8.答えは解になく
ねえ、聞こえてる?
ねえ、知ってる?
ねえ、誰か。
しってる?
ねえ、知ってる?
◇◆◇◆◇◆◇
冷たく湿った風が吹いていたなと思えば、いつの間にかしとしとと細い雨が降り始めていた。
時計に目をやればまだ十五時を過ぎたばかり。
深と静まり返った室内に届く音は遠くに座る人の本をめくる音と、司書が本を戻す微かなものばかりだった。
何かもう一冊、と思い席を立ち、普段目を通す事の無い種類の本が並ぶ場所へと足を向けた。
たまにいつもと違う通路へ行くと、変に興味惹かれるものに出会う。
タイトルだけだったり、実際に開いて見た内容だったりとそれは様々でそこから新たに出会える世界が面白いと思っていた。
そして無為に過ぎていくだけの時間もまた、心地がいい。
ぼーっとしながら入った列の棚の上端から文字という記号をただ眺めながら、適当なところで折り返し下段へと降りていく。
それを数度繰り返し、結局首を捻り一冊の本にも手を伸ばす事もなく、屈めていた腰を伸ばし再び時計へと目を向けた。
先ほど見たときから既に二十分は経過している。
次の予定まではまだ一時間以上もあると、改めて感じた彼女は細雨で濡れた窓を眺め溜め息をついた。
「止みそうにないかなぁ」
朝は太陽もあっていい天気だったはずなのに、と零しながら近くにあったファッション雑誌を手にとって先ほどまで座っていた席へと戻った。
窓に沿って設置されたカウンター席。勉強目的の利用者も多い事から荷物を予め広げておいたお陰で自分の場所は確保できていたが隣に一人、青い制服の男が自分の鞄を枕代わりにして座っていた。
友人が通う学園の制服と同じ事から時間を見て自分と同じサボりかなと目測を付けて、起こさないように静かに近づいた。
あまり他人の側で本を読みたくないと思う彼女は他の場所が無いかと軽く辺りを見回したが、あいにくと空いてそうに無い。
仕方なしに、席に座り広げておいたノートをしまい始めると隣の男が気だるそうにむくりと起き上がった。
思わず横目でその動作を追っていた彼女は、あれ? と目をしばたかせ男の方を見て上げそうになった声を押さえ込んだ。
「よぅ」
低い声と、少し躊躇うような切れ長の黒い瞳を向けられ志穂は一瞬どうして良いのか分からずに頭を小さく下げた。
「昨日の……」
「あぁ。えっと、三岡、でいいんだよな?」
確かめるように小さくなった志穂の声に、嵐は同じように小さく頷き返し彼女の名前を確かめた。
「え、なんで名前知ってるの?」
肯定代わりの疑問は尤もで、嵐は自分の鞄の中から薄いファイルを取り出して彼女の前に差し出した。
「これ、昨日落としてっただろ」
「え、あ……あっ、ほんとだ」
混乱したまま受け取ったファイルの中身を確かめてそこで初めて無くしていた事に気が付いた。
志穂は同じように自分の鞄を開いて塾用にまとめていたバインダーを確かめ、間違いなく自分のものだと確かめてから改めて礼をのべた。
「全然気が付かなかった、ありがと」
「まあ、早いうちに会えてよかったよ。今日会えなけりゃ、通うか捨てるかの二択になってたしな」
「あはは、そうさせないで済んでよかったよ、えーっと……名前、聞いてもいい?」
「……竜堂」
「うん。竜堂君、改めてありがとう。これ、今日友達に渡す約束してたヤツでさ、怒られないですみそうだよ」
「そいつは良かった」
屈託なく笑う志穂に目を向けていれば、予め呼び出しておいた小さな光がふわりと彼女の手元に主の視界を一度遮ってから降りていた。
「それにしても、三岡はこの時間からいつも居るのか?」
「いつもじゃないよ。たまに、ね……ほら、嫌いな授業とか先生とかっているじゃん? それがダブルで来ると授業受けるのも面倒になるわけよ」
「なるほど。そのお陰で待たずに済んだわけか」
早退した為、下校時間からの一、二時間くらいは待つつもりだった嵐としては心底ありがたい事だった。
「ね、もし良かったらなんだけど、下でお茶してかない?」
「いや……」
「昨日の携帯のお礼兼ねてさ。下のお店、紅茶多くて気になってるんだけど、一人でお店入るのちょっと怖いんだ」
「……お前、人の話し聞かないって言われないか?」
「たまに言われるねぇ。でも、こんな機会ないだろうし、昼から抜けてきたから急にお腹空いてきちゃってさ」
