回帰
目が覚めた美沙は勢いよく起き上がった。制服のままベッドで横になっていたようだ。起き上がった流れで周囲を見渡す。自分の部屋ではなかった。しかし、見覚えがある。茶色いタンスに、フローリングの色、白い壁紙。電気から吊るされた紐にくくりつけられているペンギンの人形。
毛布から身体を出してベッドの横に自分のカバンを見つける。急いでスマホを取り出すと、時刻は朝の6時過ぎ。母親からの着信履歴が何件も入っていた。
美沙はここで昨夜のことを思い出す。あの手のひらに頭を触れられた場面。あれだけ泣いた翌朝の気分は平常であった。そしてベッドから立ち上がる。タンスには無数のシールが貼られている。誰も色が剥げているが、原型のキャラクターははっきりとわかった。
美沙は鞄を持って部屋を出た。L字の廊下から階段を降りた。手すりもこの階段もよく知っている。手すりより下側の壁紙は傷があったり、落書きの跡が残っていた。階段を降りて、すぐ右のドアを開けた。明かりがすべて付いており、ダイニングテーブルに真山が座っていた。美沙の入室に反応して、真山は立ち上がる。
「おはよう。ここ、座って」
真山は立って隣の椅子を引き、ダイニングキッチンに向かう。美沙は椅子に座り、リビングを見渡す。この椅子もはっきり覚えている。向かいの席のベビーチェアに芽衣が座っていたこと、テーブルにピンで自分が掘った文字、テレビの位置も、昔は魚が泳いでいて今は空の水槽。タイムスリップしてきたようだった。
真山はマグカップを2つ運んできた。湯気が薄く上がっている。手前に置かれたマグカップの中身はココアだと匂いで分かった。
「あの、わたし、ここ」
「十三年と七ヵ月ぶりかな。僕らの家だったよ」
リビングの四隅には遊びスペースがまだ残っていた。組み立て式のジャングルジムはいつも芽衣が独占していた。物を伝って、記憶が蘇ってくる。モヤがかかっているが、確かにここにいた。
「覚えてる。わたし、うっすらだけど、ここにいつも座って、ママがそこ、芽衣がそこ、、、」
真山はマグカップを手にとって、スッと少量飲んだ。あのマグカップもいつも真山が使っていたものだ。いつも朝と夜、真山はあのマグカップを手に持って、反対の手で美沙を抱えて椅子に座っていた。二歳の芽衣は美沙が抱っこされていると、自分もしてくれないと怒っていた。真山がカップを置いて反対の手で芽衣を抱えていた。真山のスーツのネクタイは芽衣の遊び道具だった。
「この家まだあったんだ。もう無いと思ってた」
「普段は使ってないんだ。売りに出そうにも、手放せなくてね」
美沙は小腹を感じて、カップを手に取り「いただきます」と言い、息を数回吹きかけてココアを飲んだ。
ココアが口に入った瞬間に、美沙はさらに思い出した。この味は自分が大好きだったミラバのキャラメルココアの味そのものだと。
「これ、、、ミラバの、、、」
「そう。発売中止して飲めなくなったから、いつも飲みたい飲みたいって」
そうだった。発売が止まってから、真山が試行錯誤して味を再現してくれた場面を思い出した。味が再現できるまで、クレヨンで画用紙にキャラメルとココアの量を書いて記録を書くのが美沙の役割であった。2口目、3口目、懐かしい美味しさにホッとしていく。
「知ってたんですね。私のこと」
美沙はカップを手に持ったまま聞いた。
「うん。偶然だった。いつか本当のことを言おうと思っていたけど、怖くて言えなくて」
真山が流暢に話す違和感は消えていた。真山の中で呪縛が解かれたように、表情は朗らかで、そしてなによりも嬉しそうであった。
しかし、反面して美沙の表情はにがくなっていく。湧き上がる何か。怒りでも喜びでもない、何か。巨大な空白を見つけてしまったのだ。そしてその空白から黒い闇が浮かび上がる。離婚してから、どれだけ大変だったか。
「今さら何よ」
湧き上がるのは母の顔、芽衣の顔、そして四歳の自分だ。どれだけ大変だったか。母が睡眠時間と自分の人生を削って、四苦八苦働いてきたか。孤独でどれだけ泣くのを我慢してきたか。美沙はマグカップを机に置いた。
「急に現れて、急に私の中に入ってきて、今さら、何で、会いに来たのよ!」
自分にこんな声が出せるなんて、美沙は立ち上がって怒鳴り声を出していた。睨みつけたくないのに、怒りたくないのに、身体は天邪鬼に動いてしまう。
真山は何も言い返せなかった。確かに今さら現れて、こうなってしまうことも考えていた。
美沙が立ち上がって収拾がつかなくなったとき、インターホンが鳴った。真山は美沙に対して気まずそうに立ち上がって玄関に向かった。玄関を開けると、沙絵が立っていた。そして、真山を睨見つけ、避けるように強引に家の中に入る。「美沙!」と大きな声を出し、沙絵がリビングの中に入った。制服姿の美沙を見つけて、すぐに腕を掴み、カバンを拾い上げるとすぐに家から出ていこうとした。
真山は呼び止めることもできない。美沙は連れ出される勢いの中で、振り返り真山を見た。こんな時に名前を呼んでほしい。さっき怒ってしまったことを心から後悔した。
家の前に田渕の車が停まっていた。車に無理矢理乗せられ、車はすぐに走り出した。美沙は車の窓から家を見る間も無かった。怒り心頭の沙絵。そして無言で車を走らせる田渕。無言のまま車は進み続けた。沙絵につかまれた腕が痛む。
家について沙絵はキレまくる。慌ただしさに芽衣も起きてきた。なだめる田渕にも「うるさい」と、ヒステリックを起こしていた。
美沙はしばらくアルバイトを休むことになった。就職の話も沙絵の強引さで、取り消しになった。そして芽衣にも事実が告げられた。あの日、姉のバイト先でバーガーをくれた人が父親だと。
翌週の月曜日、美沙は空虚な人形だった。化粧もせず、制服もよれたまま。結衣が朝一に会ったタイミングで音信不通を問うと、美沙は結衣に抱きついて泣いてしまった。初めて見る親友の涙。授業の出席など、どうでもよくなった。
そして、呂律も回っていない泣き声混じりの声で衝撃の事実を知る。
「マジかよ」と、結衣はそれしか言えなかった。
アドバイスも何も出てこない。美沙が抱えてしまったものが大きすぎた。結衣には自分のこととして考えれる境遇であった。自分の本当の父親の顔を知らない。写真も何もかも、母親が捨てていた。美沙も同じだった。父親の写真だけがいくら探しても出てこない。
父親のことを聞いたときに、母親が見せた顔が忘れられない。4歳でも分かったのだ。聞いてはいけない。最初から、居なかったものとするしかなかった。隣には小さな妹がいる。妹が父親に会いたいと泣く度に、必死にあやして母親に聞かれないようにする。母がまたあの顔をする。それを繰り返すうちに、適応していったのだ。最初から私たち家族は三人だったんだと。運動会、授業参観、父の日、シャットダウンを繰り返すうちに、完全に適応できるようになった。
結衣が最後に泣いたのは、美沙と同じタイミング。美沙が壊れてしまう。結衣はその日ずっと美沙に付き添った。あと数日で冬休みが始まる。そして学校が終わって、校門を出たところに重要人物が待っていた。
「美沙ちゃん」と、車の横で前橋が手を降っていた。前橋と真山の関係、そして事のすべてを美沙は知らなければなかなかった。




