り出している。緑豊かなその島の中央辺りには、何か…たぶん協会か屋敷のような少し背の高い建物が見えた。

白っぽい建物は光を受け、透けているように感じるほどにキレイだった。


「そう、だよな。やっぱ…信じられない、か。」

本当に見たんだ。こんな世界を、海の中で見た。ほんの一瞬だったのにはっきり思い出せるくらい記憶に強く刻まれている。


「流ちゃん。これ…見て。」


そう言って渡されたのは、杏が普段描いていたスケッチブックの一ページ。

「え…?おまえ、なん、で?」

「オレが、溺れた時の事…覚えてる?」

誰よりも泳ぎが得意だった杏。熱帯魚を思わせるような優雅で軽やかに海の中を自由に泳いでいた。そんな杏が、小学生の頃に溺れた。海を怖がることはなかったけれど、あの日から全く泳げなくなったんだ。忘れるはずが、ない。

「あの時は本当に…ごめん。俺…」

一緒にいたのに、すぐに海に飛び込んで助けようとしたのに俺では助けられなかった。その事を謝罪しようとする俺を制して、杏が言葉を続ける。

「オレも、見たんだ。あの日…その光景を見た。薄れていく意識の中だったけど、はっきりと覚えているよ。すごくキレイだった。そう。息をするのも忘れるくらいに…魅了された。ね?」

杏はそう言ってクスッと笑う。


ほとんど違わない二枚の絵…

俺たちは異なる時期に、同じ世界に遭遇した事になる。

「オレもあの時、誰かに…呼ばれた気がした。聞こえるはずなんてないのにね。」

淋しそうに笑う杏に返す言葉もなく、俺は深い溜め息を吐いた。

「なんで、ずっと黙っていたんだ?」

杏は困った表情で俺を見つめている。

「信じてもらえないだろうし…それに…」

『あの世界を壊されたくなかったんだ。』と言って、静かに目を閉じる。

俺にもその気持ちはわかる。

もし本当にあの世界が消えずに存在しているのなら、信じてもらえるとしても話したくない。ほんの少しでも破壊される可能性があるのなら誰にも話さない。絶対に壊されたくないからこそ、あらゆる手段を駆使してでも守るべきだとさえ思う。

「おまえの気持ち、理解できるよ。」

「流ちゃん?」

きっと実際に目にしなければ信じられない世界だろう。だからといって、多くの人の目に触れる事になってしまえば、瞬く間に消滅の危機に晒されてしまうかもしれない。だからこそ、杏はずっと誰にも話さなかったんだ。俺でさえも…

「正直なとこ…話して欲しかったけどな。でもおまえは、必死で守りたかったんだろう?」

俺の言葉を聞いて杏は相変わらず、ちょっと困った表情で苦笑する。

「…たぶん、そうだと思う。一度だけしか見たことないし、あんな状況だったから現実なのかもわからないのに…ね。」

そう。俺も見たが、現実か幻か判別がついていない。

何よりも、どうして俺たちは異なる時間の中でほぼ同等の世界と出会うなんて不可思議な体験をしたのだろうか。そもそも望んだところで、再びあの世界に遭遇する事は可能なのか?

「確かめに行くか。」

「え?」

杏は突然提案された事が何を意味するのかわからず、困っているようだ。

「明日、一緒に行こうぜ。今日と同じ場所に潜ってやるよ。」

再び同じ世界に出会える保証はないけどな。

「流太郎…オレ…」

何故か言葉を濁す杏を見つめて、もう一度告げる。

「一緒に確かめよう。もしそれが彩湖島の秘密なんだとしたら、俺たちこそ解明するに相応しいはず、だろ?」

意気込んでそんな事を自信有りげに言い放った時、急に悪寒が走った。

まさか俺…『アイツ』に似てきた、のか?

嘘だろ?このままじゃ、自分のこと嫌いになりそうだわ…

「流ちゃん、どうしたの?」

不意に襲われた自己嫌悪を振り払い、杏に伝えたい言葉を必死で声にする。

「えっと…だから、おまえには俺が移すものを、その都度確認して欲しい。カメラ越しになるけど、オレと同じ世界を見て欲しいんだわ。」

昔、何度も一緒に海に潜って水の世界を覗いていた事を思い出す。たくさん泳ぎ、海底探索もした。

あの頃に戻れなくても、もう一度一緒に同じ景色を見ることぐらいできるはずだ。

息を飲むのが伝わるくらい静かな時間が流れた後、まっすぐに俺を見た杏は意を決した様子で断言する。

「わかった。流太郎が見る世界を、オレに届けて。」

「おう。任せておけ。」


その後、話が盛り上がってしまった俺たちは、結局いつも通り明け方まで飲み続け、屋根の上で朝を迎えたのだった。

「杏、一時間後、灯台に集合で良いか?」

「うん。じゃあ後で。」

最低限の打ち合わせだけをして、準備するために俺たちは自室へと戻った。

「あれ?ジャヴ?」

散らかったままの部屋にはジャヴがいた。

「おい、愚鈍。貴様は何故この世界を知っているのだ?」

杏のスケッチブックを真剣に見つめながら問い掛けてきた。

「昨日、海に潜った時に…ほんの一瞬だけ見たんだ。もしかして知っているのか?」

ジャヴは絵の中央に描かれている建物を静かに指し示す。

「我が城だ。」

「あ、そ。」

そういえば城に住んでいたって話してもらったなぁ…

「え?えぇー!おまえの、城?」

「騒々しいわ!」

ジャヴに一喝され、仕方なく黙って支度を始めた。


「あ、流ちゃん。こっちー。」

「おう。」

待ち合わせ場所に向かうと、珍しく先に来ていた杏が手を振って迎えてくれた。

「ん?なんかあった?」

「別に。」

ジャヴに一喝されたこと以外は何もない。でもそれが俺の不機嫌な理由だ。

「嘘。流ちゃんって、すぐ顔に出るからわかりやすい。」

クスクスと笑いながら言う杏に『うるさい』と返し、俺は潜水の準備を始める。

「船、出すか?」

「んー。今日はやめておく。」

空を見上げて雲の流れを確認した杏は、船を出さない選択をした。

「了解。んじゃ、行ってくるわ。」

「うん。気をつけて。」

俺は親指を立てて返事をし、静かに海の世界に入っていった。

しばらく勝手に遊泳していると、イヤホンから杏の指示が聞こえる。

「流ちゃん、右の奥、行けそう?」

俺からの発言はできないため、カメラに向けてハンドサインで返事をし、指示通り移動する。

「あ、その辺り。撮影してくれる?」

たぶん入江の真下辺りの場所で写真を数枚撮っていると、海底の方で何かが動いた気がした。

「下に行くの?平気?」

杏に映像を送っているカメラに『下へ行く』とサインを出し、ゆっくりと移動する。

島から少し離れるとだんだん海底が深くなっている。慣れている者でも普段あまり近寄らない場所だ。

陽の光が届かず、宵闇が溶けたような濃紺の世界が静かに広がっている。

やっぱ、視界が悪いな…

そう言えばじいちゃんに怒られたことがあったなぁ。

深縹ふかはなだで迷ったから帰って来られんぞ!

ガキの頃はこんなとこまで潜ってなかったけどな。

「流ちゃん、右で何か動いた!」

右?

声に反応し、右を見ても何もなかった。ゆっくり移動しながら確認するが、何も見つからない。

ん?何か…光ったか?

砂中に埋もれてしまったかもしれないと思った俺は、一応採取用の袋に周辺の砂を入れた。

「流、ちゃん?流ちゃん!前、見て!」

なん、だ?

叫ぶ杏の声を聞いて、俺は視線を上げた。

「流ちゃん、それって…」

壁…だよな?でもさっきまで何もなかったはずだ。

でもすぐ目の前には、確かに数枚の壁が不規則に立っている。

あ、そうだ。写真…

慌てて写真を撮り始めた俺は、初めて見るその光景に何も言えなかった。胸が締めつけられるような感情に押し潰されそうになりながら、なんとか写真を撮り終えた。

「流ちゃん。大丈夫?」

かろうじて大丈夫だとサインを送ったが、杏は俺の様子がいつもと違うことに気付いているだろう。

「今日は終わり。流太郎、戻ってきて!」

珍しく焦った声でそう言った。

俺は了解のサインを送り、ゆっくりと浮上していく。何度も何度も振り返りながら宵闇の世界を後にした。

まるで…墓標、みたいだった…

写真を撮っていた時に感じたあの感情は、強くて深い悲しみだったのかも知れない。

不意に海底へ視線を向けてみたが、すでに真っ暗で何も見えなくなっていた。


「流太郎!」

「うわっおまえなぁ、急に飛び掛ってくんな!」

水面にたどり着き、陸に上がった途端、杏が抱きついてきた。

「無事?ケガは?ねぇ死んでない?」

「おまえなぁ…」

自分が巻き込んだくせに、相変わらず過剰な心配性だな。

抱きついている杏の身体を引き剥がして、上半身だけウエットスーツを脱ぎ、採取袋とカメラを手渡す。

「ありがとう。」

「たぶん、それなりに撮れてると思う。」

それだけを伝えてペットボトルの水を飲み干す。

「うん。」

受け取ったカメラを大切そうに抱きしめ、微笑みながら頷いた。


俺は、イヤ…俺たちは一体この島の何を知っているのだろうか…もしかしたら何も知らないまま生きていたのかも知れない。

海底にあんな場所があるなんて、誰も教えてはくれなかった。

「入ってはいけない場所、だったのか?」

だから誰も教えてくれなかったのなら説明がつく。光の届かない暗い世界で、ひっそりと存在していた遺されたモノたち。彼らはその場所で悲しみを埋めようとしているのか、それとも生かされている者たちを哀れんでいるのかさえも、わからない。ただ…俺には何かを語りかけようとしていた気が、する。


「ほう。さすが、よく撮れていますね。」

「教授!着いたら連絡するって言ってなかったですか?」

映像を確認しながら、地図に何かを書き込んでいる杏のすぐ後ろでモニターに見入っていた教授は、相変わらずのんびり返事をする。

「いやぁ。携帯のバッテリーがなくなって、連絡できなかったんだ。ほら。」

「あ…」

「おい。」

「あー。これは困ったねぇ。」

コイツ、わざとやってるのか?

