6.突消
硝子同士が共鳴しあうような澄んだ高い音色が嵐の内側に響き渡り、音が止むとゆっくりと瞳を開いた。
一瞬だけ、いつもの黒い瞳ではなく鮮やかな深緑の光が宿っていたのを見た大月は思わずゾクリと体を震わせた。
「ん……」
その些細な変化も感じたのか、嵐は手帳を返しながら自然と自分の目元に手をやっていた。
「帰る」
「へっ?」
あまりに突然に告げられた言葉に、大月はなんとも間の抜けた声をあげ彼を見つめていた。
しかし、彼はそれ以上の言葉を発することも無く呆然とする大月と麗菜の二人を残して、マウンテンバイクへ跨っていた。
「おいっ、嵐、待てよ!」
大月が声をあげたときにはもう既に、嵐は道路をさっさと渡りその姿を遠くにしていた。
何が何だか分からない彼は、先ほどのことを気にしているのかとも思い不安げに溜息をつくしか出来ない。
嵐がいなければ妹の姿も見えない自分に出来ることは何かあるのだろうか? そんな事を思いながらもう一度溜息をついて手帳を開いた。
始めに自分が開いたときと全く同じ、白いページ。
その前を捲れば、自分の字で書かれた話の数々があるだけ。
「兄ちゃん、自信なくしそうだわ」
聞いていてくれると信じて、苦笑する兄に麗菜は励ましたくてその小さな手を兄の掌に重ねようとしたが、あっさりと摺り抜けてしまい、しょんぼりとしたまま今度こそその姿を消してしまった。
一人取り残された形となった大月もまた、何時までも此処にいても仕方ないと思いなおし、この場を後にした。
――ねえ、知ってる?
――ねえ、シッテル?
――ねえ、しってる?
一度、家に戻った嵐は何事も無かったように修の部屋に携帯を戻し、当人からさりげなく居なくなっていた時間のことを聞いていた。
「えー、僕すぐに戻ってきたよぉ」
「そうか」
夕食を食べながら、ちらりと彼の母親を盗み見たが日香里は目の前の息子同様に変わりなくのほほんと笑みを浮かべて、二人に目の前の小鉢を勧めてきた。
それを丁寧に断った嵐は、不自然にならない程度に急ぎ目に食事を終え片付けてから部屋へと上がっていった。
いつものように明日の準備だけ済ませ、そしていつもの黒いジャケットに袖を通すとそのまま窓から屋根へと登っていた。
陽が完全に落ちた今は上着を着ていても寒く、空を見上げれば星の瞬きもハッキリと見えた。
真冬よりマシだと思い、さっさと済ませるべく深く冷たい空気を吸い込んだ。
「風音よ、響け」
ゆっくりと吐く言葉に併せ、自分の力を風に乗せて広げていった。
知りたかったのは、自分の記憶に無い時間。どの場所に居たのか。
ただ、それだけを描き遠くまで広げていく。
しかし、何も掛るものは無く時間だけが無為に過ぎただけだった。
「あっちゃん、そんなとこに居ると風邪引くよ」
「……あぁ」
ひょっこりと借りている部屋から顔を出してきた修に返事を返し、慣れたように再び部屋の中へ戻ると、机の上には修が用意したであろうデザートと紅茶が用意されてあった。
「何か気になることでもあったの?」
小首をかしげながら問われた嵐は、上着も脱がずにそのまま窓に背中を預け、紅茶を手に取った。
「そうだな、あったのかも知れないな」
「かも知れないって、気のせいだったってこと?」
「お前には関係ない。表に出る、お前はもう寝ておけ」
「あっちゃんっ。せめてクレープは食べてよー!」
「いらん」
「はぅっ、そんなきっぱり断らなくても」
明らかにしょんぼりとした修の姿に軽く溜息を付いて、一口飲むとそのままソーサーへと戻した。
「適当に戻る」
少しきつい口調にしながらもう一度言うと、修は目をぱちくりとしばたかせてから頷いた。
「じゃあ、冷蔵庫の上の方にしまっておくね」
「分かったわかった」
嵐の適当な返事にぷくりと頬を膨らませたが、睨みつける相手は既に部屋から姿を消していた。
