PARTⅠ カードカフェ 【5】下心
昼夜の寒暖差が更に大きくなり始めた頃、マスターこと照岡保盛と倫太郎は恒例の一泊に出掛けた。
「いつ来てもここからの眺めは絶景だなぁ」
「俺が造ったんじゃないですけどね」
二人で大窓の前にいると
――失礼いたします――
女将が入って来た。
「ようこそお越しに。保盛さん、お久しぶりでございます。兄がいつもお世話になっております」
「こちらこそ。いつもいつもこんないい眺めを。寿美子ちゃん、本当に目の保養になるよ」
「ありがとうございます。この時期ここから保盛さんと紅葉を見るのが、兄の一番の楽しみなようで。お付き合い下さって、私感謝しております」
女将が笑って頭を下げた。
「寿美子ぉ。お前、いつもながら良く舌が回るなぁ」
女将は倫太郎に向き直った。
「やあね、兄さん。それ褒めてるの? 三十路前から母さんに仕込まれたんだから当然でしょ?」
「お袋かぁ。お袋はやり手だったからなぁ。そのお袋が亡くなって……。でも客減ってないんだものなぁ。寿美子は偉いよ。よく頑張ってる。俺は心から妹を尊敬してるっ」
保盛は声を堪えて笑った。
「見ろ、保盛さんが、真っ赤んなって笑ってるじゃねぇか」
「兄さんの所為じゃないのっ。それより。御膳は六時でいいの?」
「ああ。お前んとこが忙しくなる前なら何時でも」
「わかった。ありがと。それじゃ、ごゆっくり」
女将は保盛に頭を下げ戻って行った。
「いい兄さんだっ」
今度は倫太郎が提灯に。
「無理にここを押し付けたようなもんなんで。来る度顔見るのがね。心労が顔に出てやしないかって。もう冷や冷やですよ。今んとこ、こっちの取り越し苦労で済んでますけど」
「接客はなぁ」
「ええ」
「でも、倫ちゃんだってそうだろう? 毎日三ヶ所だし」
「そりゃあ。でも、行くだけで。保さんみたいにすることがあるってわけでもないんで」
「相変わらず。自分には辛いね」
「保さんには及びませんよ」
日が射し、二人は奥に入った。
食事が済むと、倫太郎はジンジャーエールを注いだ。
「下戸の俺たちはこれですよね」
そして柿の種と豆菓子も上に。保盛が早速味豆に手を伸ばした。
「あのさ。倫ちゃん。芙美ちゃんから聞いてない?」
「何をです?」
「バイトの子のこと」
「バイト? ああ。あれは会社の落とし物入れに入れて来ましたよ。生き霊は怖いですからね」
「何のことだい?」
保盛はコリコリ砕いた。
「携帯ですよ。預かってくれって渡されて来て」
「なるほど。そういう話」
頷くと倫太郎は一口飲んだ。
「あー。辛っ」
「それで、芙美ちゃん別れ方とか観てやったの?」
「さぁ……。ただ『良い娘に遇った。運強い』って言ってましたね」
「確かに。あの日来なかったら、芙美ちゃんとは会わないからなぁ」
「『良い娘』って芙美のことなんですか?」
「違うかい?」
「さぁ……。そんな言い方じゃなかったですけど」
倫太郎は柿の種に手を。
「それで、その子。帰ったんですって?」
「ああ。決めたら早かったよ」
「若気の至りが一生の不覚の昨今ですけどね」
「どうなるんだか。まあ幸運を祈ろう」
二人は乾杯した。
着いた時冷蔵庫に入れたプリンとシュークリームを、倫太郎が出して来た。スプーンとフォークは保盛が。
倫太郎が下からカラメルをすくい言った。
「俺。保さんのこの味が一番好きですよ。甘過ぎず苦過ぎず」
「でも甘味嫌いな人は、これだと『甘過ぎ』ってなるんだよ」
保盛もプリンを開けた。
「へぇぇ」
倫太郎はプリンカップをグルリと眺め、大盛りを勢いよく口に。
「なあ倫ちゃん。前から聞こうと思ってたんだが、芙美ちゃんとはどこで知り合ったんだい?」
「俺んとこです」
倫太郎はテンポ良く答えた。
「釣り堀り? 釣りするの?」
聞いた方が返しに戸惑った。
「お袋さんとお友達の運転手ですよ。詰まらなそうにしてましたっけ」
「だけかい?」
何とか仕切り直した。
「保さんには敵わないなぁ。実は。昔知ってた子に似て見えちゃって。今見たらどこもなんですがその時はね」
「気に入ってた娘かい?」
「そう言うわけじゃ。幼稚園で寿美子の一つ上だった子です。保さんは知らないかなぁ。うちの近くの山村医院」
「山村? 隣町に大きなの建てて移った?」