教授がポケットから取り出した携帯は俺たちが見守る中、その手を離れて海の中へ落ちていった。

「あー。もお!」

仕方なく追いかけるように海に飛び込み、落し物を拾いに行った俺は大きな不安を抱え頭を悩ませていた。

はぁ…本当に、大丈夫なのかよ…?


「流ちゃんくん、ありがとー。」

「間違いなく使えないけどな。」

困った表情で笑う杏からタオルを受け取り、俺は呆れて言った。

「教授、その呼び方、いい加減なんとかならないですか?」

何の事を言われているのか皆目見当のつかない様子で首を傾げている姿に、俺は再び溜め息を吐いた。

「杏が、二人になった…」

思わず本音が溢れた。

「ん?」

「何かな?」

同時に振り向く仕草まで一緒とか…やってらんないわ。

「何でもない!」

一方的に話を終わらせ、俺は自身の荷物を担ぎ家に向かって歩き出した。

「あ、流ちゃん、待ってって。」

「僕も一緒に行きます!」

できれば一人になりたい…と思いながらも二人が追いつくのを待つ。

「ほら。荷物、持ってやるよ。」

手を差し出すと、何故か二人から荷物を渡され、同時に『ありがとう。』と笑顔で言われてしまい、仕方がないなと思ってしまう自分の甘さに最早呆れるしかなかった。


「教授の荷物も杏ん家で良いのか?」

「うん。客間に運んでくれる?」

言われるまま勝手に家に入り、客間に教授の荷物を置き、俺は自宅へ戻った。

シャワーを浴びて自室に行くと、そこには今朝と同じ光景がある。

「ずっと見ていたのか?」

「時々眺めておった。」

昨日、俺が見た世界と、昔、杏が見た世界。二枚の絵を並べてジャヴはコップの中からそれを眺めている。

「なぁ。そんな世界が本当に存在していたのか?」

夢や幻じゃなく、実在していたという確証は何もないのだ。海底にあった数枚の壁のことも、俺たちの見た光景のことも今まで一度も聞いたことがない。

「信じられぬか?当然と言えば当然か。だが、幻なんかではない。」

ジャヴは少し淋しそうに笑って話してくれた。

「これは、世界樹とも呼ばれている、この世界のはじまりの地なのだ。」

世界樹?はじまりの地?一体どういうことなのかさっぱりわからない。

「貴様のような低脳な生き物には想像できぬだろうな。」

「はっ悪かったな!」

不敵な笑みで言われてムッとした。結局、素直に話してくれる気はなさそうだ。

「我はこの地を守るために、この世界へと投じられた奇跡の…欠片なのだ。」

そう言って二枚の絵をじっと見つめている。

「なぁ、ジャヴ。あのさ…」

「おい!貴様の背にあるのは傷跡か?」

たまにはちょっとくらい俺の話を聞けよな。

「あ?傷跡?どれだよ。」

小さい頃、海で遊んでいた時の傷跡はいくつもあって、今更指摘されてもどの傷のことかまったくわからない。

「左肩の辺りにある傷だ。」

「左?ん、ああ。これか…」

この傷は、覚えている。忘れることなんてできない。

杏が溺れて、なんとか必死に助けようとした時、何かがぶつかってできた傷だと説明した。

「どうやってできたのかまでは覚えてないけど、なんかが突き刺さっていたって聞いてる。」

あの時俺の伸ばした手は杏に届かなかった…自分の命なんてどうでも良いと思うほど大切なのに、守れなかった。

「六芒星…」

ジャヴが思い詰めた表情で左肩の傷を見ている。

「我の城は地上に記した六芒星の中央に位置しておった。相対する力の象徴や調和の近郊を保つためにな。貴様の傷跡がその形が似ておると思ってな。」

「六芒星に似てるってか?」

そんなにキレイな形じゃなかったはずだ。

「我が国の旗の話だ。」

国旗に描かれている紋章みたいなもののことだろうか。

「ふーん。ジャヴって本当にちょっと偉いヤツだったんだな。」

「ふん。小賢しい。」

一応仕事の関係上、様々な国を訪ねている。民たちを守り、平和と呼べる時代を築こうとする者、私利私欲のために平気で民たちの命を捨てゆく者…各時代の王や神と呼ばれる者たちの生き様に触れてきたのだ。普段は偉そうに自分勝手に振る舞っているジャヴだけど、本来の自分の宿命をしっかり背負ってきた、強いヤツなのかも知れない。もし、この島の秘密が解明された時、少しは近付けるだろうか…ジャヴの本心に。


「流太郎―、開けてー。助けてー。」

開けろってのはわかるが、助けろってなんだよ。

「だから、ちゃんと玄関から入れって…言ったよなぁ?」

勢いよく窓を開け、屋根からの訪問者たちに告げる。

「お邪魔しまーす。」

「こら、杏。」

両手に抱えていた荷物を全部押し付け、靴を脱ぎ捨て我が物顔で居座る姿に呆れた俺は叫ぶ。

「勝手に入んな!」

いつもと変わらず、ただ笑っている杏とつられて自然に笑顔になっている教授…俺はいつまでコイツらの世話係をするのかと、不安になった。

「せっかく乾杯しに来てやったのに、追い返すんだ?」

調子に乗って言い返してくる杏と、正面切って向き合う。

「おう、上等だ。遠慮せずに帰って良いぞ!」

まるで子供のケンカみたいに俺たちがくだらない言い合いを続けていると、教授はニコニコしながら上機嫌で見物している。

「教授?」

違和感と視線を感じて杏が尋ねる。

「君たちはホントに仲が良いね。羨ましい限りだ。どうぞ、気にせずに続けて。」

ズレた眼鏡を直しながら、優しい笑顔で言う。

「羨ましい、ねぇ。」

俺たちは苦笑して顔を見合わせた。


「ところで流ちゃん、明日の探索場所なんだけどね。」

地図を広げるのかと思い、その変に散らかっているものを片付けようとしたら、杏は慣れた手つきで折りたたみ式のタブレットを開き電源を入れた。

「へぇ。便利な世の中になったもんだな。」

腕を組みながら感心した様子で頷く俺に冷ややかな視線が届く。

「よく言うよ。まだ試作段階だけどね。」

睨みつけている杏を見ないように俺は軽く咳払いをした。

「んー?いつだったかどっかの大学の研究室にあったらいいなシリーズを発案してくれたら嬉しいなと、お願いした記憶があるような…ないような?」

一生懸命言い訳しているのに、既に杏は俺の話なんて微塵も聞いていなかった。

「明日の目的地は入江にしようか?」

「はいはい。仰せのままに。」

自分の知りたい部分が見えてこない以上、俺にとってはどこに潜っても同じことだ。

本当は、今日撮った映像や写真を一緒に見ていろんなことを話したかった。海底にあった数枚の壁や刻まれていた絵や文字のようなもの…小さなことだったとしても、きっと俺たちの知らない何かを話してくれると思ったから。

ジャヴ、おまえに話したいことや聞きたいことが、たくさんあるんだ。


「あ、そうだ。流ちゃんが拾ってきてくれた採集袋、見てみようよ。」

杏は勝手にオレの道具箱から適当なトレイを引っ張り出し、袋の中身を広げ始める。

乾いた真っ白な砂がサラサラと音を立てて流れ出し、トレイの中に小さな砂山ができた。

「あ!ずるい、僕も見たいです!」

ずっと無言で散らかった資料やスケッチブックを夢中で眺めていた教授が勢いよく手を挙げる。


「これ、貰っても良い?あ、これも良いなぁ。」

深海で拾い集めた物たちに対して歓喜の声を上げながら見ている教授は、いつかの俺たちのようにはしゃいでいる。

大人たちにとってはただのゴミやガラクタなのに、俺たちには未知なる物たち。それらは一瞬にして大切な宝物へと変化する。

欲しいものを両手いっぱいに抱えた『教授』という名の少年はそそくさと置きっぱなしになっている俺の勉強机に住み着いてしまった。

「しばらく現実こっちに戻りそうにないね。」

「良いんじゃないか。」

宝物をひとつひとつ大切に確認する真剣な眼差しの少年を見て、楽しそうに笑っている杏につられた俺もまた微笑んでいた。

一応、明日の予定は決まったのだから、慣れない長旅で疲れている教授には至福の時間を過ごしてもらおうと、俺たちは少し離れて静かな酒盛りを始めた。

「あ…」

「あ、悪い。」

空になっている杏のグラスに入れようとした酒を零してしまった。

「めずらし。もしかして流ちゃん、酔ってんの?」

頬を染めてクスクス笑いをされ、『酔ってんのはおまえだろ?』と思いつつ、俺はそっぽを向いた。

「全然酔ってねぇし。」

俺は拗ねた態度でグラスの酒を飲み干し、再びグラスに酒を注ぐ。

「ねぇ。これ…見て。ねぇって!」

「んー?」

言われた通りに杏の示す場所を見て、一瞬言葉を失った。


俺が零してしまった透明な液体は、真っ白な砂を覆い、徐々に浸透していく。でもこれは…もしかしたら混ざり合って一体化している、のか?

「なんで砂が溶けてんだ?」

じわじわと真っ白な砂が液状化している。

「深海の砂の、特性とか?」

そんな話聞いたことないわ。でも、じゃあ、目の前で起こっているこの現象は何だ?