お願いと、両手を合わせてきた志穂に言われ、そういえば自分も似たようなものだと思い出し席を立った。
「やっぱりダメ、かな?」
「いや、俺も飯食ってないの思い出した」
「ホント! じゃあ、行こっか」
どこか安心したように借りてきていた本を返却棚へ追いやり、二人はそろって図書館を出た。
霞ヶ丘中央図書館は、地下をあわせ六階建てになっており、図書館の入り口は二階にあるが実際はその入り口から入って更にもう一つ上の階から図書館としてのスペースになっている。
コンクリートの狭い階段を降り、広がるエントランスホールには隣接している大きいコンサートホールの入り口とその壁沿い奥には、先ほど志穂が言っていた喫茶店の入り口があった。
その入り口は長い暖簾で店内を隠し、表に出ていた椅子の上に枝で作り上げた板にメニューが張ってあるだけのシンプルなものだった。
そこで立ち止まりメニューを確かめる。確かに飲み物の数は豊富で料理やケーキも簡単なものがいくつかあった。
とりあえず、二人は中に入り店員に案内され奥の窓側の席へと付くと、備え付けられていたメニューを開いた。
「あ、上の本の返却も受け付けてくれるんだ」
開いたメニューの端に書かれていた文字を見つけ、彼女は「それなら今度から来ようかなぁ」と真剣に考えていた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「竜堂君は決まった?」
店員に声を掛けられずっとメニューを占拠してたことに気が付き、尋ねれば素っ気無く決まっていると帰ってきた。
「ニルギリのミルクティーホットで、あとトーストサンドを」
「はい。お客様は」
「えっと。じゃあフランボワーズのストレートと、あ、このエンゼルケーキで」
「はい、かしこまりました。フランボワーズティーはホットでよろしいでしょうか?」
「お願いします」
一通りの注文を済ませ嬉しそうに、目を向けられ嵐は軽く肩をすくめた。
「念願叶ってよかったな」
「うん。ほら、ここ結構奥まったところにあるから、中見れなくってずっと気になってたんだ。想像以上に良いお店で良かった」
「そうか」
適当な相槌を返されはしたが、彼女はようやく入れた店の内装に目移りして気にした様子はなかった。
アイボリーを基調とした室内にはゆったりと座れる低めのソファとテーブルで揃えられ、一席ごとが適度に離れているため、確かにくつろぐには最適な空間だ。
彼らが座る窓側の席も長ソファで隣の席と繋がってはいるが、テーブルの間隔が広く気にもならない上、音楽もクラシックジャズが必要最小限の音量で流れるだけ。
嬉しそうに室内に目をやる志穂を邪魔する気もない嵐は、運ばれてきた紅茶に手を伸ばした。
そんな彼の手元では、自分たちの存在を忘れたのかと問うように光が瞬きを繰り返していた。
それらに黙ってろと、無言で訴えれば伺うようにこちらを見ていた志穂に気が付き目を合わせれば、彼女は慌てて姿勢を直した。
「あー……いや、なんでもないよ」
「そういう目じゃないが?」
「変、なこと言っていい?」
もじもじと視線を彷徨わせる彼女に、嵐もまさか……と思いながらも促した。
「なんか、竜堂君の手元にもやっとしたのがずっといる? あ、や、その勘違い! だ……と思うし、あのその」
かろうじて向かいに座る彼に届くかどうかくらいの小さな声での質問だったが、志穂自身もしまったと顔に浮かべて誤魔化そうと必死になっていた。
そのため嵐が一瞬だけ浮かべた驚いた表情にも気が付くことなく、取り上げるように持ち上げた紅茶の中身を零して更に慌てていた。
「落ち着きもねえヤツだな」
「え、だって、あ、でも、今の気にしないでっ、ね?」
手元にあった布おしぼりを片手に、もう片方に紅茶のカップを持ったまま落ち着く気配を見せない彼女に、嵐は深く溜め息を付いて見せた。
「落ち着けっての」
静かに呟きながら、濡れ汚れたソーサーを端において自分の布おしぼりで志穂の前を綺麗にしながら、呼び出していた光に帰還を促した。
「あ、あれ? あ、あ……ありがと。あの、ホントごめんね。なんか、やっぱり疲れてるせいかな? これじゃまた、わかちゃんにも遥にも笑われるよ」
確認の意味を込め、彼女の目の前で帰したのが狙い通りとなり突然消えた光に彼女ははっきりとその動きを見ていたのが分かった。
ただその分、何も知らない志穂は赤くなった顔に愛想笑いを浮かべて不審な動きを滲ませていた。
