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PARTⅢ ダイヤのクイーン 【3】思影(おもかげ)

「気をつけて」

 早苗を見送り深雪は門を閉めた。ふと見ると、角に配された小振りの木瓜(ぼけ)には可憐な花が。その淡い色合いに見惚れた時、脳裏に木犀(もくせい)の香りが広がり″あの日〟の達朗が現れた。


                 *


 深雪と保盛たちとは三年離れていた。みんな進路の決まった春休み、達朗の発案で三人は隣町の洋食屋で密かなお祝い会をした。その帰り。保盛の希望でレコード店に寄った時、深雪は達朗からメモを渡された。

「一度遊びにおいでよ」

知りたかった電話番号が書かれていた。

祖母の葬儀が済んだ翌月、深雪は朝早く列車に乗り待ち合わせた街へ。それから会うようになった。三年後、深雪は家から通える女子大を選び、達朗は専門課程へ進んだ。

「卒業したら。来てくれるかい?お父さんの元の様な暮らしはさせてあげられないけど」

そう言われたのは、大学三年の春。しかし、それから達朗は多忙になり夏も会えずに過ごした。

 秋になり、保盛の結婚披露宴でやっと会えた。久しぶりの達朗は、人目を憚りながらも振袖姿の深雪に感激し、幸福そうな顔をしてくれた。

(今度は達朗さんのために)

 深雪は心からそう思った。

 宴が終わると達朗は「送るよ」と深雪を車に乗せた。「そのまま戻る」と聞いていたが、きっと少しでも一緒にいたいと思ってくれたのだと、深雪は嬉しかった。

まだ誰も戻っていない家に、車は着いた。

釣瓶(つるべ)落としって言うけど、本当だ」

 エンジンを切り達朗が言った。

「ねぇ、深雪ちゃん。深雪ちゃんは、やっぱりここにいた方がいいよ」

 指示語が解けず、深雪は達朗を見た。

「照岡の家に。その方がいい」

 理由を聞かずにはいられなかった。

「立派な披露宴だった。可愛い花嫁さんだった」

 達朗は続けた。

「安治おじさんは、保ちゃんを会社の運営に巻き込む気はないはずだ。今は直営店の中で一緒にやらせてるけど、そのうち洋菓子部門を独立させて保ちゃんにやらせると思うよ」

 その通りで、保盛もそう望んでいた。

「会社の表看板になる人がいれば、それができる。今はおじさんがいるから。それもおじさんが八十、九十までいてくれるなら」

 まだ五十代半ばの父は至って健康に見え、達朗の言葉は意外だった。

「深雪ちゃんは物事を客観視できる聡明な女性(ひと)だよ。おじさんは、深雪ちゃんが次男だったらと何度も思ったろうと僕は思うんだ。そうだったら、おばさんの保ちゃんへの拘泥もこれ程ではなかったかも知れない。深雪ちゃん。僕は深雪ちゃんに、おじさんの側にいてあげてほしいんだよ」

「お父さんの側に?」

 達朗は頷いた。

「保ちゃんから『結婚する』と聞いた時、気に入った人が見つかったのかと思って僕は嬉しかった。『見合い』と聞いて、でも気に入ったからだろうと思った。幾代さんは可愛い人だ。だけど〝違う〟んだ。何年経っても彼女は保ちゃんを理解できないよ。もちろん〝理解〟が不要なカップルもいる。でも……。正直、保ちゃんはこれから〝仕事〟しか見ないよ」

 達朗は、保盛の結婚の経緯を知らなかった。それでも、こう言い切れる達朗だった。

「他人の僕でもわかることが、親のおじさんにわからないと思うかい?」

 深雪は目を逸らしたいのを堪えた。

「ヒトって意外と脆くてね。辛い思いが重なると生命力が萎えてしまう。今おじさんに何かあったら保ちゃんはどうなると思う? あれだけのお付き合いのある会社だ。保ちゃんの学歴は若輩でも代表として申し分ない。保ちゃん、一生洋菓子店持てないよ。目標を失くして苦しんで。それでも逃げずに、やっと立ち直るきっかけを掴んだのに。でも、ここでそれも失くしたら……。僕は今日、おじさんを守ることが保ちゃんを守ることだと確信できた。それができるのが誰かも。そして、僕にできることも」