「まさか。溶けるんなら珊瑚だろう?」

意見を交わしていても、お互いに視線を外すことができない。

要するに、俺が零してしまった強いアルコールの成分が原因となり、何らかの化学反応が起こり、深海の砂が溶けたという事になる。誰かのデータや記録で微かな知識としては待っているが、本当に起こりうる現象だなんて思っていなかった。

俺たちはしばらくその様子を黙って見守っていた。


不思議な化学反応により、真っ白な砂を溶かし、春の雪解けの世界を思わせる光景が生み出されて時が止まった。そして俺たちの興味は砂に埋もれていた物たちへ向く。

「流ちゃん、これって本物?」

「ああ。純金だな。昔の装飾品の一部かもな。」

溶けた砂の中から、何かを模った物、円形や三角形らしき飾りのような物も出てきた。いつの時代の物か、調べないと詳細はわからないが、果てしなく長い時間を生きてきたのは事実だろう。

「欠けちゃってる…」

「仕方ないだろう?」

でも、こんなにちゃんとした形で遺っていることがすごい。きっとあの場所に人間が侵入していないという証拠だ。そんな貴重な場所にどうして今回たどり着く事ができたのか、謎は多いが島の秘密に少し近付けたという事かもしれない。

感慨深げに眺めていると、杏がひょいっといくつかのパーツを掴んで俺に背を向けて部屋の隅に座り込んだ。

「何やってんだ?」

「秘密!」

元気よく即答するくせに、変わらず背を向けて一生懸命に作業を続けている。

教授もまだ机に住み着いたままだし、杏までそういう態度なのかよ。

「あ、そ。」

なんだか面白くない俺は、そう呟いて仕方なく窓から流れている雲を眺めることにした。

自由自在に形を変え、行き先を変えて一体どこを目指しているのだろうかと、いきなりそんな疑問と出会ってしまい、しばらく考え込んでしまった。

「はい。ご褒美。」

「は?」

突然、当たり前のように俺の背中に飛び乗ってきた杏が、首に何かを掛けた。

「今回の依頼報酬―。」

「はぁ?洒落にもなんねぇわ!」

なんとか背中から振り落とそうと身体を動かしても杏に効果はない。

「えー。せっかくオレとお揃いなのに。ほら。それに頑張って磨いたからピカピカでしょ。」

そう言いながら、自分の胸元で光るネックレスを誇らしげに掲げている、嬉しそうな笑顔を見て拒否なんかできるわけがない。

「…ありがとう。」

「うんっ」

嬉しそうで何よりだけど、その笑顔は正直…反則だって気付けよな。

砂の中から見つけた三角形の飾りに革紐を通したネックレス。さっきまで砂に埋もれていたガラクタに違いないのに、杏の手によって世界にたったひとつの宝物になったというわけだ。

本来なら…貴重な発掘物として報告し、保管しなければならない対象物なのだけれど…

「今回くらいは、まぁ良いかな。」

ネックレスにそっと触れながら俺は無意識に微笑んでいた。


「これ、真珠だな。」

砂の中に少し見えた光沢のある球体をつまみ上げてみる。

「うん。やっぱり真珠だ。」

「え?でもよく見るものより小さいし、黒いよ?黒真珠なんて貴重な物が簡単に見つかるわけないじゃん。」

もともと真珠よりも一回りくらいは小さいのだが、確かにこれはそれよりも小さい。

黒真珠、か…

その時、ジャヴの不機嫌な顔を思い出してしまい、堪えきれず笑ってしまった。

「流ちゃん、どうしたの?」

「いや。何でもない。」 

隠し事は得意じゃないから、できる限りしないように心がけているつもりだが、ジャヴの事はどう話せば良いのかわからなくて、結局未だに言えないのだ。

「流太郎は黒真珠に興味がないの?」

見つけた球体を指で転がしている俺に杏が不思議そうに尋ねてきた。

「ない!」

はっきりと言い切った俺を、杏は呆気に取られた表情でじっと見ていたが、何故か急に弾けたように大笑いしだした。

「お、おい。大丈夫か?おまえ、なんか変なもん食ったのか?」

目尻に溜まった涙を拭って、深呼吸をすると、やっと少し落ち着いてきたみたいだった。

「あー。やっぱオレ、流太郎の事…好きだわ。」

その言葉に、今度は俺が杏を凝視してしまった。

「あのさぁ…」

「うん?」

俺は杏の正面に座り直し、じっと見つめた。

「丁重に、お断りして良いかな。」

「は?」

何を言われているのか理解できていない杏に、言葉を付け足してみた。

「俺、その…そういう感情って、よくわかんなくて…」

「流太郎?」

杏は不可解な顔で首を傾げている。

「だから!告、白とか…そういうの、えっと…その…」

何かを伝えたい時に限って、どうしてこんなにも上手く言葉が見つからないのだろうか。

「ぷっあはははは。」

「なんで笑うんだよ!」

杏は文字通り、笑い転げていた…

「だってぇ。告白って…ははは。」

「…?俺、なんか変な事、言ったか?」

きっと今の杏に何を言っても、結局笑われるだけなのかも知れない。

「あー。笑いすぎて死ぬかと思ったぁ。」

笑い過ぎで死ぬヤツがいてたまるか、と思ったがそれ以上何も言わずにグラスに酒を注いだ。

「好きって言っても、恋愛感情じゃないから心肺しなくて良いし、できれば丁重なお断りも辞退したいな。」

「そう、か。じゃあ。そういう事で…」

まだ完全に笑いが止まっていない杏は何度も深呼吸を繰り返し、今度こそやっと落ち着いたようだ。

「愚鈍め。」

ずっと素知らぬ顔をしていたジャヴが、呆れ果てた様子でポケットからそっと顔を覗かせる。

「うるさいっ。」

そんな俺たちのやり取りなんて、杏には届いていない…はずだった。

「ねぇ。流太郎に聞きたい事があるんだけど。」

「急に、何だよ。」

改まって言われると、やっぱりドキッとしてしまう。

「その生き物は、何?」

「えっと…」

杏の見つめる先にいるのは、もちろん…

「我が名はオケアノス。ジャッヴァだ。やはり見えておったのだな。」

「おお。海の神!」

嬉しそうに目を輝かせて杏が叫ぶと、ジャヴは少し照れながらも破顔していた、

「…にしては、ちょっと小さいねー。」

そう言って杏は、指でジャヴの大きさを測る仕草をした。

「類は友を呼ぶ、か。なんと嘆かわしい事だ。」

嘆いているのか、拗ねているのかこの際どっちでも良いが…はっきりさせておくべき、重要な事がひとつある。

「杏、いつから知ってた?」

「んっとね。初めて流ちゃん家に遊びに行った時だよ。」

「…かなり、前だな。」

いつだったか、はっきり思い出せないくらいかなり前の話だ。

「ジャヴ、さっきやはり見えてたって言ったよな?もしかして気付いていたのか?」

何を言っているんだと言いたげな目で偉そうに俺を見た。

「無論。何度も視線が合えば当然わかるであろう。」

視線、ねぇ…

「あ、そ。」

俺たちのやり取りを見ていた杏はクスッと笑った。

「セイレーンの鱗のせいだよ。不思議な能力が宿っているらしい。」

「何だって?」

セイレーンの鱗って何の話だ?

「そうか。やはり持っておるのか。」

妙に納得しているジャヴと、何度も頷いている杏の顔を交互に見る。急に二人の世界って感じでなんだか面白くない。

「島を出る時に渡したピアス。オレが溺れた時、髪についてた鱗を加工して作ってもらったんだよ。」

「あ、そ。」

俺だけが、知らなかったのか…

「ところで、あんずとやら、其方は杏の木の末裔か?」

きょとんとした表情でジャヴを見て『さぁ?知らない。』と言って苦笑している。


杏の花はこの島を象徴する花。

まだ寒い時期にキレイなピンク色の花をひっそりと咲かせる。慎み深さや不屈の精神の意味を持つ繊細な花だ。

遠い昔に大陸を離れ、人知れず存在しているこの島に似合った花だと思う。


「そうか…面影を感じるのに、残念だ。」

誰の面影だよ。

少し残念そうなジャヴを放っておき俺たちがグラスを傾けていると、どこかの時計の音色に日付が変わったことを告げられ、どちらともなく部屋のある場所へと視線を巡らせる。

「よく、寝るよなぁ。」

「ま、いつものことだけどね。」

意気揚々と陣取った勉強机に突っ伏し、幸せそうな寝息を立てている教授を見て微笑んだ。

優しい海の子守歌が響きだすと、知らぬ間にそっとグラスに入り込んだ三日月も笑みを浮かべたように、静かに揺れていた。

それから俺たちは共通の懐かしい話や別々の世界で過ごしてきた話を夜通し語り合った。


数時間だけ仮眠して、俺たちは本格的に探索を開始した。

予定通り、マーキングした場所を重点的に島周辺の海に潜ってみたが、初日に見つけた海の墓標以外に大きな収穫はなく、島の中央部に移動する事にした。

「移動する前にデータ整理して良い?」

設置していた機材から集めてきた写真データ渡すと、杏はすぐパソコンに取り込み始めた。

「ちょっとは役に立つデータがあれば良いけどな。」

三日間、ほぼ丸一日がかりで海中を調べているのに異変や発見がないという事は、たぶん場所が悪いのか、本当に何もないか…だな。

有力な情報の元、長期で探索しても手がかりひとつ得られない時だってざらにある。こんな仕事をしていればだんだん慣れてくるものだ。ただ、この島には『最古の秘境』と呼ばれる由来があるはずだと思っている。

「俺は収集品を片付けるわ。」

「うん。ありがとう。任せる。」

もし役割も考えて俺に依頼をしてきたのなら、なかなか見る目があるかもな。

先に仕込んでいた膨大な映像データを真剣に見つめている杏の隣で、自身で撮った写真をプリントし、地図に場所を記していき、物質などの詳細も確認しメモする。

無言で分担作業をこなしている間、ジャヴが大人しく待っているはずもなく、懐かしいやら気になるやら大忙しで、俺と杏の頭や肩を行ったり来たりしていた。

「愚鈍、今のは何だ?」

「貝殻が積み上げられていたんだ。」

二日目、入江に潜った時かなり深くまで下りていく途中で出会った物だ。何かを模ったようにたくさんの貝殻が積み上げられていた。一体誰が何のために作ったのか、それとも何かの影響で自然に積み上げられたものなのか、わからない。ただ、遠目から見れば錯覚を起こし、巨大魚と見間違えるかも知れない。

「ふむ。貝殻か…なかなかの出来だなぁ。」

感心した様子でプリントされた写真を眺めている。

「あんず、この壁画の文字を映してくれ。」

「あー?はいはい。」

円滑に仕事をするためとは言え、杏は苦笑気味にジャヴの申し出を受けていた。そんな二人を見て微笑ましさを感じた。

「なぁジャヴ。壁画の文字、読んでくれるか?」

「構わぬ。どの文字だ?」

予想に反して素直に承諾してくれるという事はジャヴも島の事が気になっているのだろう。

俺は深海で出会った壁画の写真を数枚、ジャヴの前に並べた。

しばらく慎重に見つめていたが『ふむ。』と言い、解読を始めた。


― それは眠りへと誘う  子守歌

  それは幻想へと導く  優しい声

  それは破壊の扉を開く  鍵

「セイレーンの歌声の事が記されておるようだな。」

人々を惑わすと言われている、セイレーンの歌。でも、破壊の扉って何だ?