「そう。そこの娘。色白でクリっとした茶目で。西洋人形みたいな子でした。弱かったらしくて寿美子と遊んだのも家の中だけだって聞いてました」
「で。その子は?」
「入学前に越したから詳しくは知りませんけど、周りが姿見たのは七歳までだって。十歳までは生きられなかったらしいですよ」
倫太郎は空グラスにルイボスティーを分けた。
「芙美とは林檎狩りでまた会いました。あっちは例に依ってお袋さん達と。俺はお客さん達と。それで、ひょんなことから餃子を食べに連れて行くことになりまして」
「二人で餃子?」
また惑いそうになった。
「違う。違う。お袋さん達もです」
「芙美ちゃんの御両親って――」
「二人共高校の先生」
「なるほどね」
なんとかまた戻れた。
「お袋さん、じゃない義母は、日本史の先生だからいろいろ知ってて良く出掛けてるんです。それで、知り合った俺も誘われて日帰り史跡巡りを。お客さんと話すのに、結構役に立ちました」
「で。仲良くなったの?」
「違う。違う。最初は『この子に誰かいい人いませんか』って婿探し頼まれました」
「ほーお」
保盛はカップを空にしスプーンを置いた。
「それで、どんな人がいいのか本人に聞いてったら『する気ない』って」
「まだ若かったろう?」
「ええ。だから俺なりに説得したんですけど、どうしても『ヤダ』って」
「何かあったのか」
「ええ。男が嫌なのは最初の勤め先の社長が元。だけど一番は義母だと俺は思いました」
「お母さんか……」
保盛は自分のグラスにルイボスの残りを入れると、新しいものを倫太郎に入れた。
「遠くまで入学試験受けに行った時のことだったそうですが。付き添いの義母が、序だからとホテルで昔の友達と落ち合う予定にしたそうなんです。その時、友達とおしゃべりするのに出入りするんじゃ気が散るだろうと、義母は気を利かせて二部屋取ったんだそうです」
保盛は柿の種を口に入れた。
「『友達は仕事後来る』と聞いていた芙美は、一緒に食事してすぐ部屋に入ったそうなんです。すると9時頃コールが来て『さっき来たが満室で部屋が取れないので、自分の所にサイドベッドを入れてもらった。熱を出しているのでフロントに聞いて薬を買って来るから少し外出する』と言ったんだそうです。その時、ちょうど芙美も空調が合わず喉が痛かったので、喉飴を頼もうとしたそうなんですが、用件だけで切られたので言い出せなかったと。それで、戻って来る頃を見計らってドアをノックしたそうなんです。『薬屋の場所を教えてもらおうと思った』って言ってました。それが……ドアが開いたらガウン姿の義母が前に。壁際に紳士靴が見えたとも言ってました。……芙美は、結婚がって言うより子どもを持つことが嫌だったらしいんですよ。『今度は自分が、いつ、子どもを同じ目に遭わせるかわからない。それが怖いから』って」
倫太郎も柿の種を口に入れた。
「じゃあ御両親は――」
「何事もなく御円満に居りますよ」
保盛は溜息を吐き欄間を見た。
「勤め先の社長からは何を?」
「『買い物に行くので一緒に来てください』と、車に乗せられたんだそうです。乗ると『手を貸してごらん』と言って右手で芙美の左手を握って片手で運転し続けたそうです。それで問屋の様なうす暗くて物が積んである店に行って、うろうろしながら近づいて来て、いきなり抱え込んだんだそうです。芙美は小柄ですからね。それ以上は何もしなかったらしいですけど。しばらく動きがとれなかったって。……仕事中も『かわいいんだ』って言ってしょっちゅうほっぺ触って来たんだそうですよ」
「…………」
「『どういうつもりでそんなことするのかわからなかった』って言ってました。どういうも何も。下心しかねえだろうに。ちょっと触って様子見たってことでしょう? 意識するようならズルズル行く気で。だけど、人前で『かわいい』って言葉出してやんわり手ぇ出す計算高さなんて、学校出たての娘にはわかりませんよ。芙美に言ってやったけど〝何で?〟って顔してました。男ならそんな下心すぐわかる。でも〝下心〟ってもの自体がわからないんですよ」
「芙美ちゃんそれで……。御両親には」
「言えなかったんですよ。社長が義母の友達の義弟だったもので……。縁故って難しいですよね」
「…………」
