1話 異界の森
目が覚めると、俺は森の中にいた。
頬を撫でる風は涼しく、土の香りと草木の匂いが鼻をくすぐる。まるで森林浴をしているような心地よさがあったが、そんな悠長なことを考えられる状況じゃない。
「……ここ、どこだ?」
寝転んだまま呟き、ゆっくりと体を起こす。背中に触れるのは柔らかく湿った土。周りは高く密集した樹々で囲まれていて、木漏れ日がまだら模様を地面に描いている。どこか遠くから鳥のさえずりが聞こえ、葉が風に揺れる音が耳に届いた。
立ち上がると、足元には濡れた落ち葉や小さな苔がびっしり生えていて、目に映る景色はどこまでも続く木々の壁ばかり。見渡しても人の気配はなく、道らしいものも見当たらない。
地面はしっとりと湿り気を含んでいて、足を踏みしめるたびに微かにぬかるむ。木の根があちこちに張り巡らされており、気を抜くとすぐに足を取られそうだ。
足元に咲く見慣れない花、幹に刻まれた爪痕のような引っかき傷、そして不自然に裂けた葉の切れ端──すべてが見知らぬ世界のものだった。
「……ここ、日本じゃないのか?」
呟きながら進むたびに、不安が胸を締め付ける。
空を見上げれば、青空に点在する雲の流れ方すら、どこか違和感があった。気のせいか、太陽の色も微妙に白っぽく、柔らかすぎる光を放っている。
肌を撫でる風は、どこか冷たく湿り気があり、森の奥からは時折、低いうなり声が聞こえてくる。
「まさか、本当に異世界なのか……?」
そんな陳腐な言葉が頭に浮かび、思わず苦笑した。けれど冗談じゃない。いまの俺に必要なのは、状況を理解し、生き延びる術を探すことだった。
慎重に、そしてできるだけ無駄な音を立てないように歩き出した。足元には大小の枝や石が散らばり、湿った土は滑りやすい。視線を左右に巡らせ、隙間から差し込む陽の光に頼りながら進んでいく。
一時間ほど歩いただろうか。体力はじわじわと削られ、喉の乾きを覚え始めていた。
そんなとき、左手の茂みが不意に大きく揺れた。
ガサッ、ガサガサッ。
反射的に視線を向けると、そこにいたのは──
人の形をしているが、肌は緑色。鋭い歯を剥き出しにし、太い棍棒を握った小柄な存在が2体。
「ゴブリン……だ」
この異常な現象を前にしても本能的にそう直感した。
ゲームや異世界ラノベで何度も見たあの“雑魚モンスター”。序盤の雑魚、武器も持たずに倒せる魔物。
俺の中ではそう認識していた。
だが目の前のそれは違った。
身長は140センチほどで、俺よりずっと小さいはずなのに、全身から殺気が溢れていた。じっとりとした汗の匂い、ギラついた目、垂れた唾液。ニヤリと口角を吊り上げながら、まっすぐにこちらへ向かってくる。
「くそっ……!」
慌てて逃げ出した。背中に感じる枝や葉の擦れる音、足元の土を蹴り上げる感覚が全身に力をみなぎらせる。こんなに真剣に走るのはいつ以来だろう。
だが、足音が後ろから追いかけてくる。
「マズい……」
息は乱れ、横腹が痛み始めた。背中越しに聞こえるゴブリンの足音はどんどん近づいてくる。
絶望が頭をよぎった瞬間、目の前に一本の太い枝が落ちているのが目に入った。
咄嗟に拾い上げ、振り返って構えた。
「落ち着け、俺。相手はゴブリンだ。戦えばきっと勝てる……!」
先頭のゴブリンが一直線に近づいてくる。間合いに入るやいなや、俺は全力で枝を振り下ろした。
バキッという鈍い手応え。
ゴブリンの体が激しく吹き飛び、背中から木に叩きつけられた。
「よし、倒した……」
安堵したのもつかの間、そのゴブリンは不敵に笑い、すぐに起き上がった。
「うそだろ……?」
目を疑った。まさか、耐えるとは。
その隙にもう一匹のゴブリンが一気に距離を詰め、俺の懐へ潜り込んだ。
「うわっ!」
棍棒が左腕を直撃。痛みが全身に走り、思わず声が漏れた。
「ぐあああっ!」
そのまま連続攻撃が襲いかかる。
棍棒で叩かれ、蹴られ、殴り飛ばされる。何度も何度も。
全身が悲鳴をあげ、体はあざだらけになっていく。
「誰か……助けてくれ……!」
土下座するように体を丸め、必死に叫んだ。
そんな俺に止めを刺そうと、ゴブリンは噛みついた。肩、足、腕、鋭い歯が肉を裂き、血が滴り落ちる。
「……俺、死ぬのか……?」
視界がぼやけていく。
その瞬間だった。
「シュバッ!!」
鋭く空気を切り裂く音が響き、攻撃がピタリと止んだ。
顔を上げると、そこにゴブリンの姿はなく、地面には紫色に鈍く光る石の結晶体が二つ転がっていた。
そしてその向こうに──
金髪で蒼い瞳をした少女が、剣を携えて立っていた。
「……大丈夫?」
凛とした声が耳に届く。
俺は状況を理解した。この少女が俺を助けてくれたのだ。
「本当に……ありがとうございます。死ぬかと思いました……」
枯れた声で礼を言うと、少女は眉をひそめた。
「何よその恰好。そんな薄着で、武器も持たずに森に入るなんて。バカなの? 死にたいの?」
彼女は俺の血まみれの姿を見て怒鳴りつける。
俺は制服姿──半袖のシャツに長ズボンだ。
対して彼女は鉄製の軽装鎧を身にまとい、鋭い剣を持つ。完全に剣士の装いだった。
返答に詰まる俺の前に、もう一人の男が木陰から現れた。
「お父様、この人……重症です!すぐに治療しないと!」
彼女の父と思しき中年の男性は、威厳ある表情で俺を背負い上げた。
「今日はもう終わりだ、ミリス。すぐに森を出る。魔石も回収しておけ」
「はい、お父様」
そんなやり取りを聞きながら、多量の出血をしていた俺の意識は徐々に薄れていった。
その時──
「ビキィィィ……ンッ!!」
雷鳴のような轟音が森を震わせた。木々がざわめき、空気が凍りつくように感じる。
俺を背負う男とミリスが上空を見上げる。
つられて俺も視線を向け、目を疑った。
そこには……あの“亀裂”があった。
転移の原因となったあの亀裂よりも遥かに大きく、空を切り裂くように巨大な裂け目が空に開いていた。
「またか……ミリス、急ぐぞ!」
「はい!」
耳元で交わされる緊迫した声を聞きながら、俺の意識は深い闇に沈み込んでいった──
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