向きのない信仰
走ってくる。
何人もの足音が地面を叩く。
「……っ」
いつきは一歩、後ずさった。
理解が追いつかない。
なぜ、この人達が自分に向かってくる。
視界の端で、黒装束の女が微笑んでいる。
その笑みを見た瞬間、背筋が冷えた。
近づいてきた最初の男が
腕を伸ばす。
掴まれると思った。
その時、反射的に、
いつきは"右手"で振り払った。
「やめろっ」
その"右手"は——触れた。
その男に。
途端、男の動きが、止まる。
「……あ?」
掴もうとしていた腕が宙で固まり、
男は自分の手を見つめた。
——次の瞬間、表情が崩れる。
「俺……なにを……?」
声に力がない。
何かを探すように視線を彷徨わせ、
その場に立ち尽くした。
続けて別の女が突進してくる。
「来るな!」
いつきは叫び、思わず"右手"を前に出した。
——また触れた。
女は急停止し、膝から崩れ落ちる。
その目からは涙がこぼれた。
「……いない……?」
何が起きているのか。
いつき自身にも分からなかった。
ただ、触れた人たちが皆、
同じものを失ったような顔をしている。
「ふふ……」
黒装束の女が、楽しそうに息を漏らす。
「なるほど。これは興味深い」
女はゆっくりと近づき、いつきの右手を見る。
「信仰が消えた……わけじゃない」
「向きが、なくなったのね」
「何を言ってるの?」
いつきは息を呑んだ。
「我が名はモイラ」
「貴様の力を、試させてもらうわ」
次の瞬間、モイラが指を鳴らす。
その音を合図に周囲の信者が一斉に動いた。
さっきとは違う。
迷いのない目。
揃った視線。
だが、その視線は——いつきを見ていない。
彼らは、いつきの“向こう”を見ている。
「……っ」
いつきが理解する前に、突進される。
逃げきれない。
いつきは歯を食いしばり、"右手"を伸ばした。
—触れる。
止まる。
—また触れる。
また止まる。
次々と、信仰者が崩れ落ちていく。
同じ表情で。
信じていた“先”を失ったように。
モイラの笑みが、わずかに歪んだ。
「面白い……」
「貴様は、信仰を奪っているんじゃない」
一歩、近づく。
「信じる“先”そのものを、壊している」
それを聞いて、胸の奥が、ひどく痛んだ。
——救われない者もいる。
あの時、"神"を名乗る男にそう言った。
あの時、男の力は止まった。
そして、激怒した。
(...もしかして、あの時...)
モイラは静かに息を吐く。
「なるほど……」
「これは、“神殺し”の手ね」
遠くでサイレンが鳴り始める。
昨日の出来事の件なのか、
今、少年が襲われる件なのか、
それは分からなかった。
しかし、
その音を聴いたモイラは踵を返し、
闇へと溶けた。
残されたいつきは、
その場に立ち尽くし、右手を見つめる。
俺は何者なのか。
何を壊してしまったのか。
分からない。
ただ一つ、モイラとの出会いで
確かなことがあった。
———この手は、
誰かの「信じる先」を変えてしまう。
———この時、
少年はまだ気付いていない。
それが、
救いにも、破壊にもなり得る力だと。




