PARTⅡ 郭公時計(おもいで) 【2】
井野口と別れると、保盛は降りたホームで蕎麦を立ち食いし、教えられた乗り場からバスに乗った。幾つもの見知らぬ街を抜け、言われた所で降車。傾いてきた陽を浴びながら言われた道を行くと、畑の中に白梅が一本立つ景色が見えてきた。小さい頃よくこの辺りを従姉と。花開いた桃や梅の中の百合が浮かんだ。
百合は伯父のひとり娘。保盛より一つ上だった。今は泰太郎も安治も何かと多忙で行き交う頻度も減ったが、昔は毎週の様に行き来があった。それで百合とよく遊んだ。その百合が伯父の実の子でないと知った時、〝百合ちゃん〟は保盛の中で別の〝百合ちゃん〟になった。
(もう学校から帰って来てるかな……)
正月以来だと思うと肩中が強ばって来た。保盛は深呼吸して敷石を踏んだ。
――ピンポーン――
チャイムを押しドアを。
――こんにちは――
百合の靴は見当たらなかった。出て来た伯母の道子は、はるばるやって来た保盛を労い迎えてくれた。
「道すぐわかった?」
「うん」
「伯父ちゃん、もう少ししたら帰って来るから」
「はい」
「百合はねぇ。体育の授業でスキー合宿に行ってるのよ」
「今?」
「そうなの。今年は雪が少なくて、年明けの説明会では中止と発表されたの。それが、今月はじめから積もり始めたとかで、また変更になってね。百合たちは本当は先週のはずだったのよ。なのに流感で人数が揃わなくて一週間遅れになったの。会えなくて残念がってた」
残念なのは同じ。その上保盛には無念もついた。
「お泊り仕度して来た?」と聞かれ「下着だけは」と言うと、「じゃあ」と一番風呂を勧められた。勝手知ったる何とかで風呂場に行こうとすると「脱いだ物は洗濯機に入れてね」と、泰太郎の部屋着と半てんを渡してくれた。
風呂から出て少しすると泰太郎が帰って来た。半てん姿の保盛を見て
「ぶかぶかかと思ったら。へーぇ。結構着てるねぇ。ちょっと見ぬ間に大きくなった」
安治より柔和な顔をした。泰太郎が風呂場に行く前にと、保盛は包みを解いた。
「伯父さん。伯母さん。この度は――」
言いかけると泰太郎は「おい、よせよ」と。
「でも。保ちゃんが折角。……ねぇ」
道子が保盛を見て頷き、保盛も頷いた。
「そんなこと言ったって。じゃあ、あなたが代わりに聞いてやってよ」
泰太郎は行ってしまった。それで保盛は、道子だけに。道子は「よくできました」と目を細めると「保ちゃんにとっては、これがお仕事の第一歩よね」と頷いた。
翌日。泰太郎の書庫から持って来た本を読んでいると、台所から甘い匂いが。しばらくすると、道子がお盆に何かを乗せて来た。
「お茶にしましょうよ」
道子は火燵の上にお茶と受け皿付きの器を置いた。
「いい匂いでしょ」
「うん」
器には白玉と、今年初めて見る苺が入っていた。
「苺の砂糖漬けっ。食べたことある?」
保盛は首を振った。
「これね。百合が漬けていったの。お友だちのお母さんから伺って来て。『この砂糖漬けと煮詰めたもので、保ちゃんにお菓子を作るんだっ』って言ってたの。でも、会えないからこれだけでも出してって」
道子に勧められ、保盛は宝石のようにきれいな一粒を口に入れた。甘歓尽くしの百合の苺は真に蜜の味。虜にされるに充分だった。お昼になると、煮詰められた苺が出た。保盛はそれをパンにたっぷり。牛乳にもたっぷり入れた。
泰太郎が帰って来た時、保盛は本を戻しに書庫にいた。廊下の突き当たりが明るいのを見て泰太郎がやって来た。
「お帰りなさい」
「ただいま。百合もいないから退屈だっただろう?」
「ううん。本借りてたし」
「何か面白いのがあったかい?」
「うん。これっ」
戻したばかりの三冊を指すと、泰太郎は「へーぇ」と一冊手に。
「俺も安治もよく読んだんだ。保ちゃんもか。実はこれ、貰ったんだよ小学生の時。千明さんに」
ページをめくった。