俺の様子を見守りながら、ジャヴは二枚目の壁画の文字を読んでくれた。

― 闇が光を生み 光は闇を照らす

  すべてのはじまりは 闇の中

  ひとすじの光を 生み出せ

闇があるからこそ光が生まれる、ということなのだろうか。それがすべてのはじまり、だと?

だんだん不思議な気持ちになってきた。もっと理解不能な文字が記されていると思っていたからなのか、すごく純粋に感じたままの言葉が紡がれているような、そんな気がしてくる。


― その扉 開かれし時

  はじまりの地へと 還る…

はじまりの地?ジャヴが言っていた、この島の事なのか?

  陰・闇・破壊・悪・水・女

  陽・光・創造・善・火・男

「ちょっとジャヴ待って。それは何?何かの呪文か?」

「ふん。愚か者めが。」

深い溜め息混じりに言われ、さすがにちょっと傷ついていると、杏が手を止めて振り返る。

「それ、六芒星の事だよね?六芒星の右上の角を①と考えて、時計回りに陰・闇・破壊・悪・水・女を意味していて、逆回りにすると陽・光・創造・善・火・男を意味する事になるんだよ。」

専門外だからあんまり興味がなかったけど、六芒星にそんな意味があるのか。

「何かの呪文じゃなくて、六芒星を意味する文字って事か…」

「ご名答。」

なるほど。

じゃあ、遺跡調査でも拘りを捨てて、違う方向性で辿ってみるのもありかも知れないと思ってしまった。

「六芒星って、ジャヴの国の、旗…」

俺は二枚の絵を見つめていたジャヴの姿を思い出した。

「なぁジャヴ、あのさ、おまえは…」

おまえは、あの頃に戻りたいか?

「何だ?」

美しかったであろう、本来の湖を甦らせたいと願っているか?

「いや。なんでもないわ。ごめん。」

「解せぬヤツだ。」

わざとらしい仕草で首を左右に振りながら溜め息を吐かれたが、そんな事、気にもならなかった。一体ジャヴの本心って何を望んでいるのだろう。遠い昔を懐かしんでいるようにも見えるけれど、彩湖を甦らせる事を望んでいるわけではなくて、本当は秘密のままそっとしておいて欲しいんじゃないだろうか。

「誘われし場所へ向かえば、おのずと解明できるであろうな。」

ジャヴは意味深な笑みを浮かべてそう言った。

誘われし、場所。それはきっと彩湖の事だ。


そしてある程度情報の整理が終わった俺たちは、かつて湖があった島の中央部へ向かう準備を始めた。

今は…いや、俺たちが生まれるもっと前から既に湖は干上がっていて、美しき姿を誰も知らない。大きな窪みとして跡地が残っているからこそ、調査に最適な状況だと言えるだろう。

「ジャヴも一緒に来てくれるの?」

「彩湖にか?」

眉間にシワを刻み、杏に問い返す。

「行きたく、ない?」

不安そうな顔でジャヴの瞳を覗き込む杏に、フッと優しい笑みを浮かべた。

「そうではない。少々気がかりではあるがな。」

気がかり…?

「おまえたちは、彩湖が甦ると思うか?」

もちろん実際に見たことがなくても、情報として得ることはできるから、古の美しき姿を全く知らないわけじゃない。

光を集め、湖面が鮮やかな光を放つ時、幻郷が現れるというそんな伝説が語り継がれている。その幻郷を求め、争いが繰り返されたという記述もあった。

「世界樹と湖の関係性が明らかになるのが、怖いのか?」

幻郷はジャヴの城と彩湖島の秘密に繋がっていることは間違いないだろう。

「いや。怖いわけではない。ただ、現世で多くのものが知り得た時の事を思うと、少々杞憂ではある。何もかもが昔とは違いすぎておるからな。」

湖が甦った時、再び争いが起こるかも知れないと思っているのだろうか。確かに争いといっても、時の流れとともにいろいろな物が進化した今、ジャヴが知っている争いとは規模が違ってくる。そして、繰り返される争いの中を実際に生きてきた彼だからこその杞憂なのだろう。


「もし…彩湖が甦ったら、オレたちが絶対に守るよ。もちろんジャヴの事も守り抜く覚悟だよ。」

探索準備の手を止め、杏は優しい笑顔で言い切った。

「なるほどな。あんず、おまえの言葉なら信じてやろう。」

なんかジャヴって杏に対して異様なほど素直だな。俺の時はすぐ突っかかってくるのに。

柔らかな笑顔で杏の肩に座るジャヴを不思議な気持ちで見つめていた。もしかしたら、杏の精が関係しているのかもしれない。


「流太郎―。サボってないで手伝ってー。」

「サボってないわ!」

既に湖底部に移動している杏が、大きく手を振って俺を呼んでいる。

「さて、始めるか。」

俺は心の中で何があっても必ず二人を守ると強く誓い、胸元で揺れるネックレスをそっと握り締めた。


「うわ…これ何語?オレには読めない…」

湖底と真剣ににらめっこしながら文句を言っている杏の頭に手を置き、覗いてみた。

「…φλ?γα」

「へ?流ちゃん、読めるの?」

「フロガ。ギリシャ語で炎の事だ。」

杏とジャヴは驚いた顔でじっと俺を見ている。

「なん、だよ。」

まっすぐな瞳でじっと俺を見つめている杏が信じられない感じで呟く。

「流太郎ってギリシャの人だったの?」

「は?バーカ。どれだけ遺跡探ってきたと思ってんだ?それくらい読めるわ。」

得意分野は古代文字だが、とりあえず主要な国の最低限の言葉くらいは頭に入っている。

「ねー。これは?なんて書いてあるの?」

「移動するの速くないか?」

今、すぐ隣で話していた杏は数メートル先の場所から叫んでいる。

「Νερ?…ネロ、水の事だな。」

その後も何度か同じようなことを繰り返し、湖底に記されている文字を追っていった。

「φλ?γα(フロガ)炎・Νερ?(ネロ)水・?νεμο?(アネモス)風・φω?(フォス)光・σκοτ?δι(スコタディ)闇・βροντ?(ヴロンディ)雷で合ってる?」

「ああ。」

杏は拾い集めた慣れない文字に葛藤しながら大切に書き留めている。

「ねー。ちゃんと見てくれたの?」

何がそんなに不安なんだよ。

「六芒星について調べているのかい?」

「教授!」

爆睡している教授を起こす事を諦め、今日の予定をメモで残してきた俺たちも悪いのだろうが、

こんな時間にのほほんとやって来る神経が理解できない。

「君たち、早起きだよねー。僕はさっき起きたところなんだ。」

説明してもらわなくても、その格好を見ればわかる。せめて、寝癖くらい直してこいよな…

「もうすぐ午後三時、ですけどね。」

「わー。おやつの時間だ!」

二人は弾けるような笑顔で両手を上げて喜んでいる。

「そんなものはない!」

嫌味を込めて時間を告げただけなのに、二人が連想させたのは『おやつの時間』だった。まさか、こんな事態に陥るなんて予測していなかった。

「今はこんなもんしかないわ。」

そう言ってすっかり拗ねている二人にキャラメルを渡した。

「わー。ありがとう。」

「懐かしいねー。」

単純なヤツらだ…でも、対応を間違えるとなかなか面倒くさいかもしれないと、今更再確認した。

「で、教授。さっき六芒星って言ったけど…なんで?」

壁画に刻まれていた文字とは異なっているはずだ。一体どういう繋がりがあるのだろう。

「彩湖の六芒星が表しているのはちょっと特殊でね。言葉の意味というよりは色彩を表しているんだよ。」

言葉の意味ではなく、色彩?

「炎は赤、水は青、風は緑。光が黄色で、闇は紫、雷はオレンジ。」

教授がにこやかな笑みを浮かべて空を指差し、俺たちは自然に空を見上げた。

「まるで虹の色だねぇ。さすが、彩湖って感じかなぁ。」

そう言ってズレた眼鏡を直して嬉しそうに笑っている。


その後も教授は杏のノートを真剣な顔で見ていた。

「湖底にこの文字が刻まれていたのかい?」

「うん。この位置です。」

杏は地図を広げて文字を見つけた場所を順番に記していく。

「!これって…六芒星になってんのか?杏、おまえ…なんでこの順で辿ったんだ?」

「え、と。ごめん、わからないんだ。」

杏が文字を見つけた順に辿っていくと、一本の線で結ばれて六芒星になったのだ。

ジャヴが話してくれた、地上に描かれた六芒星の中央に城があったということが事実なら、この彩湖の中央部に何か残っているかもしれない。

「ん?」

ジャヴの姿を探して周囲を見回すと、やっぱりそこにいた。

杏と教授が話し合っているのを横目に、俺は湖の中央部へと歩き出した。


「何か、見つけたのか?」

「いや。特に何も。」

静かに返される言葉にも、態度にも…いつもの覇気がない。もしかしたら、もう少しで何かがわかるかも知れないのに、あまり嬉しそうじゃないジャヴは何を考えているのだろうか。

「貴様は、何か見つけたのか?」

「俺?そうだなぁ。これ、くらいだな。」

そう言って足元の石板を示す。

「εξ?λφα(エクサルファ)六芒星…」

この地に、かつてジャヴの城があったのか。

「島を守る際、閉ざした扉にも同じ文字が刻まれておったな。」

閉ざした、扉…だって?

海が割れた時の話か。溺れて少女を助けたくて奇跡を起こした者というのは、もしかして…ジャヴ自身なのか?

己の生命と引き換えにして起こしたと言われているが、もしもジャヴが人間の姿と引き換えに扉を開き、その能力を代償として扉を閉ざしたのだと考えれば…海を眺めていた少女と話すためにわざわざ人間の姿を借りたということも説明がつく。

はじまりの地を守り続けられるほどの能力。本来の能力が弱まってしまい、維持していくためには小さな姿になるしか術がなかったのかもしれない。

そして海底の扉を開閉したことが引き金となり、大陸から離れ孤島として存在し続けているのだとしたら…?

