帰路
真山はその翌週の金曜日、自分の正体を告げようとしてから度重なる妨害は、神の意思なのではないかと思っていた。ミラクルバーガーの二階で見知らぬ女の子と二人で話をしている。結衣と名乗る美沙の友人は、初対面なのにガンガン話を進める。気が強そうなその姿勢に、半ば日和っていた。
美沙がアルバイトを終えて、手土産を2つ受け取ってしまったのも、この結衣のパワープレイの影響が大きい。おまけに二人を車で送ることにもなってしまった。真山は女子高生2人の会話を聞きながら、ハンドルを丁寧に扱って、車を走らせる。
「真山さん」という単語が出たときは、先に自分の正体がバレたのではないかと思い、冷静さを一瞬失った。そもそもバレていたら、こんな事態にはなっていないし、何よりも悪魔が出しゃばってくるに違いなかった。
それとともに真山美沙という名前が、すでに美沙の中から完全に消えていることを知り、自分の存在も同じく無に還っているのではと、ショックを隠せなかった。二人を送り届けて、真山は車で葉奈の家に帰った。部屋に入ると、葉奈は「どうだった!?」と、すぐに聞いてきたが、タイミングが無かったことを伝えると、意味深な顔を見せた。
2つの紙袋、一つはお茶菓子の詰め合わせ。もう一つを開けると、そこには紫のセーターが入っていた。真山は遠い昔のことを思い出す。誕生日にもらった青いセーター。着込んで傷んできていた大切な宝物。新しく宝物がもう一つ増えた。
「来週、これ着ていったらいいじゃん。絶対似合うよ」
葉奈がセーターを広げて、値札だけ取られていた残りのタグをハサミで切る。いつも着ていた青いセーターの横に、ハンガーで吊るす。
「伝えなきゃいけないのに、今のこの状態も壊したくない?」
葉奈の直球な言葉に、真山は即答で返事する。
「いや、逆だよ。早く伝えてあげないといけない」
美沙の自分をみる目が耐え難くなっていた。父親として見られたいエゴと、誤解をさせて騙し続ける今の状況は、美沙の日常には悪影響だ。
次の週、真山は月曜日から紫のセーターをカッターシャツの上に着て仕事に励んだ。ずっと美沙がそばに居てくれるようで、仕事にも身が入る。
金曜日、真山はノープランでミラクルバーガーに向かった。いつものように接客をしてくる美沙に、仕事終わりに話がしたいことも、きちんと伝えることができた。俺の美沙。俺だけの美沙。驚くだろうが、きっと喜んでくれる。真山は早く伝えたくてウズウズしていた。
美沙のバイト終わり、車で向かうのは自分たちにとって大切なはじまりの街。二人でよく歩いた保育園からの帰り道。よく行ったスーパーの前。転んで手に擦り傷を作った神社の前。そして車を止めた場所は家から一番近かった数え切れないほど遊んだ公園。
美沙は初めて訪れたと言いながらも、いつも真っ先に他の子が遊んでいない時に駆け寄ったブランコに乗る。後ろから何度押してあげたことか。
そして13年越しに叶った約束だった。最後に交わした約束は、パパと公園に行く。真山はその約束を忘れたことは一度もなかった。
美沙はブランコから降り、白い吐息を吐きながら、学校の試験の成績が良かったことを嬉しそうに話す。親子の会話だったら、もっともっとスーパーボールのように弾んでいくであろう。
笑顔の美沙がかわいくて愛おしくて抱きしめたかった。そして美沙もそれを望んでいるように見え、勝手に手が伸びてしまった。美沙の冷たくなった頭にそっと手を乗せた。あぁ、ずっと触れたかった彼女の一部。褒められることが大好きだった美沙。芽衣がお気に入りのおもちゃを壊した時も、お姉ちゃんとして怒るのを我慢したとき。父の日に謎の絵をくれたとき。パパ大好きだよ、と毎日言ってくれたとき。ずっとこうして頭を撫でていた日々がてのひらから思い出される。
思い出したのは自分だけではなかった。すっと美沙の閉じられた瞼から頬に流れた涙。真山は手を離して、痛感した。
自分だけが舞い上がっていた。空白の13年は自分にとっては生き地獄であった。しかし、こんなか弱い美沙が一気にそれを背負う軋轢を考えていなかった。
こんなに素敵な大人になった美沙が、四歳だったとは言え父親の顔を忘れ去っていたわけが無い。封印していたのだ。それを今、紐解いてしまった。
前もって伝えていた前橋が駆けつけても、美沙はずっと泣き続けた。真山も堪えきれずに泣いてしまった。泣きつかれた美沙を抱きかかえて車に乗せる。13年ぶりに両腕で感じた重さ。それは美沙が封印してきた涙が一気にあふれ出たせいか、とても軽かった。
真山は美沙の家に送ろうか悩んだが、すぐ近くの家に彼女を連れて行った。寝ながらも涙は止まっておらず、寝室のベッドにおんぶで何とか横にさせる。部屋の暖房をつけて、乱れたスカートを直し毛布と布団をかぶせる。泣きすする美沙の寝顔を見つめながら、沙絵に電話をかける。時間はすでに深夜の0時。電話は繋がらなかったので、ショートメールで美沙がここにいることを伝えた。
部屋の電気を消して真山はリビングのソファに腰をおろした。あんなに泣いてしまうなんて、やはり美沙は自分のことを忘れていたわけではなかったのか。真山はソファの背もたれに身を預けて、眠りに落ちた。
翌朝、美沙が起きるよりも早くに真山は目が覚めた。まだ外も暗くて、部屋の窓に結露ができている。真山はコーヒーを淹れて美沙が起きるのを待った。
程なくしてリビングのドアが開いて美沙が目をパンパンに腫らして部屋に入ってきた。部屋を見渡す美沙。倍以上の背丈になった今と昔の視線の違い。美沙はいつも自分が座っていた定位置のイスに座った。その光景がより鮮明に昔をなぞらえさせる。真山は湯気がたつキャラメルココアをテーブルの美沙の前に置く。
ここから再出発が始まる。きっと自分たちなら、もう一度やり直せる。真山のバイアスは間違った方向に傾いていた。
「今さら何よ」
ずっとニコニコしていた美沙が初めて見せた激昂。母親譲りの爆発性の高い怒の感情表現。真山は何も言い返せなかった。真山の知らない三人の生活。その辛さに、自分の孤独を一気に美沙に背負わせてしまったがゆえの反動。
沙絵がやって来て美沙を連れ帰るときも、真山は何もできなかった。自分は美沙の人生に表れるべきでは無かった。二度と会わないことが、一番の選択だったのか。
一人残された真山は13年前の虚無を再び味わうことになった。何もかも終わりだ。こんなことなら、ずっと常連客のままが良かった。
玄関の前の廊下で真山は叫び崩れた。
この3年間までも失ってしまった。再び失った喪失感は、真山の生きる希望を完全に消去してしまった。