止める力
夕日が沈んだ路地は、静まり返っていた。
遠くを走る車の音だけが、薄く空気を震わせている。
ましろは、まだ構えを解いていない。
足先は地面を確かに捉え、身体全体が“前へ進む向き”に"固定"されていた。
「……逃げないんだ」
そう言って、ましろは小さく笑う。
「守るだけ、なんでしょ?」
いつきは答えなかった。
右手を胸の前に置き、ただ相手を見つめる。
——どう戦えばいいのか、分からない。
でも、これ以上下がれないことだけは、はっきりしていた。
ましろが踏み込む。
"固定"された運動エネルギーが解放され、一瞬で距離が詰まる。
拳。
いつきは反射的に、"右手"を伸ばした。
触れた。
その瞬間、ましろの身体がわずかに揺らぐ。
拳の軌道が、ほんの数センチずれた。
「……っ!」
ましろはすぐに体勢を立て直す。
だが、目を見開いていた。
「今の……」
「ごめん」
いつきの声は、かすかに震えていた。
「止めたかっただけなんだ」
ましろは距離を取り、呼吸を整える。
「やっぱり、君は壊さないんだね」
「壊し方、分からないし……」
「知りたくもない」
ましろは苦笑する。
「私は違う。知ってるし、使ってる」
次の瞬間、地面を蹴った。
フェイントを混ぜた連続攻撃。
いつきは後退しながら、右手を差し出す。
触れられない。
だが——触れなくても、何かが“見える”。
ましろの動き。
力の向き。
前へ、前へと"固定"された意志。
——止めるなら、そこだ。
恐怖を押し殺し、いつきは踏み込む。
"右手"が、ましろの肩に触れた。
瞬間、ましろの動きが止まった。
完全な停止ではない。
ただ、“前へ進む”という向きだけが失われた。
「……あ」
ましろは膝をつく。
「これが……君の力……」
いつきはすぐに手を離す。
「ごめん。痛くは……」
「平気」
息を整えながら、ましろは立ち上がった。
「分かったよ。私の負け」
「え……?」
「私の力は、自分を信じて“固定”する力」
「でも君は、誰かを止める力だ」
夜空を見上げ、ましろは続ける。
「それってさ……」
「戦うための"力"じゃないよね」
いつきは少し考え、答えた。
「分からない。でも」
「誰かが壊れそうなら、止めたい」
ましろは小さく笑った。
不満そうで、それでもどこか安堵した表情。
「やっぱり、気に入らないな」
「……でも、悪くない」
沈黙が二人の間に落ちる。
勝敗は決していた。
だが、誇らしさはなかった。
いつきは右手を見つめる。
——この力は、誰かを救う力じゃない。
——ただ、向きを止めるだけ。
それでも。
誰かが間違った方向へ進むなら。
祈りに押し潰されそうなら。
「俺は……止める」
ましろは、静かにうなずいた。
「じゃあ、私は見るよ」
「君が、どこまで行くのか」
二人は地面に座り込んだ。
疲労の中、自然と会話が始まる。
「君、自分の"力"、まだ分かってないでしょ?」
「……うん」
「"力"には二種類あるの。起点型と共鳴型」
「君は私と同じ起点型よ」
「誰が決めたの、それ」
「アルゴス。観測者」
「この世の理と、力を持つ者を解析する存在」
「想いがあるところに、"力"は生まれる」
「普通は他人の想いを使う。でも私たちは——」
「自分の想いを"力"に変える」
「君にもあったでしょ」
「強い想いが生まれた瞬間」
——強い、想い。
——あの時か。
「でも……なんで、力なんて」
「それは分からない」
「ただ今、"力"を持つ者たちの均衡が崩れ始めてる」
「私は、その均衡を保つ使命がある」
「使命? すごいな」
「馬鹿にしないで」
「多分、君と同い年よ」
「え!? 小学生かと……」
「打つわよ」
「私はましろ、14歳。この世の秩序を保つ者」
「俺はいつき、14歳……秩序!?」
その時。
「ましろ、行くぞ」
背後から、低い男の声が響いた。
観測者アルゴス。
いつきは振り返り、息を呑む。
——目が、たくさんある。
「だから言ったでしょ、観測者って」
「じゃあ、また」
次の瞬間、ましろとアルゴスは闇に溶けた。
夜は、まだ終わらない。
だが二人は、それぞれの行き先を選び始めていた。