「なぁ。海が割れた時、湖の中心部から海へと水が流れ出したんだよな?」

「そうだ。それにより島の均衡が保てなくなり、すでに脆くなっていた細部が崩れてしまい扉を閉ざした時、大陸との繋がりが完全に絶たれてしまった。その時はまだ水が残って負ったのだが…徐々に減っていき、やがて一滴もなくなった。もしかしたら、扉がしっかりと閉じられていなかったのかもしれないな。」

それからずっと変わらず、この窪みだけが残っているのか。

「城がなくなったのは、いつ?」

「…我がこの姿になった時、扉と共に城も封印した。もう、必要のないものだったから構わないのだ。」

美しい彩湖を失ってしまったから、という意味なのだろうか。それとも他に理由があったのだろうか。

「そうか。話してくれてありがとう。」

「ああ。」

話し終わったジャヴは不意に空を仰ぐ。

流れ過ぎてゆく時間に思いを馳せているのか、大切な何かを想っているのか…どこか遠くを眺めている。こんなにも寂しそうな横顔のジャヴを今まで一度も見た事がなくて、胸が締め付けられるほど切なくなった…ずっと一人でこんな感情と向き合っていたのだろうか?深い深い海の底でジャヴは何を思っていたのだろう。守るものを失ってしまったから…誰にも邪魔されない場所で…あの貝の中で眠って、いた?


「流太郎―!」

「流ちゃんくんも、手伝って…くれるかい?」

元気に駆け寄ってくる杏と、体勢を何度も崩しながら歩いてくる教授の叫ぶ声で、現実に引き戻された。

「おー。俺は何をすれば良いんだ?」


教授たちの話によると、湖底に記されているのはやはり六芒星に関係している可能性があるらしい。

そして文字が刻まれている石板に何かをはめ込む事により、封印されている何かが解かれるはずだと言う。

「その封印が解かれれば、彩湖は甦る…と?」

「たぶんね。僕の仮説が正しければということになってしまうから、やってみないとわからないんだ。」

その結果、何も起こらない可能性も想定しておけということか。

ズレた眼鏡を直しながら、教授は自信なさげに視線を泳がせている。

「で、何をはめ込めば良いんだ?」

「これ、だよ。」

杏は小さな木箱を取り出し、俺に見せてくれた。

「黒真珠…」

「島の探索を始めた頃からずっと採取していたんだ。微妙な誤差程度だけど、大きさや形が違っているから、きっと場所が決まっているはずだよ。」

…だろうな。大抵の場合はどこにどれが入るのか、気長にひとつずつ試していかないとわからないものだと決まっている。たったひとつの謎を解く事が、どんなに大変な事かってわかってるつもりだ。

「まぁ。やるしかないな。」

「うん!」

俺たちは文字を見つけた順番で、石版に刻まれている文字の下部にある穴のような場所に真珠をはめ込んでいく。


「これで…最後だね。」

なかなか気が遠くなるような作業だったが、途中から楽しくなっていた。真剣な表情で順番に石板を辿っている二人に、なんだか難しいパズルのピースが上手く合わさった時のような感覚がクセになりそうだなんて、言えないけれど。

「ああ。」

遂に、彩湖が甦るのか?

杏が微かに震える手で、最後の黒真珠をはめ込んだ時…

「え?」


「…あー。二人とも、ごめん…」

何も起こりそうにない湖を、俺たちは無言で見つめていた。


「ま、こんな時もあるさ。」

どれほど時間をかけてこちらが何かを仕掛けても、リアクションどころか、小石ひとつ動かないなんて事、よくある事なのだ。

「流ちゃん…」

頼りない声で呼ぶ杏に、余裕の笑みを返す。

「大丈夫だ。」

仲間が不安な時は、笑って『大丈夫』だと伝えるだけで良い。ほんの少し弱った心があったかくなる気がするから。ただ、その一言だけで良いんだ。


でも…一体、足りないものは何だ?どうすれば…

「ジャヴ。教えて、くれないか?」

「……」

俺の問い掛けに返事は、ない。

彩湖は蘇るべきではない、という天啓か?

「今日は、大人しく引き上げましょうか。」

「そうですね。これ以上待っていても何も起こりそうにないから。」

教授も杏も肩を落とし、湖底から出て帰り支度を始めている。片付けを手伝いたいのに、俺はその場から動けず、ぼんやりと二人の姿を見つめていた。

やり残している事、見過ごしている事は…本当に何もないのか?

すべての可能性を試したのか?

俺はゆっくりと目を閉じ、海と湖で過ごした時間を思い出していた。


「流太郎、帰るよー。」

杏が俺を呼ぶ声に、遠い昔の記憶を思い出した。何かがあるわけではないが、俺にとってのはじまりは、海…だ。

「先に帰ってくれ!悪い。ちょっと用事―!」

「え?用事?あ、ちょっ…流ちゃん!」

慌てる杏の声を背に、俺は海へ向かった。


立ち入り禁止の札を潜り、崖の上に立つ。

吹き上げてくる風は強くて鋭い。そして岩肌に当たる波も勢いよく水しぶきを作り出している。それなのに月光の薄明かりは水面の緩やかな波を優しく照らしている。

理由はわからないけど、ここに来ればなんとかなるような気がした。

「よく…こんなとこから飛んだよなぁ。」

大人になった俺でも、多少の恐怖はある。飛び込めと言われても…きっと躊躇してしまう。

あの人は、微塵も躊躇っていなかった。

幼い頃に見た情景を思い出し、つい零してしまった本音に苦笑しつつ、ゆっくりと海を覗き込もうとした俺は、腕を強く掴まれて驚いた。

「流太郎!」

先に帰っているはずの杏が目の前にいる。行き先なんて伝えていないのに。

「なん…で?」

俺の言葉なんて全く聞いていないみたいだ。

「ダメだ!」

必死な表情でしがみつく杏が、勘違いしているのだと気付いた俺は笑ってしまった。

「バーカ。やらないよ。」

カッコ悪いけど、足が竦んで飛び込むどころの話じゃない。

「本当に?」

どうやら俺の言葉は信用に値しないらしく、腕を掴む手に力が入った。

「嘘じゃないって。ほら、帰るぞー。」

踵を返し、杏を引っ張りながら歩き出す。

「流太郎!オレ、本気で心配したんだからな!おいっ聞いてんのかよ!」

引きずられながらも、杏は文句を言い続けている。

「はいはい。聞いております。」

適当な言葉を返すと、やっぱり杏は更に不機嫌になる。

「あー!絶対に聞いてないだろ!」

「ちゃんと聞いてるって。」

突然、勝手に行動したオレが全面的に悪いんだけど。何もわからないまま残された後、きっと不安で、イヤな予感がして、慌てて探して来てくれたのだろう。あんなに必死な杏の顔…初めて見た。

「杏、心配かけて悪かっ…うっわぁ。おまえなぁ!」

前を向いたまま謝罪を告げる俺の背中に、いつもの衝撃が走る。

「流太郎のバーカ。」

そう言って俺の背中に顔を押し付けている杏の瞳に涙が光っていた事なんて、知る由もない。

「なぁ杏。明日、ちょっと試したい事があるんだけど、付き合ってくれるか?」

「…しょうがないから、付き合ってやるよ。」

いつもの調子でクスクス笑いながら言われ、何故かホッとしている俺がいた。


次の日の明け方、まだ暗いうちに俺と杏はもう一度、湖に来ていた。

「流ちゃん、何するのー?」

寝ぼけているせいで、普段より動作の鈍い杏を湖の淵に座らせると、地に着かない足をプラプラさせながら問い掛けてきた。

「ああ。これ、ちょっと借りるぞ。」

「あっ」

まだ覚醒していない杏から、強引にネックレスを奪い、歩きながら革紐を外す。

「返せよ!」

すぐに立ち上がり追いかけてくる姿を見て、寝起きが悪い杏なのに、そんな俊敏な動きができるんだと感心してしまった。

「すげぇ。杏が起きてる。おはよー。」

歩く速度を変えず、軽く振り向き笑顔で挨拶をする。

「うん?おはよう。…って違う!返せって言ってんの!」

立ち止まり、丁寧なお辞儀までしてくれる杏を見て、つい笑ってしまった。


「ちゃんと返すよ。」

俺は湖底の中央で歩みを止め、杏の方へ振り返る。

「それ、どうするの?ねぇって!」

無言で足元を示し、ゆっくりとしゃがみ込んで、深海で見つけたふたつの三角形を石板の上に上下逆さまにして重ねて置く。

「六芒星?」

「そう。なぁ、ジャヴ。手伝ってもらえないかな?」

杏の肩に座り、無言で一部始終を見つめているジャヴに声を掛ける。

「何故、我に助けを求める?」

「おまえこそが、選ばれし者…だろう?」

― 前世の理が 連鎖を生む

ジャヴと俺、そして杏は時代を越えて出会った。

― 蘇る記憶と 繋ぎ止める言霊

海が割れ、島が大陸から離れた物語。

湖底に刻まれた言葉たちが繋がった。

― それはいつか 謎に包まれた真実を解き明かすだろう

彩湖島は世界樹であり、はじまりの地だったことを知った。


最初に発見された壁画に刻まれていた言葉の意味が分かりかけてきた。そして彩湖を甦らせるために必要なのは、きっと閉ざされた扉を再び開く事だ。


「無理に、とは言わない。もしおまえの心に少しでも迷いがあるのなら、俺はこれ以上何も望まない。」

「……」

世界最古の秘境と呼ばれている、この島の事を知りたいと思う気持ちに嘘はない。でも、誰にも暴かれてはいけない伝説というものが存在している事も、紛れもない事実だ。

これから先も、俺はそんな無数の伝説を守る側であり続けたい。

「覚悟はできている、といった顔だな。」

ジャヴは穏やかな微笑みを浮かべてそう言った。

「良かろう。だが…残念ながら我にできる事は、これをくれてやる事だけだ。」

ジャヴは小さな箱を渡してくれた。

「箱?」

「貴様になら、開けられるであろう?」

挑発的に言われ『当然』と答えた俺は、板を順番にスライドさせ、手渡されたカラクリボックスを開けた。

「真珠と、黒…真珠?」

このタイミングで俺に渡すという事は、もしかして…壁画に刻まれていた真実と虚妄の化身とは、この事なのか?