「もぅ、人の気も知らないで~」
零した言葉はもう既に遅く、彼の前には出せなかった携帯を取り出し画面を開いて溜息をついた。
自分が家に居たはずの時間に掛ってきていた友人からの着信履歴。
部屋に置き忘れていたから出られなかったのかと問われれば、修の答えは「違う」と言える。
着信履歴が示す時間にはもう既に、部屋にいて自分の携帯を探していたし、見当たらなかったから嵐に聞こうと思って部屋を訪れたがそのときには既に彼の姿は無かった。
そこまで思い出してから、時間を遡るように今日の行動を思い返すがいつもと変わらないはず。
「僕がいない時間があった……のかなぁ?」
夕食時のことを思い出して零すが、自分にとって尋ねられる理由が思い当たらなかった。
首を捻り、大月へと掛け直そうと思ったが時間も二十一時を過ぎていて少し考えてから率直なメールを送ることにした。
これなら気がついたときに大月からメールなり電話なり連絡が来るだろうと、そう踏んだからだった。
冷たい風に少しばかり身を硬くしながら、嵐は先ほどまで自分が居た場所へと戻っていた。
まばらになってはいるが交通量は初めて訪れた時よりか幾らか増えている気がした。
駅前の大きな交差点。その傍にあるコンビニの駐輪場は今は別の学生たち男女数人、中で買ってきたであろうジュースやお菓子やらを頬張りながら談笑している姿があった。
その殆どが同じ学園の制服だとは気がついたが、元より他人への関心が薄い彼は、一人の女子生徒が顔を上げたことにも気がつかずそのまま店内へと入りそのまま、ドリンクコーナーへと足を向けていた。
多くの商品が並ぶその前で短く気を放ち、楔のように固定をする。
数秒にもならない作業を二度、商品を選ぶフリをしながら終わらせ、少し考えてからいつも愛飲する紅茶パックの会計を済ませて外へと出た。
「竜堂君?」
自分が出てくるタイミングを計っていたのか、入り口を出てすぐに呼び止められ彼は面倒臭そうに足を止め声のした方へと視線を向けた。
明るいモカベージュのリボンがポイントのカチューシャがしっとりとした黒髪を押さえ、自然と上目遣いになる大きな黒い瞳を一度見てから一瞬空へと視線を泳がせていた。
声を掛けてきた少女の制服は自分が通う学園のそれと同じ。自分の名前を知っているのはと、自分の席の周辺のクラスメイトをぼーっと思い出し、引っかかった名前があった。
「……なんだ、新城か」
「いま考えてたでしょ?」
嵐の返事の遅さに目の前に立った少女、新城遥はその愛らしい唇を少しだけ尖らせて訊ね返した。
「別に」
同じクラスではあるが、大月や一部のクラスメイトを除けばまだ彼はクラス全員の顔と名前を覚えてはいない。むしろ、覚える気があるのか不明だ。
しかしそんな事は知らない彼女は、珍しい時間帯にあったクラスメイトの一人に興味があるようで彼の買い物の中身へと視線を向けていた。
「竜堂君の家って、ここら辺なの?」
「いや」
面倒臭いと思いながら、視線を逸らしついでに先ほどから向けられる好奇の視線の主たちへと目を向ければ、二人だけ違う制服の少女が目に付いた。
そのうちの他校の少女一人から向けられる視線が好奇とは少し違うと、咄嗟に目を向ければ遥が気付いたように友達の方へと振り返った。
「あ、いま塾帰りでさ。迎え待ちなんだ。あっちの制服違うコは笹尾高のトモダチ。今日一人いないんだけどね」
「ねえ、はーるかー、紹介してよー」
「ほら、今月入ってきた転校生」
友達の呼ぶ声に応じて、紹介しようと彼を促すが嵐は小さく溜息をついて見せた。
「悪いけど、付き合う気ねーから」
きっぱりと言い放った嵐に、彼女は自然と表情を曇らせて俯いたまま伸ばそうとしていた手を戻した。
「そ、だよね。忙しいところごめんね。また明日ね」
「またな」
