プロローグ
オープンしたてのモールと新しいコインランドリーの間に空家が二軒。戸板の打ち付けられた家たちは、元は八百屋と写真館だった。ある日、そこに車が。そして工事が始まり看板が掲がった。
――〔茉莉花亭―る〕――
「何あれ?」
「食べ物屋だろ?」
「ああ、じゃあ……」
多くは〝ジャスミン〟からエスニック料理店と直感。〝マリカ〟を見た者は、インド料理や中華料理店を主張した。
「でも、中華なら桜とか飯店じゃないか?」
「そう?でも、亭だってありじゃないの?」
期待混じりの「あーだ」「こーだ」の中、ある日曜の朝、業者たちがせっせと何かを壁に――やがて大プリントが通りを見下ろした。ツヤ盛りイチゴやこっくりチョコが、とろーり目で、うっふっふっ。すると、絶句人もフフフ。
「ジャスミンティーのあるカフェねっ。今度行かない?」
「ああ。いいよ」
「ねぇパパ、あれ食べたい!」
「じゃあ、行くか。開店いつだ?」
甘党でなくても悪い気はしなかった。
*******
さて、その〔茉莉花亭―る〕は、オープンすると十日間自家製ケーキを100円に。実はここのマスターは、店を息子に任せたばかりの元ケーキ屋店主だった。
遡ること一年前。店主は旧交を温めた帰り、渋滞を避けた別道で偶然空き屋の二軒を目にした。家からは少々離れているが、高速を使えばさほどでもない。しかも隣には〝モール〟。
「ここなら……悪くないな」
ふと言葉が出た途端、苺の香りが背中を〝ドン〟。それで決まった。
その連れ合いはその決定を翌日の夕食後に聞かされた。
「あら、いいじゃないの。それで何時から何時までの営業?」
機嫌よく林檎を剥き始めた。
「10時半から4時半までかな」
――シャッシャッシャッ――
「じゃあ実質9時5時?」
「まあ、そんなとこ」
「定休は?」
「月火かな。栄広の店と合った方がいいし」
――シャッシャッシャッ――
「行くのにどれくらいかかるの?」
「30分あれば十分」
「じゃあ、出るのは8時すぎ?」
――シャーッシャッシャッ シャーッシャッシャッ――
〝もっと早く もっと早く〟
思いが素直に手元から。
「栄広のところに寄っていろいろ運んで行くんでしょ? 8時前がいいわよね」
口からも駄目押しを。
「まあ。でも弥生に手伝ってもらうから」
「弥生っ?」
――トン――
テーブルが皿に叩たれた。
「雪菜ももう高校だし。洋輔君はまだ赴任中だし。いいだろう」
「でも本人に聞いてみないと。まだでしょ?」
「今朝、庭で会ったよ」
先は娘だった。
「で。いいって?」
「ああ。土日が運びだけでいいならって」
――ビシッ――
「あら、家鳴りね」
店主は聞き流した。
*******
オープンした翌月のある日、息子の栄広が連れ合いに電話して来た。
「俺だけど今居る?」
「ええ。あと少ししたら買い物に出るけど」
「じゃあちょっと居て。すぐ行くから」
5分せず来た。
「配達帰りで近くにいたから。枝切り鋏持ってくよ」
そう言うと、さっさと物置きへ。
「お店にあるんじゃないの?」
「これが店の。親父、家のは人に貸したとか言って、店の持って来てたんだよ」
「貸した? 誰によ」
「たぶん関根のおじさんあたりじゃないの」
重そうな鋏を楽々とシートにくるみトランクに。車に乗り込もうとするのを連れ合いが止めた。
「ねぇ、あんたお父さんのお店に行った?」
「ああ、行ったよ。オープンの時とその後と」
「ケーキはみんなあんたのとこから?」
(何言ってんだ)の目が連れ合いに。
「違うよ。俺んとこからは、ケーキは俺の焼いたスポンジだけっ」
「だけ?」
「そうっ」
「どうしてよ」
「自分でもあっちで焼いてんのっ」
「だから、どうしてっ。オーナーじゃない。人雇ってないの?」
「引退したのは俺を独り立ちさせるためっ。焼いてなきゃ腕が鈍るのっ」
「だって……。もう焼かなくたって……」
「あのねぇ、親父は作るのすきなのっ」
「ええ⁉、洋菓子部門担当してたからじゃなくて?好きでやってたの?」
「……。あっちで毎日俺のスポンジ味てんのっ。でも『仕上げは好きにしろ』って。知らなかったわけ?」
「知るワケないでしょっ。どうやって知るのよっ」
車は去って行った。
週末。出掛けた娘の車が戻って来ると、連れ合いは出て聞いた。
「お父さんのとこ、ケーキ屋なの?」
「違うわよ。喫茶店」
「じゃあ……。自分でケーキ作って自分でコーヒー淹れてるわけ?」
「コーヒー淹れてるのは私。作るのがパパ。ケーキ、パフェ、ドリア、トーストみんなパパ」
「ドリア?」
「そうよ。よく作ってくれたでしょ。私たちに」
「あの、生クリームとチーズたっぷりの? 高カロリーもいいとこの?」
「そう。パパ豚肉はクリームと合わせるの苦手だからエビとホタテの2種だけど。トーストも上にそのソース」
「あんなこってり。食べる人いるの?」
「大好評よ。ママは嫌がって家じゃ廃盤だけど」
「それだけで、採算合うの?それとも、好きでやってるから儲け度外視なわけ?」
「何言ってるのよ、十分よ。ジャスミン茶も人気あるし。オープンからクローズまでずっと居る人もいるし」
「そんなに広いの?」
「そんなにって訳じゃないけど。いずれお兄ちゃんとこの誰かにでも譲る気らしくて。だから厨房予定の所も今は席にしてるのよ」
「……あんた、今日はもう行かないでしょ。今日のコーヒー誰が淹れるの?」
「健ちゃんの奥さん」
「萌さん?」
「そう。豆の目利きも出来るって」
「でも、まだ子供が小さいでしょ」
「土曜は健ちゃんがいて、日曜はお姉さんとこだって」
――ガチャッ――
隣の玄関が。
「これから雪菜とランチに行くの。ママも行く?」
連れ合いは、胴回りをねじり後ろに陣取った。