もしその言葉を、己が閉ざした扉を再び開け放つために記したものなのだとすれば…ジャヴの言霊、ということになる。

「杏!」

「えっ何?どういう事か、わかんないんだけど。」

壁画の文字を解明していない杏は、かなり焦った様子で俺たちを見つめる。

「杏。俺と一緒に…これを六芒星の上に並べて欲しいんだ。」

「オレ?」 

選ばれし者、そう。おまえは…『海の王』は俺たちを選んだ。

「ああ。杏、おまえと俺がやらなければならないんだ。そういう事なんだろう?オケアノス・ジャッヴァ。」

ニヤリと笑いながらジャヴに告げると、微笑んで静かに頷いてくれた。


― 光射し 幻想と化す時 真実の姿、現わる

  常は壁を越え 古の理をも壊し

  未知の姿を 示すであろう

  真実と虚妄の化身を手に

  選ばれし者と共に 開くであろう


俺は何度も読んで覚えてしまった言葉を唱え、杏と一緒に真珠と黒真珠をそっと石版の上に置いた。

木々のすき間から朝日が差し、湖底を照らし始めると不思議な事に、昨日置いた黒真珠たちが光を宿して輝き出した。

「流、太郎…水、水が…」

足元から少しずつ、少しずつ水が溢れ出し、色を宿した黒真珠の放つ光が集まるその先には…

「杏、見て。」

「あ、れは…世界樹?」

俺たちが水中で出会った幻が、今、目の前に存在している。

本当にあったんだ。

水で満たされているシャボン玉のような球体の中で、集められた光を受けてその世界は生きていた。

「あれが、おまえの城なんだな…ジャヴ。」

杏の肩に座っているジャヴを見ると、微笑みを浮かべ、目を細めてその光景を懐かしんでいるようだった。でも、不意に何故か淋しそうな表情に変わった。

―…って、おいで。

「え?う、うわぁ…!」

「杏!」

湖の水がいきなり勢いよく吹き出し、杏を捉える。

「りゅ、流太郎!」

「なん、でだよ。」

吹き出した水は、一瞬で杏の身体を覆い、湖底へと連れ去っていった。流れ出した海水は止まる事なく、湖を満たしていく。

「愚鈍!早く追え!あんずを…」

ジャヴの声よりも早く、俺は杏の姿を追いかける。


―…っておいで。さぁ、還っておいで。


湖底の開いた扉を通り、流れに逆らって海へと向かう。

『杏、どこだ?』

早く見つけないと大変なことになる。

『杏!』

だんだん息が続かなくなり、目の前が歪んでいく…このままじゃヤバいな…

『くそっ!』

「愚鈍!このまま諦めるのか!」

ジャヴの…声だ…

『諦め、るだって?諦める…わけ、ねぇ!』

遠くなりかけた意識が戻ってきた俺は、一度体勢を整えるために水面へと浮上した。

「っはぁ。杏…どこ行ったか、わかんねぇ。くっそお!」

「落ち着かぬか!この愚か者が!」

焦っても仕方がないとわかっていても、気持ちがついて来ない。俺は目を閉じて何度も深呼吸をした。

「ジャヴ。杏を、見失った。どう、探せば良い?頼む…教えて、くれ。」

海に慣れている者でも、長時間息を止め続ける事はできない。無理矢理連れて行かれた杏は咄嗟に酸素を溜めるなんてできなかったはずだ。

「何か思い出せる事はないのか?闇雲に探すわけにもいくまい。目印とか、方角とかわからんのか?」

島の真下から抜け出し、微かな影を追いかけ浮上したのがこの位置。

「方角は…東。遠くから声が聞こえたんだ。」

感情のない声が『還っておいで』と言っていた。

「時が惜しい。」

俺はポケットに入れっぱなしにしている小型の酸素ボンベを取り出し、残量を確認した。

「約十分なら、潜れる。ジャヴ、道案内してくれないか?」

さっき海の中で聞こえたジャヴの声を思い出す。

「海の中の俺が見えていたんだろう?」

「…まあな。残念ながらすべてではないが。あんずを連れ去ったのは、きっとセイレーンたちだろう。」

どうして、杏なのか…

「もしかしたら、あの面影に強く惹かれたのかも知れぬ。」

面影…そういえばいつだったか、ジャヴもそんな事を言っていた。


杏の樹の末裔が何者なのか、俺は知らないが…

杏が誰かと似ている事が連れて行かれた理由なのかも知れない。

「どんな理由だとしても、必ず杏を助ける。」

「承知した。では始めよう。」

俺は海に入り『了解』の合図をし、静かに潜る。


「セイレーンたちは群れて行動する。ん?左下の方に何かあるな。」

左下?この辺は海の墓標があった場所。

俺は水を蹴り、加速をつけて下へと泳ぐ。

『その岩陰の後ろ。注意して行け。』

ジャヴの指示通り、海底にある大きな岩陰の後ろにそっと回り込むと、そこにセイレーンの姿があった。

『きっと、杏もそこにいるはずだ。』

五、六人程のセイレーンの中央で、目を閉じたままの杏を抱きしめている人物がいる。

あれは…人間、なのか?

『早く、あんずを!貴様も戻れなくなるぞ!』

人間…イヤ、セイレーンたちの中央にいる少女は杏を守るように抱きしめている。その表情は聖母のように優しく微笑んでいるのに、瞳は暗く冷たくて、まるで意志を感じない。

俺は杏の身体を掴もうとして手を伸ばしたが、自然な動きで避けられてしまった。

このままじゃ、本当に杏だけでなく俺も戻れなくなる…

「還っておいで。」

え…?

少女は杏を抱えながら俺へと手を伸ばし、そっと頬に触れる。

「還って、おいで。」

優しい笑顔で光の宿っていない瞳の少女が誘う。

ゆっくりと視界が狭くなり、頭がぼうっとしてくる。目を閉じると、海底の冷たい水が俺の身体からじわじわと熱を奪っていく。

暗くて寒い…なんだか、怖い…

誰か、いないのか?

誰かを、探していたんだ…

誰、を…?何のため、に?

『愚鈍!何をしておる!目を覚ませ。惑わされるでないわ!』

そう、だ。こんなところで終われない。

俺が、杏を助けるんだ。

「還っておいで。」

少女から笑顔が消え、凍てつく程に冷たい手が俺の腕を強く掴んだ。

『流太郎!早く戻れ!時間がない!』

力の限りに少女の手を振り払い、杏を奪って水面へと向かう。

杏を抱えて必死に泳ぐ俺を、何故か追いかけてくる気配はなく、ジャヴの声も聞こえなくなっていた。


しばらく無心で泳いでいると、周囲の状況を把握できなくなり、どうでも良いことが頭を過る。

ああ、そういえばアイツ、初めて俺の名前を呼んでいたなぁ。

あれ?杏は?

杏はどこ、だ?

薄れてゆく意識の中、漂っている杏を見つけ手を伸ばし、そっと指を絡める。

これで、もう離れることはない。

杏。二人なら、きっと大丈夫だよな。

どんな世界だろうと、ずっと一緒に歩いていけるよな。


「さぁ行こう。還っておいで。」

また、セイレーンの声…か?違う。きっとこれはあの少女の、声だ。

ああ、そういう事か。

『流太郎!』

何度も何度も繰り返される言葉の本当の意味がわかったと同時に、再びジャヴの声が聞こえ始めた。


俺、あんたと一緒で海が好きだけど…

この世界、結構気に入ってるから。まだまだ杏とやりたい事も残ってるから…

悪いけど…今、その場所に還るわけには、いかないわ。

生きることを望んでいなかったあんたは、海に呼ばれるままに還ったんだろうけど、俺は…まだ遠慮しとくわ。


頭の中に囁きかける少女の声を振り払い、俺は暗い海底を抜けて、少しずつ明るい方へと泳いでいく。


目を閉じているのか、開いているのかさえわからないくらいの闇の中で、ただ一筋の光を追って上へと向かう。

辿り着く場所がどこだって構わない。

一人じゃないから…不安な時も淋しい時も、怖い時だって大丈夫だった。

そう、いつだっておまえが隣にいたんだ。

杏、一緒に戻ろう。俺たちの世界へ…

俺は無意識に杏の身体を抱きしめている腕に力を込める。


「っ…はぁ…」

なんとか泳ぎきり、岩場に手をかけて杏の身体を陸へと引き上げる。

「杏!」

長時間海底にいた杏の身体は想像以上に冷たい。

「早く、温めないと!」

タオルも毛布もない状況でどうすれば良い?

「貴様もな!」

今は自分の事なんて関係ない。俺にできることはなんだ?何かあるはずだ。

「ジャヴ!杏を助けたい!何とかならないのか!」

悔しいけれど、俺一人の力じゃどうすることもできないのか?

「騒がしい。少し黙っておれ!」

有無を言わせない凛とした声で制された俺は、為す術もなくただ静かに眠る杏を見つめた。

「海の神、オケアノス・ジャッヴァの名の下に命ず。」

目を閉じ、自身の胸に手を添えて何かに語りかけている。

「我が望みを叶えよ。代償は…」

代、償…?

「彩湖の奇跡よ。再び扉を封ず。」

ジャヴは何をしているんだ?再び扉を封じるという事は、彩湖も世界樹も消えてしまうんじゃないのか?

「ジャヴ…おまえ…」

「あんずを助けたいのであろう?我とて同じ過ちを繰り返したくはない。」

そう言って慎み深い微笑みで俺を見つめた。

その時俺は、海が割れた時の昔話が、やっぱりジャヴに関係していることなのだと確信した。

「彩湖が、光っている…のか?」

視界の端の方で鮮やかな光が見えた。

「そのようだな。」

遠いこの場所からでも、島の中央部が光を帯びている事がわかる。一体何が起こっているのだろうか。湖が光っているのか?もしそうだとしたら、湖で何が起こっているのだろう?

