自覚と覚悟
いつきは歩きながら、右手を見つめていた。
無意識にではない。
意識的にだ。
さっきの広場では、モイラの信者を"右手"で触れた瞬間、明確に信者の顔が変わった。
(……右手で触れたものすべてに、干渉できるんじゃないか?)
そんな考えが、頭を離れなかった。
立ち止まり、近くのガードレールに手を伸ばす。
冷たい金属の感触。
――何も起きない。
次に、電柱に触れる。
古びた塗装のざらつきが、指に残るだけだった。
自販機。
壁。
地面。
どれも同じだ。
触れても、世界は変わらない。
いつきは、ゆっくりと手を引っ込めた。
「……違う」
小さく呟く。
無機物には、何も起きない。
あの時、止まったのは――
人間だった。
思い出す。
自分に向かってきた人たちの目。
触れた瞬間に失われた、熱。
信じていた“何か”が、消えたような顔。
背筋に、冷たいものが走る。
(触れた“人”だけが……)
そこまで考えて、いつきは思考を止めた。
答えに辿り着くのが、怖かった。
だが、胸の奥ではもう分かっている。
これは偶然じゃない。
夢でもない。
――自分は、何かを壊せる。
いつきは右手を強く握りしめた。
そして、はっきりとした意思でいつきは選択した。
――使わない。
そう決めて、いつきは右手をポケットに押し込んだ。
握りしめた拳が、わずかに震えている。
何かを壊せる力なら、
持たない方がいい。
そう思った、その瞬間⦅とき⦆だった。
「……?」
数メートル先の路地で、人が倒れている。
うつ伏せで動かない。
いつきの足が止まる。
周囲を見回すが、人影はない。
事故か、病気か、それとも――。
(関係ない)
そう思おうとした。
自分が関わる必要はない。
右手は使わないと、決めたのだから。
だが、視線が離れなかった。
倒れているのは、年配の男だった。
胸が、かすかに上下している。
生きている。
いつきは、ゆっくりと近づいた。
「……大丈夫ですか」
返事はない。
肩に触れようとして、手が止まる。
脳裏に、あの光景がよぎる。
触れた瞬間、変わってしまった人たち。
(もし……)
この人が、何かを強く信じていたら。
それを、壊してしまったら。
背中に、冷たい汗が流れる。
――でも。
このまま放っておけば、
この人は助からないかもしれない。
いつきは、歯を食いしばった。
「……左手で」
自分に言い聞かせるように呟き、
左手で男の肩に触れた。
反応はない。
揺すっても、変わらない。
呼吸が、浅い。
――ダメだ。
いつきは、右手を見た。
ポケットの中で、"熱"を持っている気がした。
(使わないって……決めたのに)
だが、その決意は
目の前の命より、重くはなかった。
いつきは、ゆっくりと"右手"を伸ばした。
指先が、男の肩に触れる。
その瞬間――
男の瞼が、びくりと動いた。
「……っ」
喉が鳴る。
いつきは息を呑んだ。
男は、ゆっくりと目を開ける。
焦点の合わない視線が、宙を彷徨い――
やがて、いつきを捉えた。
「……あれ?」
さっきまでの苦しげな表情が、和らいでいる。
「俺……何を……」
男は起き上がろうとし、咳き込んだ。
だが、意識ははっきりしている。
いつきは、一歩、後ずさった。
分かってしまった。
これは偶然じゃない。
助けたのは、医療でも奇跡でもない。
――自分の"右手"だ。
いつきは、震える声で呟いた。
「……俺が、やったんだ」
助けた。
同時に、何かを触った。
壊したのか、救ったのか。
それすら、まだ分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
もう、この力を“なかったこと”にはできない。
いつきは右手を見つめ、ゆっくりと握りしめた。
自覚は、
力を得た喜びではなかった。
――逃げられなくなった、という感覚。
男が去ったあとも、いつきはその場から動けずにいた。
助けたはずだった。
けれど胸の奥には、拭いきれない違和感だけが残っていた。
そのとき――
不意に、視線を感じた。
ぞくり、と背中を冷たいものが走る。
いつきは、ゆっくりと顔を上げた。
路地の奥。
建物の影。
そこに、誰かが立っている。
距離のせいで顔は見えない。
だが、こちらを見ていることだけははっきりと分かった。
さきほどの出来事を。
"右手"が触れ、何かが変わった瞬間を。
(……見られた?)
いつきが一歩踏み出した、その瞬間だった。
影は、すっと後ろへ下がる。
逃げたのではない。
隠れた――そう感じさせる動きだった。
まるで、「確認は終わった」と告げるかのように。
影は完全に闇へ溶け込み、二度と姿を見せなかった。
遅れて、心臓が強く脈打つ。
――知られた。
自分の力が。
右手が、ただの手ではないということが。
いつきは無意識に、右手を強く握りしめる。
その瞬間、はっきりと理解した。
次は、見られるだけでは済まない。
裏路地の静けさの中で、
その確信だけが、確かに息づいていた。