 深雪は何度も首を振ってみせた。

「深雪ちゃん。おじさんは、深雪ちゃんが卒業するのを心待ちにしていると思うよ。深雪ちゃんは本当に頼りになる。僕もそうだから。僕が『お嬢さんをいただきたい』と言ったら二つ返事で承知してくれると思う。深雪ちゃんにも『よかった』と言ってくれると思う。そして、保ちゃんのことをもっともっと悲しむと思う。僕たちの子どもを保ちゃんの前で笑って見せられるかい? 僕には言えない。僕にはできない。兄さん思いの君なら尚更だよ」

 達朗の暗示のような言い方に、深雪は改めて保盛の百合への思いの深さを知った。

「私は()()から出たいのに。どうして連れ出してくれないの」

 やっとの思いで言うと「本心からそれを選べる君だろうか」と言って達朗は先に降り、助手席のドアを開けた。仕方なく下りた深雪は首振りしながら「いや、いや、いや。――――」と、親にもしたことのない必死の抵抗を。しかし、達朗はいつもの様に穏やかに腕を回すと

「僕は憶病だから、深雪に軽蔑されるのが何より怖い」

そう言って、深雪の動きを止めた。この時……塞がれた未来を聞かされながら、しかし別れの腕の中に、深雪は温もりを確信できた。

 ――達朗さんは必ず迎えに来てくれる――

 それでも、木犀の香りに涙は流れた。


それから、達朗は遠い人になっていった。勤務地も遠くなったようで帰省も殆どしなくなり、保盛の方が都合を付け会いに行くようになった。会って来ると保盛は決まって会社に顔を出し、安治に達朗の近況を。それだけが支えだった。三年、五年、十年……。その間に保盛は二児の父となり、安治は洋菓子部門を独立させた。

ある時、いつも通りの達朗話の後、安治が言った。

「達ちゃん結婚は?誰もいないのか?」

「いるよ」

 深雪は顔が強ばるのを感じた。

「じゃあ、来年辺りか」

「そうでもなさそうだよ」

「何か事情があるのか」

「かもね。『まだ、もうちょっと』って言ってたから」

それまで遠のいていた達朗が、いきなり横に立った。


――嫁に行かない姉がいるなんて、外聞が悪すぎる――

早苗の結婚が決まった時、蓉子はここぞとばかりにそう言った。しかし、後厄も過ぎると何も言わなくなった。

深雪が三十八の誕生日を翌月に控えたある日。保盛が達朗の父から連絡を受け、病院へ飛んで行った。眠れぬ夜明け、訃報が安治に。二人は葬儀に参列した。だが、深雪はいつも通り……。何も知りたくはなかった。それなのに、忌明けから戻り蓉子に渋々話す安治の声に、足が廊下に。

「達ちゃんは内科医だったから、思うところがあったんだろう。望んで検査をしたらある項目が異常値だったそうだ。それで入院することになり、一応親元の先生の(ところ)へ本人が連絡して来たんだが『検査だけだから心配はいらない』と言っていたそうだ。ところが二日後、病院からの連絡で先生夫婦が行ってみると、もう意識がなく機械がついた状態で……。保盛が着き、翌朝弟の(けん)()君が着いて……。あまりに数値が悪いので入院翌日投薬したんだそうだ。それが合わなかったのだと、先生は話していた」

 望んで心を棄てた。


 翌年。達朗の命日のひと月前に蓉子が急逝した。怪我が元で入院し感染症での落命だった。それから数か月後。初彼岸の済んだ週末の夕暮れ、保盛がふらりとやって来た。老舗の手提げを見せ「夕飯にはちょっと早いが、一緒に食べよう」と。安治は朝から組合旅行に出かけていた。深雪は急ぎ吸い物を作った。