「遥って、新城遥のことか?」
「え、あ、遥のこと竜堂君知ってるの?」
思いがけず聞かれた友人の名前に、違う話題を出せると安堵したようにようやく持っていたカップをテーブルの上に戻した。
「席が隣でな。そういや、笹尾に友達いるとか言ってたな」
「うわ、どんな風に話しされてるんだろ……」
「特には。ただ、このところの噂話ついでに聞いただけだ」
さりげなく、彼女からも話を聞けそうかと投げかければ志穂は「あー……それね」と眉間にしわを寄せてソファに大きく寄りかかった。
「女はそういう、怪談話めいた噂好きだと思ってたが」
違ったかと視線だけで問いかければ、流石に志穂はむっとした表情を作って睨みつけてきた。
「全員が全員好きだと思っては欲しくないなぁ。ま、確かに嫌いじゃないけど。けどさ……」
「けど、噂を目の当たりにしたらそうも言えないってとこか?」
「っ! なんで、わかったの?」
思わず身を乗り出した弾みで、大きく音を立てたカップたちの非難の音に、彼女は一瞬周りを見回したが他の客たちは数秒だけこちらを見ただけまた、自分たちの話や持ち込んでいた本へと没頭していた。
「俺も見たからな」
「え、いつ? 何処で?」
声が大きくならないように気を使いながらも、彼女は明らかに興奮した様子で嵐へ目を向けていた。
「……覚えてないか?」
「へ? え、それって……」
「俺が見たのは、昨日。あんたが鞄ひっくり返す直前だ」
「ウソ、また……なの」
呆然と呟いた志穂に、彼は少し眉間にしわを寄せていた。
「前にもあったのか?」
「よく、分からないよ。だって、よく覚えてないんだもん」
戸惑いを隠さないまま小さく返事を返した彼女からが嘘をついているとは思えなかった。
しかし、同時に浮かんだ疑問は直ぐに本人の口から明かされた。
「わかちゃんが居なくなって、ずっと探してた事は覚えてるのに、でも……誰も、そのこと覚えてないんだもん」
「そうか。でも、あんたが“覚えてるのも事実”なんだろ? なら、それはそれでいい。どうせ、こんな噂だって気が付けば風化してるもんだ」
「そうかも知れないけど、でも、気味が悪いよ」
自然と対照的な表情を浮かべていた事に、互いは気が付かなかった。
噂の鍵となる人間を見つけ微かに口元を歪めていた彼と、誰にも理解される事がないと確信してしまった孤独感から来る嫌悪感に俯く彼女と。
そして、静かに流れていた音楽が次の曲に移るために生まれた静寂は数秒続いて、ショルダーバッグにしまっていた携帯のバイブレーションが一際大きく聞こえた気がした。
嵐が元からセットしていたアラームは、直ぐに鳴り止み沈黙の世界から引き戻した。
「ヤバッ。待ち合わせしてたんだ!」
志穂は自分の腕時計で時間を確かめ、思った以上に時間が経っていたことに気が付き慌てて席を立ち上がった。
それを見ながら同じように荷物を持ち、席を立った彼は一足先に伝票を持って歩き始めた。
「ちょっと待って、あたし払うよ」
先に会計を始めてた嵐に追いつき様に財布を取り出したが、入ってた金額を見て手が一瞬止まったのを店員ともども見えてしまった。
「あの、お客様……」
申し訳なさそうに声を店員が声をかけて来たが、志穂は気が付いた様子もなく財布から五百円玉を取り出してから他の小銭と格闘を始めた。
「おい」
一つに集中すると周りが見えない誰かと同じだなと、思いながら嵐は彼女が置いたお金を取り上げ肩を叩いた。
「え?」
「終わってるよ。いくぞ」
全てが終わってる証拠と云うように、レシートを一度彼女の前でちらつかせてから手を掴んでそのまま店を出た。
「ふえぇ、一重にも二重にもごめんね」
図書館の出入り口のエントランスホールで再び恥ずかしそうに顔を隠した志穂に、呆れたように肩を竦めるしかなかった。
「あ、お金払うよ」
「メンドイ。約束あるんだろ、行かなくて良いのか?」
「待ち合わせ、は大丈夫だから。それよりちゃんと払うよ。レシート見せて」
「さっきので足りてる。気にすんな」
「ホント? ならごめん、行くね。今日はホントにありがとっ」
良かったとありありと浮かべ大きく頭を下げた後は、慌しく彼の前から走り去っていった。
小さくなっていくその背中を見送りながら自然と吐いた溜め息には、これ以上慌しい知り合いは増やしたくないなと言うのが滲んでいた。