「今はもうないが。昔、照岡の家の四軒先に練炭屋があって、そこに千明さんていう男の子がいたんだ。俺より幾つか上で。よちよち歩きの頃からお祖母ちゃんに連れられそこへ行っていたから、千明さんは兄さんみたいな人だった。俺は『チャーちゃん』て呼んでた」
保盛は聞き入った。
「小学校の行き帰りは必ず家の前を通るから、帰って来たと分かると飛んで行った。行くと『泰ちゃん、ちょっと待っててね』って必ず坐り机に向かうんだ。俺はその間、近くにあった本棚からあれこれ引き出して待ってた。俺が小学校に上がる年の冬、チャーちゃんは風邪が元で何かの病気に。四月になっても休んでいて、楽しみにしてたのに一緒に学校へは行けなかった。遊びに行っちゃいけないとお袋からは言われていたが、チャーちゃんも待っててくれるから、隠れてよく行ったんだ。枕元には本がいつもあって、行くと読んだ本の話をしてくれた。この本は、親戚からお見舞いに貰ったと言っていたよ。チャーちゃんは、暖かくなると元気になって来て、五月のお節句の頃には少しなら起きていられるようになった。俺は、もう大丈夫なんだと思ってた。だが、牧先生からもっとよく調べた方が良いと言われたとかで、夏前に越して行った。この本くれて、元気になって会いに来ると言ってくれたんだが。来なかった。牧先生に何度も聞こうと思ったんだ。でも、聞けなかった」
泰太郎は本を戻しながら、目が潤んで来る保盛の頭を撫でた。
「俺の頭の中ではさ。いつの頃からかチャーちゃんイコール病院で。病院に行けば会える気がしてた。医師になれば、チャーちゃんともっと近くなる気がしてた。餡子屋の長男なのに、このことが俺の中では大きくて。それで、みんなに頭を下げた。この本は、家を出る時置いて来たんだ。安治も好きで読んでいたから。それから、この本のことは、忘れはしなかったが俺の中では〝思い出〟になっていた。ところが、この家を建てた時、安治が持って来たんだよ。『兄ちゃんが持ってろよ』と言ってさ。それで今ここにある。この本見る度〝初心〟を思い返させられるってわけさ」
いつか聞きたいと思っていた″医師になった訳〟を図らずもここで。心が、穏かな目を撮った。
翌日、泰太郎は家まで送ってくれた。
「立派な挨拶を頂いたよ」
実は聞いていないがすまして安治に。すると
「まぁ、そうですか」
お茶を出していた蓉子が一番に反応した。
家に戻って数日後。達朗の家から戻り自転車を屋根下に入れていると、深雪が玄関から出て来てポストの中身を持って行った。
部屋にいると、やって来た。
「はいこれ。お兄ちゃんに」
三通机の上に。
「赤岩さんはどこ行くの?」
「口ちんと同じ。〇△商」
「じゃあ、香代さんは?」
「よく知らないけど、たぶん〇高じゃないか」
「ふーん」と言って深雪は背を向けた。
「百合ちゃんには、会えなかったの?」
聞こえぬふりで三通目の宛名に目を。深雪はその間に出て行った。保盛は急いで白地の封を開けた。中には、鎖付きの重しが下がり全体が茶葉に覆われた巣箱のような時計の写真と、便箋が入っていた。
合格おめでとう。
これは、合宿帰りに寄ったオルゴール館にあった郭公時計です。素敵だなと見ていたら、案内係の方が写真をくださいました。お正月にデパートで展示会をした時のものだそうです。いつか一緒に見に行けたら嬉しいです。
その晩。みんなが茶の間にいるのを確かめ、保盛は階段下の電話から泰太郎の家にかけた。きっと道子が出ると思い、先日のお礼を考えながらコールを聞いていると
「はい。照岡です」
思わぬ声が。
「……」
「もしもし?」
「あの。俺。保盛です」
「あっ。……届いた?」
「うん」
「……」
「……俺も。俺も行きたいっ」
考えたのは苺のお礼。しかし――飛び出てしまった言葉の幼稚さに幻滅した瞬間
「うれしいっ」
小声が身内中に散らばり、頭はそれをつかまえられなくなった。