「ジャヴ、一体何をしたんだ?」

「今はただ、奇跡を信じろ。」

しばらくその光景を眺めていると、待ち望んでいた声が聞こえた。

「けほっん…けほっ…流、ちゃん?ジャヴ…」

「!杏っ良かったぁ…」

上半身を何とか起こした杏に、思わず抱きついてしまった。

「この、バカッ心配しただろうが!」

本当に、良かった。

「流太郎、ジャヴ。二人とも、助けてくれてありがとう。オレ、まだ…イヤ。何でもないや。」

杏は言いかけた言葉を飲み込んだ。


まだ、還れないよな。おまえも、俺も。そして…きっとジャヴも。


「杏、背中に乗せてやるよ。」

「え?」

いつもは勝手に飛び乗ってくるくせに…こういう時には遠慮するんだ。フッと笑みをこぼし、照れている杏を急かす。

「彩湖に行く。さっさと乗れ。」

「えー。」

文句を言いながら、やっと動き出しゆっくりと背中に乗った。

「あんず、仕方がないから愚鈍の申し出を受けてやったのか?」

笑いを堪えながら言うジャヴを睨みつけるが、気にも留めず俺の背にいる杏の頭に乗った。

「よし、愚鈍。出発しても良いぞ。」

「はいはい。」

今日だけは特別に許可してやるよ。

俺は杏とジャヴを背負い、光る彩湖へと向かった。


彩湖に着いた瞬間、俺たちはどこか別の空間に紛れ込んでしまったのかと錯覚した。

ゆっくりと流れる雲が陽を隠した薄暗い霧の中、目の前に広がっているのは海中を思わせる程に鮮やかな色彩の世界。その世界の中で俺たちは言葉を失い、驚きの声すら出なかった。

湖底から放たれる光は、水の球体に守られている世界樹を優しく照らし出す。その周りを柔らかいジェルのような物体がゆらゆらといくつも漂っている。

「おお。久しいの。皆、元気にしておったのか?」

杏の頭にいるジャヴが優しく語りかけると、二人を包み込むような勢いで浮遊しているジェルが集まってくる。

「ねぇ。この子たちは、誰?」

杏は目を細め、嬉しそうにそっと手を伸ばす。

「ダゴン。水の精霊たちだ。」

おまえ自身、本来は水棲種族だもんな。水の精霊たちは偉大な海の王、ジャヴとの再会を心から喜んでいるはずだ。

この心満たされた時間に終わりなんてこなければ良い。永遠に続いて欲しいと望んではいけないのだろうか。

こんなにも幸せな時間を、俺は終わらせたくない。 


あるべき位置へと戻った黒真珠が、世界樹とジャヴの城をも再現してくれた。

そして甦った彩湖。

この島が彩湖島と呼ばれるようになった由来が明らかになっていく事は嬉しいが…今、その世界の扉が再び封じられようとしている。

あの時、望みを叶えるための代償だと言っていたが、杏を助けるためとはいえ、ジャヴに苦渋の決断をさせてしまった事を後悔している。

自らがずっと守ってきた城や、信頼、尊敬してくれている民たちとの別れを二度も繰り返させて良いのか?

そんな事、させたくない。イヤ、そんな辛くて悲しい決断を何度もさせてはいけないんだ。


「懐かしく、楽しい時間であったが、そろそろ幕引きとするかな。」

ジャヴが静かに告げると、ダゴンたちはゆっくりと名残惜しそうに湖へと戻っていく。

この扉が閉ざされてしまえば、海との繋がりを断たれて、きっと湖の水は枯れる。

では、扉を閉ざした者は…どうなってしまうんだ?


かつて湖の中心部から水が流れ出し海が割れた時、扉を開けた者は、己の生命と引き換えにし、閉ざしたであろう者は、大いなる能力と本来の姿を失った。

仮説でしかないが、もしジャヴが神であることを隠し、人間の姿で生きていた時間があったとしたら?そして、その生命と引き換えにすることを条件にされた時、どうしても守りたい存在のために人間としての生涯を捨てられるのだろうか。いや。そんなものは愚問だ。事実彼は…ジャヴは、海に飛び込んだ少女を救うために、偉大な海の神として存在する自身の完全なる姿と引き換えに扉を開き、はじまりの地を守るため、更に特別な能力を代償にして扉を閉ざした…という解釈になる。

そもそも、扉の開閉を二人の人物が行ったと思い込んだことが間違いなのだ。

少女を助けるために扉を開けたのは、何らかの理由で人間の姿で生きていたジャヴ。

そして島とはじまりの地を守るために扉を閉ざしたのは、海の神オケアノス・ジャッヴァ。

だとしたら…話は繋がるんじゃないだろうか?


今回、壁画の言葉に従い、選ばれし者として扉を開けたのは俺と杏だ。そして俺たちは生命を落としかけた。その扉を再びジャヴが閉ざすことになったら、一体何を失うんだ?

「あんず。おまえとの出会い、嬉しかった。その面影…懐かしくて愛おしい。まさかこんな形で再会できるとはな。また出会うその時まで、我は決して忘れぬぞ。」

何も知らない杏は、ジャヴの言葉を聞いて初めて別れの時なのだと感じたようだ。

「時は、めぐりゆくものだ。願う気持ちさえあれば、いずれ再び会えるであろう。」

そう言ってジャヴは優しく笑った。

「流太郎!ジャヴ、どっかに行くの?どこへ行くんだよ!知ってんなら…流、太郎?」

二人に背を向けたまま黙って湖を見つめている俺の様子がいつもと違うことに気付いた杏は、不意に下を向いた。表情は見えないけど、静かに震える肩が涙を堪えていることを物語っていた。

「愚鈍。」

そっと俺の肩に触れ、声を掛ける。

「…世話になったな。その、なんだ…なかなか楽しい日々であった。」

「ああ。杏の事、助けてくれてありがとう。」

俺は目を伏せ、頭を下げてお礼を伝えた。

あの時のジャヴの決断がなければ、今こうして別れを惜しむことさえできなかっただろう。

「普段からそのくらい素直ならば、少しは可愛げもあっただろうに。」

見慣れた不敵な笑みでさえ、どうしても淋しさが拭えない。

「では、またな。」

「ああ。また。」

どこかで再会できると、信じてるよ。


ジャヴは静かに湖の中心へと移動し、振り返ることなくゆっくりと水中に入っていく。それはその身が水面に溶けているように錯覚するほど、神秘的な情景だった。

そして、ジャヴの身体がすべて水中に消えたと同時に、俺は勢いよく湖に飛び込んだ。

「流太郎!」

遠くで杏の呼ぶ声が聞こえている…


湖の大体の深さは把握している。俺の泳ぐ速さならジャヴよりも先に目的地である扉に到着できるはずだ。

迷いなんて、ない。

『何故…だ?』

すれ違い際のほんの一瞬だけれど、驚き、困惑した表情のジャヴに笑いかける。

予想通り先の到着した俺は扉を閉ざすために、石版に置いた六芒星と真珠たちに手を伸ばし、躊躇いなく外す。

これで、良いんだよ。

声にならない思いを込めて、ジャヴに振り返り笑顔で『OK』のサインを送り目を閉じる。

ゆっくり閉ざされていく扉の間を流れる水に、抱きしめられるような感覚の中で俺は流れに身を任せた。

『流、太郎…愚か者めが…』



ジャヴは目の前で、水に溶けた。

流太郎はそれを追うように勢いよく湖へ飛び込んだ。

そして…遺されたオレは、何もできない。


まるで線を抜かれた水槽のように、湖の水が渦を巻いて海へと流れ出していく様子を、ただ呆然と見つめていた。

「流太郎!ジャヴ!」

声の限りに何度も叫ぶオレの瞳から、次々に涙が溢れ出してくる。

「流太郎!なんで…?どこに行ったんだよ!」

泣いている場合じゃないのに…そんな事わかっているのに…止まらない涙を必死に拭いながら、オレは湖が海と繋がっている事を思い出し、見えないアイツの姿を追って海へと向かう。


「流太郎!」

海に着き、予測を立てて入江の方へ歩きながらオレは何度もアイツの名を呼ぶ。

「オレ…泳げないんだけど?どうしろって言うんだよ…」

こんな時、アイツは少しの迷いもなく飛び込むんだろうな。

動かなければ何も変わらないとわかっているのに、怖くて動けない自分が情けない。誰か、教えて。どうすれば良いのか、何もわからないんだ。

ただ、アイツが…流太郎がいないだけ、なのに…

「お願い。誰か…」

誰か、アイツを…流太郎を…助けて!

オレがそう強く願った時、何かの気配を感じてその方向を見上げた。

「え?」

今では誰も入らなくなった立ち入り禁止の場所。崖の上に一人の男性らしき人影が立っているのが微かに見えた。

「誰…だ?…!まさか、そんな事!」

でも、その人影は間違いなく、昔オレたちが見た『あの人』に似ている。

崖の上の男は躊躇いなく地を蹴り、勢いよく水面へと向かう。無駄な動きのない、しなやかに伸びた四肢に…身体全体に光の衣を纏い、水中に溶けた。

「あの時と、同じだ。」

一筋の光となり、激しい波間へ身を投じた彼は、美しかった。



ここは、どの辺りだろう…

暗くて冷たい深海の水が身体からじわじわと熱を奪っていく。痛いくらいの冷たさのせいで指先が痺れて感覚が鈍ってくる。

杏は?ジャヴは?二人とも、無事なのだろうか。

彩湖は…島はどうなったのだろう。

目を開けても何も見えないほどの暗闇の中で、どう足掻いたって仕方がない。俺は静かに目を閉じた。

あれ?どっちでも変わんないのか…

目を閉じていても、開けても結局何も見えないことに気付き、苦笑した。


激流に身を任せ、あっという間に海まで来た…まではなんとなく覚えている。

扉から外した六芒星と真珠たちを手にし、一気に海へ流された後、少しずつ緩やかになっていく水に包まれて急に身体が軽くなった。

はっきりとは言えないけれど、どこかで体験した感覚なのに思い出せない。

ただ流れに任せてゆらゆらと漂う。何時間でも、何日でも…いや、もっともっと長い時間の中をずっと、一人でいたことがある。

それは、ずっとずっと遠い記憶の一部…


どこまでも透き通った美しい世界の中、色とりどりの植物や生き物たちも楽しそうに身体を揺らしている。

その穏やかな世界の調律に、一筋の亀裂が入った。小さな生命のかけら…静かに何かが開き、そっと視線が重なる。

あ、その瞳は…

「還っておいで」

感情をまったく感じないその囁きを、今なら受け入れても良いかな、なんて思えた。

ああ。そう、だなぁ。

ゆっくり目を閉じ、海の墓標を見つけた時の事を思い出した。

あんな静かな場所に還るのも悪くないかもな。ちょっと、淋しいけど。

そんな己の幼稚な思考を情けなく思い、冷笑した時、急に力強い何かに引っ張られた。

誰、だよ?