誤魔化すように浮かべた不自然な笑みも見る事はせず、短く別れの言葉を告げて踵を返した。
そんな背中に投げつけられる男友達の辛辣な言葉も何処吹く風に交差点を渡り、人気の無い路地へ入り足を止めた。
周囲の街灯のおかげで路地は明るく、近くにあった自動販売機の陰に隠れるように壁に寄りかかり数秒の集中の後に掌を宙へと向けた。
すると元からそこに居たかのように、小さな深緑色の光の球がふわふわと掌の上に立つようにあった。
「お前だけか? もう少し欲しいな」
願いとも付かない声に、光は彼の目の前にまでふわりと浮かび上がると目の前で光を弾けさせ、六つほどに増えるとこれで良いかと訊ねるように目の前を飛び交った。
「ま、良いだろう。任せた」
主の声に些か不服そうな光を淡く発したがそれらはいつもの事だと、ふらりと一つだけ残り他は全て風に乗ってその場から姿を消していた。
そして嵐はその一つだけを伴い、再び歩き始めた。
向かったのは広い公園だった。
真っ暗な闇にささやかに水の流れが音を醸し、小さく架けられた石橋の上に外灯が灯り人工の小川があることを示していた。
そこから反対側に行くと人工滝を背中にした小さなステージ。
残念ながらそこには外灯は無く、がらんとした広さだけがあるだけだった。
ただ、滝の後ろには公園の奥にある図書館へ続く階段があり、嵐はそれを登り始めた。
この町に着て直ぐに丁度良いと思い仕掛けを施していた場所があった。
二十一時を過ぎ、閉館され最後の作業のためだけに明かりが館内に灯っているだけ、そう思っていたが一人、女子高生が小さな鞄を持って誰かに電話をしながら降りて来た。
風に乗って聞こえてきた会話から、友人が相手とわかる。
「わかちゃん、遥に今日行けなくてごめんねって言っといてくれた? まあ、大丈夫か……ん、じゃあね」
別れの言葉を告げて、携帯をしまおうとポケットへ収めようとしたが目測を誤り彼女の手の中から零れ落ち、階段をそのまま音を立てて落ちてきた。
「あぁ! ちゃぁ……やっちゃった」
嵐は自分の足元にまで落ちてきた携帯の本体を拾い上げるが、残念ながら裏ブタがはずれバッテリーの姿がなくなっていた。
外灯の明かりもほとんど届かない階段の影では、小さな部品が無くなっていたとしても判りにくい。
「すみません、ありがと……あぁ!」
「……」
本体を受け取りに来た少女の足元から新たに聞こえた音に、嵐は溜め息を付きそうになりながら自分の携帯を取り出した。
その瞬間、目まぐるしく彼の眼前を飛び回りながら彼女のほうへ向かう光はいつの間にか二つに分かれ、一つは嵐の元に、もう一つは彼女の肩にとどまった。
それを確かめながら、自分の携帯のライトを付け、持ち主に蹴り飛ばされたバッテリーと裏ブタを見つけ出しそれぞれを拾い上げた。
「は、はは。すみません、ありがと」
「別に」
罰が悪そうに苦笑いを浮かべた彼女の制服は、先ほど遥達と居たもう一つの学校の制服だと気が付いた。
光は変わらず少女の肩に留まったまま、主へと何かを訴えるようにしていた。
「あ、あのぅ」
「……」
恐る恐ると声をかけてきた少女に、彼は止まっていた手に気が付き携帯を元の状態に戻してから渡し直した。
「ありがとうございます……あの、もう、図書館閉まっちゃいましたけど……?」
ちらりと図書館の入り口を見やった少女の言うように、入り口には閉館の札が立てられ明かりも消えていた。
もちろん、そんな事は嵐には関係なかったが気を使っているだろう彼女に「そうだな」と短く返した。
まあ、関係ありそうな奴を見つけただけ十分だな。
そう思い、階段を降り始めると少し遅れて後ろの少女も歩き始めた。
パタパタと石階段をローファーが叩く音がやけに響き、少し居心地の悪さを感じた。