「真面目な子ほど、大人に〝遠慮〟があるんですよ。正確には〝自分が大人だと思っている者〟に。だから〝こんなこと平気な人なんて世の中いくらでもいる〟〝こんなことで騒ぐのは子どもだ〟って。随分自分に言い聞かせたそうです。でも、芙美が何とか対応しようと努めても、相手は頼みもしないことを笑って続けて来るわけですから。〝不信〟ってものは広がりますよね。最も、対応するようなものじゃないんですが、そこがわからないから。だから〝嫌だっ〟だけが強く残っちゃって。そこをなんとか辞めてからは、女性の多い職場を探したそうです。愉快だけの浮つき心は、相手の何かを壊しちゃうんですよ」
倫太郎はルイボスティーを半分まで飲んだ。
「浮つき心って言えば、正月に来た深雪も大分腹立ててたよ」
「深雪ちゃんが?」
「ああ。深歩のことで。雪菜より一つ上だから高二になったんだが。ある時、昼までのはずが、待っても待っても戻って来ず、携帯を忘れて行ったもので連絡も取れず気を揉んでいたら、日が落ちてから電話して来たことがあったそうなんだ。『先生に、大学祭に連れて行ってもらったから、これから駅まで送ってもらう』って。車の中らしく女の子のキャハハ声と若い男の『うるせぇーぞぉー』がガーガー入って来たんだってさ。その男の声が〝浮かれ声だった〟って深雪は盛んに言ってたよ」
「頭に来たんだ。深雪ちゃん」
「ああ。深雪の言い方だと『宴会場』かと思ったって言ってたから」
「学校に言ったんでしょう?」
「担任に電話したそうだ。深雪はほら、自分が出たのは男の先生は退職間際の妻帯者が多い女子高だから。新米の理科だか社会だかの先生が、新入の教え子二、三人連れて、自家用車で母校の文化祭に――なんて有り得ない話なんで。そう言ったんだろう。連絡も取れず心配していたことも言ったそうだ。すると、担任は一旦切って折り返し掛けて来て『後学のためにと好意で引率したそうなのですが、本人から謝罪の電話を入れさせます』と言ったんだそうだ」
「謝罪ねぇ」
「でも、掛けて来た教師は謝罪どころか『帰宅が遅くなるので予め自宅には連絡を入れるようにと指示しておいたのに、怠ったのはお宅の娘さんだ』と娘の落ち度を指して『娘さんは自分の責任で着いて来たわけで、お母さんは過保護過ぎはしませんか』と説教を始めたそうだよ。『クラブ活動でも何でもない活動を、許可する学校がどうかしてる。後学のためなら生徒全員をスクールバスで引率すべきだ』って、深雪は盛んに怒ってた」
「二、三人だけ自家用車って。事故起こしたらどうするつもりだったんでしょうね。その教師」
「自己責任じゃないか? 高校生は子どもじゃないんだから。で」
「リーマンが駅前で女子高生に『後学のために僕の母校の文化祭に行かないか?』って声掛けて、行く子が易々と見つかるものですかね」
「そういうことさ」
保盛がクリームを吸いながら食べ始めると倫太郎も続いた。
「で。深雪ちゃん、もちろんもっと上に言ったんでしょう?」
「地区のPTA会長が知り合いだったんで、その人に話そうと思ったらしいんだが」
「?」
「義弟が止めたそうだ」
「修司さんが何で?」
「『何かない限り、女が男の下心を騒いでもスルーされるだけだ』って。代わりに娘の方に言い聞かせたそうだ」
「何て?」
「『どんな相手でも相手の中に、何かあった時責任を取る気があるかどうかよく見ろ』って。『年上だからは関係ない』とも言ったって言ってたな」
「……」
「自己防衛する以外無いってことだよ。うちの親父が妹二人に言ってた『男の車に乗せてもらう時は〝何があっても構わない〟の覚悟で乗れっ』と同じ。付いていてやりたくたって、育てば世間に出さないわけにはいかないし。第一、うっとうしがられるし。聞く耳があるうちに言って置くくらいしか。それだって、芙美ちゃんのケースみたいに無意味な時もあるけどね」
倫太郎はジャスミン茶も開けた。
「俺には子ども自体がいないから……。だけど芙美の親父さんに、義父に会って、こういうものかなって。義父は八つ上なだけなんですよ俺の。なのにあいさつに行ったら『こちらには何の異存もございません』って。後から聞いたんですよ。『本当に俺でいいんですか』って。そしたら『最近の芙美は、子どもの頃の顔で笑っていましたので』って。それ聞いて、失礼な言い方かも知れないけど、父親ってこんなにも退くものなんだと思いましたね」