知らな、い。けど、なんだろう…知っている気がする。

一瞬、目に映った姿に困惑したが、俺ははっきりと思い出した。


忘れない。

杏が何度も何度も夢中になって描いていた。

忘れて、やらない。


仄暗い海底から、腕を強く引っ張られ抱え込まれるようにして上へと向かう。

まるで何かに導かれているみたいだ。

例えるなら海の迷子を救うための灯台のような小さいけれど強い輝きを持つ光。そんなものが見えるわけないのに、その小さな光に導かれて水面へと引き寄せられている。朦朧としている意識の中で、苦い思い出が甦ってくる。

杏が溺れた時、必死で泳いでいた俺は不注意で怪我をしてしまい、助けたくても動けなくなった。そんな俺の代わりに、杏を助けてくれた事。そして、黒真珠を狙って島に来た男に海へ放り投げられた俺たちを助けてくれた事…

また、あんたに助けられるのかよ。カッコ悪ぃ…

途絶えてしまいそうな意識の中で、なんとかほんの少しだけ目を開くと、光の中を泳いでいる魚が見えた。

さか、な?

幻のハーフムーンベタみたいに、優雅で神秘的な姿。

こんな深海にいるわけがない。でも、じゃあこれは、なんだ?夢…なのか?

神秘的な姿に抱かれ、光の中を泳いでいる感覚は本当に夢のようで、俺はなんだか…

このまま眩しい光に、溺れてしまいそうだ。



息が、できる?

ここは、どこだ?

「…!流太郎!目を開けて!流太郎!」

杏の声が聞こえる。

「流太郎!」

「なんだ、おまえ。泣いてんの、かよ…」

頬にあたたかい雫が落ちてくる。

俺は弱々しく微笑み、そっと手を伸ばしてできるだけ優しく、杏の涙を拭う。

「…っ!」

目を見開いて驚く杏に笑いかけて言う。

「ひっでぇ顔、してんなぁ。」

おまえのことだから、ずっと泣いていたんだろうな。

「こ、の、バカッ!」

身動きが取れない俺に抱きつき、何度も胸を叩く。

「いつだって何も考えないで行動して!取り返しのつかない事になったらどうするんだよ!」

やっぱり俺、まだコイツの隣がいいや。

必死に怒ってくれる姿を見て、本気でそう思った。

「杏…心配かけて、悪かったな。」

でも、どうしても俺が守りたかったんだ。杏もジャヴも。そして彩湖も…

ずっと守られっぱなしだったから、今度は俺が守りたいって思ったんだ。

「なぁ杏。アイツ…ジャヴ、は?」

「え?そこにいるけど?」

そこに、いるって?

「じゃあ、あんたが…」

「人間の姿で、ちゃんと会うのは初めてだったか?」

はにかんだように笑う男は、何度も俺を助けてくれた人物。かつて光の衣を纏い海に溶けた、彼だ。

「ジャヴ、なのか?」

今までこんなに近くにいたのに、気付かなかったなんて…バカだよな。

「おまえには、助けてもらってばっかりだな。それなのに、俺は何ひとつおまえに返せない…ごめん、な。」

悔しくて、情けなくて俺はジャヴから視線を逸らす。

「貴様は彩湖も、この島も、そして大切な友をも救った。何を悔いる事があるのだ?その雄姿を誇れ。」

その言葉を聞いて、俺はジャヴを見上げる。

「じゃあ…誰も、何も失っていないのか?」

無言で、だけど力強く頷く姿を見て、俺は泣いた。それを隠すように腕で顔を覆い『良かった』と呟いた。

「貴様には、救われてばかりだな。」

自重して笑みを浮かべるジャヴの言葉に耳を疑う。

「その肩の傷、貴様は何かとぶつかり、突き刺さってできたと言っていたな。本当はその傷…」


あの時、俺たちに起こった出来事を目撃したジャヴは迷いなく海に飛び込んだ。そして速く泳ぐため、魚の姿に変わった時に運悪く、幻の魚を探していた者たちに見つかってしまった。そしてその中の一人が投じたもりが俺に刺さったらしい。

たぶん俺は、杏を守るために必死すぎて勝手に身体が動いただけだったと思うが、結果的にジャヴに銛が届くことはなかった。

「小さな身体の割に、大したバカ力で押し退けられた事に驚いたものだ。」

ジャヴはそう言ってフッと柔らかな笑みをこぼした。

記憶を辿ったところで何も思い出せない。杏を助けること以外考えていなくて、周囲を気にする余裕なんて正直微塵もなかったはずだ。

「思えば、我がこの世界に身を投じた時…既に貴様とは何かで結びついておったのかも知れぬな。」

じっと見つめられ、不意にあの瞳が甦る。そんな、まさか…な。でも、間違い、ない?

「あ…?えぇ!」

「はぁ。今頃思い出すとは…やはり貴様は愚鈍だ。」

呆れた表情で言われ、俺の疑問は確信に変わった。

ジャヴが言っているのは、それこそ、遠い…遠過ぎる程昔の記憶だ。俺が『俺』になるずっと前の話なのだから、簡単に思い出せる方がおかしい。

でも…その記憶は紛れもない、確かな『俺』の時間なのだ。


「ん?ほう。彩湖が喜んでおる。」

ジャヴの視線を辿ると、そこには桜よりも淡いピンク色に染まる光が見えた。

「あれが本来の彩湖…いや、水古郷の姿だ。」

俺たちが見た世界樹の中央部に小さなピンク色の花を咲かせている杏の樹がある。その姿を嬉しそうに幸せな笑顔で眺めているジャヴを見て、思い出した。

杏の花は、海の王が唯一愛した花…だ。


あれ?初めてジャヴが杏と話した時…

『ところで、あんずとやら、其方は杏の樹の末裔か?』

『さぁ?知らない。』

なんだか妙に残念がっていると思っていたら、杏の樹の末裔って…なんだ、そういう事か。偶然出会った杏に、愛する者の面影を感じていたのか。


これも、俺の仮説だが…偉大なる海の王は、かつて杏の精と惹かれ合い、愛しい感情を知った。だからこそ人間として生きる時間を望んだのではないだろうか。もし、少しでも長く彼女の傍で過ごしたいと願い、地上に降り立ったとしても、まったく理解できない話ではない。

そして、海と彩湖が繋がっている理由にもなる。

ずっと彩湖の辺にある杏の樹から、花びらが水面に舞い散れば、彼女の想いと共に海の神へと届けられるはずだから。


「だから、杏のこと…」

今はもう、会えないのだろうか?でも、水の球体に守られたあの世界にはダゴンたちも棲んでいるということは、ジャヴの大切な『あんず』がいるのかもしれない。

水古郷…

それは俺たちにとってのはじまりの地である『彩湖島』の事になるのだけれど、ジャヴにとってのはじまりの地はきっと『世界樹』なんだ。


「どうやら、迎えが来たようだな。」

「え?」

その言葉に反応し、ジャヴの方を見ると、淡いピンクの光に包まれていた。

もしかして、迎えに来ているのは…『あんず』なのか?

「そうだな。我が城へ、還るとしよう。」

淡い光の中で、ジャヴは笑顔で誰かと話をしているようだった。その笑みは、何よりも優しくて美しかった…

「ジャヴ!」

引き止めるように杏が叫ぶ。

「またな、杏。…流太郎、」

最後の『ありがとう』の言葉は声にならずに、消えた…


俺たちはどちらともなく歩き出し、彩湖へと向かう。

さっきまで見えていたはずの淡い光は既に消えてしまっているが、俺たちはただ黙って歩き続けた。


「ジャヴは、本当に…還っちゃったんだね。」

「ああ。」

辿り着いた先に世界樹の姿はなく、月を映す彩湖だけが俺たちを待っていた。

「杏。」

「なあに?」

「ん。」

そう言って手を差し出した俺に、不思議そうな顔で返事をする杏の手を取り、それを握らせた。

「あ…」

「ちゃんと返すって言っただろ?」

外した革紐を通し、奪ったネックレスを返した。

「でも、これ…なんで?」 

海から助け出された時、三角形の真ん中にそれぞれ真珠が入り込んでいた。

「黒真珠が入ってる?」

なんとなく外そうと思い、やってみたのだが上手く入り込み過ぎていて外れなかった。

「真実と虚妄の化身、だってさ。俺たちが持ってろってことなんじゃねぇの?」

彩湖が甦った証、だから…

おまえは『真実』を、俺は『虚妄』を預かろう。海の王により、選ばれし者として…

「うん。」

杏はそっと目を伏せネックレスをギュッと握り締めた。

そんな俺たちを、彩湖に映る月が見つめてくれている気が、した。



その数日後、彩湖島の探索調査を一応無事に終えた俺たちは、また忙しないそれぞれの日常へと戻ることにした。



「おい。」

不躾な声がして、俺は仰々しく溜め息を吐く…

「おい、愚鈍。貴様に我を助ける許可をくれてやろう。」

俺はもう一度、溜め息を吐いた。

「なんでおまえがいるんだよ!」

「ごちゃごちゃうるさいわ!早く助けぬか、この愚か者め!」

相変わらず、水槽の魚たちに突かれながら『海の王』は偉そうに叫んでいる。

気まぐれに故郷を懐かしんで、彩湖の水なんて持ち帰るんじゃなかった…なんて後悔しても今更、仕方がないか。


「愚鈍!聞いておるのか!」

「てめぇなんか、さっさと海に還れ!ジャヴ!」


過ぎ去りし遠い時間の中で結ばれた縁が、俺の時間の中で絶たれる事は…なさそうだな。

たとえ、何らかの理由で離ればなれになってしまったとしても、もしかしたら本当にジャヴの言うように、何度もめぐりゆくものなのかもしれない…

「それも、いいかもな。」

魚たちと戯れているジャヴを見て、俺はそっと目元を拭い静かに笑った。


「ウリー。ウリエルー。ごはんだそ。」

何度も命令され、いい加減面倒くさくなってきた俺は、『海の神』を水槽から助け出してウリエルを呼んだ。

「ウリエル?あ、おっと…」

何かに躓いた時、その反動で軽く身体が揺れ、慌てたジャヴが叫ぶ。

「流太郎、貴様!」

「悪ぃ。今のは事故だ。」

「許さぬ!」

「はぁ?事故だって言ってるだろうが!」



『おかえり、ジャヴ。ありがとな。』

…と、いつか素直になれたら伝えてやろうと思っている。俺なりに

最大の敬愛を込めて…な。



窓から差し込んだ光が、水槽の水に反射して俺の胸元のネックスを優しく輝かせる。


眩しくて、光に溺れそうだ…

まぁ、それも悪くないか。


最後までお付き合いくださいましてありがとうございます。

snowの世界はいかがでしたか?

文字が描き出す世界を想像して頂けたら…とても嬉しいです。

また機会がございましたら、ぜひ他の物語たちも読んでみてください。

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