目の前を歩くは男は特に話しかけてくることも無く、自分の歩調で歩いていくのだがどうもこちらを気にしているようにも見える。
考えすぎだと思うけど……と、思いながら公園の暗い道を歩くにも心細いと思ってしまっていたのは確かだった。
悪い人じゃないとは思いたいけど、この辺でも変な人多いからなぁ……
つい先日も友人伝いに変質者が出没したと注意を受けたばかりだった彼女は、深く溜め息を零してはたっと立ち止まった。
直ぐ目の前には黒い背中。音も立てずに踵を返され、思わず身構えてしまう。
「な……」
「あんた、どこまで付いてくる気だ?」
警戒の声を上げるよりも先に紡がれたうんざりとした言葉に、思わず間の抜けた声が出てしまった。
「へ? え……?」
「図書館の駐輪場、向こうだろ?」
示された先には確かに煌々とした明かりの元に“霞ヶ丘中央図書館駐輪場”と書かれた看板があった。
考えすぎて彼女は知らぬうちに嵐の後をしっかりと付いて、逆方向に当たる公園の出口へと向かっていた。
「あ、ご、ごめんなさい!」
慌てて頭を下げれば、勢い余って口が開いていた鞄の中からバサバサと音を立てファイルに挟んでただけの紙が地面に落ちた。
「……はぁ」
「あぅ、うぅ……」
今度こそ隠さずに零した溜め息は彼女の耳にも届き、申し訳なさと恥ずかしさから一気に顔が赤くなったのが判った。
「ご、ごめんなさいぃ!」
恥ずかしさを誤魔化すように彼女は落ちた紙を乱暴にかき集めると、そのまま鞄にねじ込み図書館駐輪場へと駆け出した。
――ねえ、シッテル?
「え……?」
微かに戸惑いを帯びて聞こえた声。
誰もいない公園に響いたその位置を確かめようと、嵐は傍らにいた風を飛ばすが返る反応も無く気が付けば走っていた少女の姿を見失っていた。
しかし、それは少女の傍にいた光も同様に付いたはずの人物を見失い、主の命無く霧散した。
「消えた――」
思わず呟き出た言葉に、自分の傍らにいる光へ目を向けると待っていたとばかりに彼の目の前に躍り出た。
自分たちを使えと促すように瞬く光に、一瞬のうちに嵐は意識を同調させた。
町中あちらこちらへ散らばった光は、主の気配を感じて自分たちが駆け抜けていくものすべてを見せた。
地面すれすれにあちこちの外壁に当たりながら人々の間を駆け抜けるものもあれば、鳥と同じように高く飛び上がりビルの天辺を撫ぜながら周囲を見回すものもいた。
だが、そのどれもが彼の望むものを見せた者はいない。
そんななか一つの光が何かに惹かれるように方向を変えた。
何を見つけた?
問いかける様にその一つに意識を集中させ、流れる景色に思わず眉をひそめた。
広いバス通りを車の間を駆け抜け、更に先を急ぐ感覚。
目の前に迫ったバスの中へとするりと入りそして、視点を変えた瞬間全てのものから意識が切り離された。
「くっ――――」
まるで立ち眩みをしたように視界が白く染まり、よろめいた。
何だ、今のは……
初めての現象に頭を抱え、歪む意識を正そうと軽く頭を振ればバサバサと音を立てて白いものが足元に広がった。
「ご、ごめんなさいぃ!」
恥ずかしさを誤魔化す声を聞きながら、嵐は半ば呆然と拾い集められていくのを眺めていた。
乱暴に鞄の中に紙を入れた少女は急いでこの場を離れるように図書館駐輪場へと駆け出していた。
さっきと同じ……だよな?
浮かんだ疑問に答えられるものは無く、そのまま遠くでガタンと音を立てて自転車を漕ぎ去って行く少女の後姿を見送るしかなかった。
そして、光が居なくなっていることに気が付くのと同時に彼女が拾い損ねていた紙に気が付き、拾い上げれば塾で出されただろう問題用紙だった。
右端には”わかちゃんに渡す”と可愛い文字で走り書きされていた。
「三岡志穂ね……」
走り書きの直ぐ下にあった少女のものとおぼしき名前を眺めながら、嵐は少し考えてから帰路についた。