「してやれることが多そうで、実のところあまり無いしね。坂田のおじさんは、志寿ちゃんたち四人の娘の式の度に『娘なんて持つもんじゃない』って康子さんにぼやいてたそうだ」
倫太郎はシュークリームを口へ押し込み、保盛も最後の一口を飲み込んだ。
「芙美ちゃんのお父さんて、随分おとなしい人なんだね」
「ええ。元古文の先生で。すごく静かに話すんですよ。もしかしたら芙美のことも。芙美の中の何かをちょっと知ってるのかとも思いますね」
保盛は頷きながらナプキンで口を拭うと「まあ……父親が娘に本当にしてやれることは、息子の下心を突くくらいだろうな」と言って席を立った。
ひとりになると倫太郎は、フィルムとカップを片付け、代わりに塩煎餅を置いた。保盛が戻って来た。
「そろそろ出る頃だと思ってた」
倫太郎は封を開けた。
「今度は保さんの番ですよっ」
「何? 俺? 俺なんて……」
倫太郎はニヤついた。
「敵わないねぇ。倫ちゃんのお嫁さんには」
ハハハと開けた口へ保盛が柿の種を。
「いつからなんです?」
コリコリしながら倫太郎が聞いた。
「五年前」
「じゃあ、あそこ始める前ですか?」
「そう。倫ちゃんが籍入れた頃」
保盛はグラスに口をつけた。
「伯父さんの墓参りに行ってばったり。伯父たちの他に御主人と息子さんも入ってた」
煎餅を〝パリッ〟で倫太郎は止まった。
「御主人は少し前に。息子さんはそれより前。医者になって間もなくだったそうだ」
「じゃあ、病院は?」
「上の娘さんも医者になったから、お婿さんと継いでるそうだ」
「知らなかったんですか?」
「伯父さんが亡くなってからは、付き合いなかったから」
保盛の家は古い餡子屋だったが、長男は医者になり、家業は保盛の父が継いでいた。伯父は子どもを持たぬまま妻に先立たれ、何年かして女の子のひとりいる女性と再婚した。保盛は一つ上のその娘を好きになり、伯父に習おうとその母校の後輩となった。気持ちも何とか伝えられ相思にもなった。しかし、進路のことで母の猛反対を受け、結局家に残ったのだった。その後保盛は母方の遠縁の女性と結婚し、伯父の養女は医者の婿を取っていた。
「家は渡して、今は下の娘さんとマンションに住んでる」
「下の人って幾つなんですか?」
「三十一。学校出た後少し勤めて。料理好きで、その後料理学校へ行って、今は――」
「お店やってるんですか?」
「洋菓子店に勤めてる」
再び開いた口に、保盛がまた入れた。
翌夕。戻ってくる倫太郎を、芙美はカレーを作って待っていた。
「どうだ。色白になっただろう?」
倫太郎が得意気に腕を見せると、芙美は〝これが邪魔っ〟と言わんばかりにもじゃもじゃを一本摘まんで見せた。
食後。もらって来たジャーキーを噛みながら倫太郎が言った。
「保さん白状したぞっ」
「ほんとオーバーね」
芙美も小さめを取った。
「まったくっ。弟の俺に五年も黙っててっ」
「兄弟だったのは曽祖父さんでしょ?」
「俺は同然以上っ」
「言う程のことでもないと思ってたのよ。きっと。でも……」
「でも?」
「鳩時計掛けてる」
「鳩?ああ、郭公時計のことか」
「そう。機械式じゃなくてクォーツだけど」
「それが一体何なんだ?」
倫太郎は裂いた残りを口に入れた。
「あーっとぉ。そう言えば昔―し」
壁を見上げた。
「俺と保さんは七つ違いだろ? 保さんが高校合格した時俺確か八つ。その頃の記憶だから曖昧だけど……。あの時、いつもの様にお祖父ちゃんに連れられて遊びに行ってたんだな。そしたら奥の床の間にお祝いの品が。小物から大物まで何て言うか小山っ。それで子供心に自分も何かお祝い――と思ったが何あげていいかわからず保兄ちゃんに聞いた。その時だ。『今はいいから結婚する時郭公時計くれ』って。確かそう……」
芙美を見た。
「でも……。倫太郎さん、保盛さんは商売屋さんの跡取り息子さんよね。カッコウって閑古鳥とも書くのに……」
「……ってことは……。そんな前から……」
倫太郎はおかしなことを言い、急にしぼんだ。
「ねえ……。それで。あげたの?」
「あげて、ない。幸い、忘れてた。そっかぁ……郭公時計をなぁ……」
もう、自分の世界に行っていた。