箸をつけ始め「美味しいお弁当ね」と言うと、「達ちゃんが好きで、学校帰りによく食べたんだ」と。聞き流し平生を装った。

「賢ちゃんに聞いたんだけど、達ちゃんと付き合ってたことがあるんだって?」

 箸を止めず聞いてきた。

「もう、ずっと前よ」

「達ちゃんの法事の後、親父と俺はおじさんたちに呼ばれてさ。達ちゃんが用意していた開業資金を渡されたよ」

「開業?」

「ああ。牧先生の跡を」

「渡された?」

「『寄付して欲しい』との遺言だそうで」

「遺言?」

「そんなつもりはなかったろうが、″万が一″でおじさん宛てに」

「見せてもらった」と保盛は言った。

「結婚の約束。してたんだろう?なんで、別れたんだ?」

湯呑に口をつけ言った。咄嗟に深雪は(答えなければ、勘ぐられる)と。

「お兄ちゃんの結婚式の日。送ってくれたの。着くと車の中で『深雪ちゃんは、照岡にいた方がいい』って言われたのよ。来賓の多さ見てそう言われたと、私は思った」

 作り笑いをすると、保盛は無言でまたすすった。

「深雪……。それでお前は、親父の側に」

「いやだ、ちがうっ。家事手伝いで家にいたくなかっただけ」

再度笑み目が合った時、庭に車が。すぐに玄関が開いた。

――こんばんはー――

出て行くと、親戚の倫太郎がいた。

「保さん来てますか」

――いるよ――

後ろから保盛が来た。

「今日はこれから倫ちゃんと、由美子おばさんとこに行こうと思ってさ。食べっ放しで悪いが、後片付け頼むよ」そう言って、さっさと靴を。「もう、門閉めろよ」と言うので、深雪も外に出た。

「明日親父が帰って来たら、夜電話くれるように言ってくれ。明後日の時間、詰めてないんだ。戸締りしっかりしろよ」

 背を向け去っていった。

保盛の目に、深雪は動揺していた。脱力を感じながら、とにかく後片付けをしようと家に。

(今さら一体何なのよ、お兄ちゃん……)

空いた席に目が――端に膨らんだ白封筒を見た。刹那鈍いしびれが指先まで。早々に片付けを終え部屋に入った。

恐る恐る覗くと、中には黒い万年筆と手紙が。達朗がそこにいた。


  ……深雪さんは、待ってくれていると思います。思わぬところで足踏みを食らっておりますが、検査が済み次第、照岡の家をお訪ねするつもりです。しかし万が一叶わぬときは、これをお渡しください。おじさんと保ちゃんには、黙っていた事を代わりにお詫びください。『一城の主になるまでは』の拘りが僕にありました…… 


「あ、あ、あ、あ、あ、あ」

 震えがきて腰が萎えた。

「ああ、ああ、ああ」

 ベッドのスプリングを力任せに叩いた。

戻りたい!″あの日〟にっ、戻りたい!

 離れたことが悔やまれた。

   どうして私はここに? どうして生きてるのよ!

 手段が様々頭に。すると達朗が。(ただよ)う姿が兄と重なった。

   まさか……うそっ‼

 達朗が何より知られたくなかった事を深雪はさっき保盛に――『それで、お前は親父の側に』――。

   ごめんなさいっ、達朗さん、ごめんなさいっ……

 後追いも、できなくなった。


                * 


リビングに戻り、深雪は仕事机から達朗のペンを出した。

「もし保ちゃんが先に往っても、長話なんてしてないで深雪のお迎えお願いしますね」

 それから、黄ばんできた封筒に〔安治遺品  兄保盛より〕と書き、ペンを元に。傍で見ている気がした。



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