始まる2
一瞬の出来事に、笑いが漏れてしまう。噂が迫ってきているのに、緊張感はどこへ行ったのだろう。どうやらそれはクローディオも同じだったらしい。顔を見合わせ、ひとしきり笑い合う。
「運命の人、か。嬉しいよ」
「えへへ……」
無意識のうちに頭を掻いていた。クローディオが慨深げに目を細めるので、頬まで熱を帯びてしまう。
日は徐々に傾き、空はオレンジ色へと変わる。窓からその光景を眺めながら、見える景色を目に焼きつけていた。
不意にドアがノックされ、視線が自然とそちらを向く。
「ミエラ、クローディオ卿、入るぞ」
現れたのは父だった。後ろには母と兄の姿もちらりと見える。
「二人とも、これを持っていきなさい」
父が差し出した手の上には、銀縁のモノクルと黒いレースのあしらわれた眼帯が乗せられていた。
きっと、これで目立つ瞳を隠せということなのだろう。無言で受け取ると、それを片手でキュッと握った。逃亡色が色濃くなったような気がする。
「絶対に、無事にサファイアに辿り着くこと。約束してくれるか?」
「……はい」
クローディオと一緒に、小さく頷いてみせた。
夕食を取る間もなく、屋敷の前には馬車が泊められた。荷物がぎっしり詰まったトランクはクローディオが持ってくれている。モノクルと眼帯でそれぞれ左目を隠したので、私たちが元魔導師だということは余程のことがない限り流出しないだろう。
用意してくれたバスケットを玄関で押し付けられ、涙ぐむ母の目を見た。
「ミエラ、元気でやっていくのよ」
その母の声は震えている。何も言えずに、小さく頷くだけに留まってしまった。母が両手を広げてきたので、私も母の背中に腕を回して抱擁を交わす。
「ミエラ、私にも顔をちゃんと見せてくれ」
父の声が聞こえたので、母から身体を離して父にも飛び付いた。一瞬だけ見えた父の目は赤くなっていたように思う。
兄は何も言わないけれど、心配はしてくれているのだろう。私を見る視線はいつまでも解けなかった。
「……行ってきます」
いつまでもこうしていては、屋敷から離れられなくなってしまう。留まっていたい気持ちを抑え、家族に背を向けた。振り返っては駄目だ。泣いている家族を記憶に留めることになるのだから。
誰かが鼻を啜る音を聞きながら、瞬きを我慢する。クローディオにエスコートされながら、馬車に乗り込んだ。そして、見てしまった。顔に手を当てながら泣いている家族を。そうこうしている間に、馬車は徐々にスピードを上げていく。
私の涙腺も決壊してしまった。
「元気でね~!」
座席に膝をつき、後ろを見る。三人の姿が見えなくなるまで、必死に手を振っていた。
街の明かりも遠のき、暗闇が辺りを閉ざす。バスケットに入れられていたサンドイッチを頬張りながら、寂しいと思う気持ちに違和感を抱く。
「変、だよね」
「えっ?」
「本当の家族との別れでもないのに、号泣しちゃうなんて」
本物の思い出なんて、私が滞在していた僅か一ヶ月余りのことだけだ。私の心の方がおかしくなってしまったのではないかと考えてしまう。
口を曲げる私に、クローディオは首を軽く振ってみせる。
「記憶は偽りかもしれないけど、感情は本物だよ。だって、悲しい気持ちを否定したら胸がチクっとしない?」
「……する」
針で指すような痛みのする胸を、片手で押さえてみる。私はこの感情を抱いたままでいいのだろうか。少しだけ、気持ちが楽になったような気がする。
「ありがとう」
「うん」
どちらからともなく、手を繋ぎ合う。この人が迎えに来てくれて、一緒にいられてよかった。ささやかな幸福感が手の温もりを伝って全身に巡っていく。
逃亡というだけあって、宿には泊まらなかった。ひたすら馬車で森の中をかけていく。クローディオの存在を感じながら、なかなか寝つけない夜を三度越えた。そこから船に乗り換えて一日が経つと、雨は雪へと変わる。サファイアの地が近付いているのだろう。コートを新調してもらい、雪のちらつくデッキへと出た。
「ねえ、クローディオ――」
「俺のことは今までみたいにクラウって呼んで欲しい。俺もミユって呼ぶからさ」
「うん」
私もどちらかというと、愛称で呼ぶ方が慣れている。否定する理由もなく、素直に頷いた。
「クラウの家族ってどんな人?」
「うーん、厳格……って言ったらいいのかな。勿論、優しさもある。でも、それだけじゃなくて厳しさもある。そんな人だよ」
説明してもらったのは良いけれど、想像が難しい。結局、理解できずに首を傾げてしまった。クラウは小さく笑い、空を見上げる。
「ミユも会えば分かるよ」
どこか誇らしげで、家族を信頼しているようで――迂闊に言葉を繋げなかった。私も一緒に天を仰ぎ、灰色の空へ思いを馳せる。どうか、これからの出会いがいいものになりますように――。
エメラルドでの夜とは全く違い、サファイアでの旅路は快適すぎるほどだった。足元に暖房が備えられている馬車で雪道を走り、食事時にはレストランで食事を摂る。夜になれば豪華すぎる宿へ通された。これはこれで、安心して眠れない。私は贅沢だな、と一人で苦笑いしてしまうほどだった。
そんな日が二日駆け抜け、いよいよ王都へと入った。北に行けば行くほど、寒さは増している。今朝はダイヤモンドダストが舞っているな、と驚いたものだ。
寒さは強いはずなのに、人通りは多い。子供たちがはしゃいで駆け回り、夫婦が肩を寄せ合う。温かい人たちが多いのだな、と見ただけで伝わってくる。
数十分走ると、景色はがらりと変わった。小さな建物が密集して立ち並んでいたのが、門をくぐった瞬間に庭付きの豪邸が立ち並ぶ場所へとなる。貴族街に入ったのだ。
急に鼓動が速まっていく。手には汗も掻き始める。あまりに緊張する私に気付いたのか、クラウは私の肩を抱いた。
「大丈夫だよ。俺が一緒だから」
出た、と思ってしまった。この人の『大丈夫』は、魔法が使えなくなった今でも解けない魔法なのだ。
私は一人ではない。そう思えるだけで、どれだけ心強いだろう。鼓動は速いままだけれど、手の汗は拭いきれないけれど、何故か口元が緩んでしまう。
そうして庭へ入ったのは、視界には収まりきらないレンガ造りの大豪邸だった。クラウにエスコートされながら馬車を出ると、感嘆の声が漏れてしまう。ぽっと白い息が立ち上った。
ここがクラウの生家である、ルーゼンベルクの屋敷――。




