ゆびきり
ミラクルバーガーに行くまでに、真山は寄り道の連続だった。緊張を和らげようと、本屋に立ち寄ったり、コンビニに何も買わないのに入ったり。口臭が気になり、エチケットグッズを買いにコンビニに戻ったり。21時までの勤務時間だと、前橋から聞いていた。現在19時過ぎ。真山は店の近くで右往左往していた。
店の看板が見えているが、これ以上近付くことができない。足がすくんでしまっていた。刻々と時間だけが過ぎていく。何もしないままさらに1時間経過してしまった。
この空白の11年間の計り知れない重さ。あの子たちの日常は変わらない。顔を一目見たらすぐに立ち去ればいい。真山は重い一歩を踏み出した。今日のための新品の革靴と新品のスーツ。装備としては物足りない。
店の外観が目に入る。いよいよだ。真山は入り口のドアのすぐ横の位置についた。後ろを向いて店内はまだ見えていない。顔の少し向きを変え横目で店の中の様子を見るが、カウンターはギリギリ見えない。深呼吸をする余裕も無かった。お客さんが店を出入りしていく横で、真山は次にお客さんが入った時に中を見てみようと心に決めるが行動に移せない。
今日は諦めて帰ろうかと思ったその時、ドアが空いて客が数人出てきた。そしてドアの隙間から天使の声が聞こえた。フッと振り返り、窓の向こうには女の子が頭を下げていた。ミラクルバーガーの制服もまだ着慣れていない、明らかな初勤務だとわかる。
頭をあげた女の子は、隣にいる店員から指でオッケーサインを貰い、喜んで笑顔になる。
この顔、このえくぼ、白い肌に大きなパッチリの二重、年相応の若い肌艶。間違いない。俺の娘の美沙だ。やっと、やっと顔が見れた。一瞬であったが、その姿形は間違いようがなかった。真山は走り出して人目のない駐車場で、柱に手をついて俯いた。ポタポタ流れ落ちる涙、嬉しさで溢れた隠していた父性。
美沙があんな大きくなっていたなんて。真山は柱を背に預けて、新品のスーツで地べたに座り込んだ。嗚咽が出るほど泣いてしまう。美沙。小さくて走り回っていたあの子が、高校一年生でアルバイトできるほどに立派になっている。
前橋が真山を探して駐車場にやってきた。そこにはうずくまって泣き苦しむ友人がいた。真山の肩に手を添える。
「あんなに、、、大きくなってて、、、」
「おお。お前の娘は立派に育って、とっても良い子だ。ずっとここで会ったらいいじゃないか」
真山が泣き止むと、前橋は考えていた作戦を考えた。とにかく、接客で一度面と向かって会う必要がある。真山がすぐに美沙と接することは難しいと分かっていた前橋は、あとはタイミングだけ任せることにした。
翌々日の美沙の二日目の出勤日の水曜日、真山は仕事を急いで終えてミラクルバーガーにやってきた。物怖じせずに店の近くまで来れたものの、窓から中をみるところで身体が止まる。なんとか身を隠しながら中を覗くと、レジのカウンターに前橋と美沙が見えた。一昨日は一瞬であったが、今日はしっかりと目に焼きつけることができた。
店の中に入ろうにも、頭が真っ白になっており、醜態を美沙に見せてしまう。手のひらの汗が拭いても拭いても止まらない。こんな人が父親だと思われたくないと、自らハードルを上げに上げてしまう。ドアの銀色の取っ手にあと少しで手が届くが、タイミング悪く客が出て来た。
真山は窓から美沙を眺め、店をあとにした。今日だけで分かったことがたくさんあった。美沙は常にニコニコしており、緊張が顔に出ないのか肝が据わっているのか、接客が初めてとは思えないほど堂々としていた。二回目の出勤でほぼ、カウンターの注文受付はできていた。見ていて心配になる場面もあったが、横についているスタッフや前橋が手厚くフォローをしてくれる。
今日は切り上げることにして、真山は葉奈の家に帰った。薄々勘付いていた葉奈に、真山は全て打ち明けた。そして、金曜日に美沙とあいまみえるつもりだと伝えた。葉奈は頭に不安が過ったが、真山の覚悟を決めた顔を見て素直に喜んでみた。沙絵の旧姓であった福本という名字であることから、おそらく再婚はしていないと推察されるが、一度美沙と謎の男の仲睦まじい親子のような関係をみている分、父親という真山だけの居場所が既に埋まってしまっている可能性がある。
葉奈はそのことを真山に伝えれていなかった。改めて今伝えることもできなかった。真山越しとはいえ、子供と接せれる希望の光があまりにも眩しくうつっていた。
決戦の金曜日、真山は仕事において、潜在能力をすべて解放して業務をこなす。美沙に会ってもし自分のことを覚えていたら、空白の親子の時間を取り戻せるかもしれない。失った時間が今日全て戻ってくるかもしれない期待。頭の中で次々に空想が働き、良いことばかり考えていた。そして仕事が終わり、20時ちょうどに店に到着した。身だしなみを必要以上に整えて、真山はネクタイを締め直してドアを開く。
口の中の渇きは、砂よりも渇いていた。
地球の自転が変わったのか、スローモーションに見える。カウンターには1人で接客を任されて、ドキドキワクワクしている美沙がいた。
「いらっしゃいませ」と、美沙は習ったばかりの会釈をする。そしてゆっくりと頭を上げ、ニコッと微笑みを作る。二人の目が合った。目と目が合うのは最後に会った瞬間以来。真山は無意識に頭を下げ返した。前橋が美沙の斜め後ろで、真山に頷いた。真山は歩を進めてカウンターに近づく。こんな近くに、すぐそこに愛すべき娘が立っている。
「店内でお召し上がりですか?」
ワーワーキャーキャー騒いでいた声も、すっかり変わっていた。落ち着いた声色に真山は返答を失い、ただただ美沙から目が離せなかった。
返事が返ってこないことに、美沙はすこし戸惑った。もう一度尋ねようとしたが、サッと前橋が間に入る。
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます。この子新人ちゃんなんです」
前橋はこうなることを想定していた。真山が固まることも、美沙がどうしていいかわからなくなることも考えて、そのときは間に自分が入って、真山に極力話さなくてもいいように取り持つように動く。
「福本さん、この方常連さんなの。いつもこれのセットのブラックコーヒーのアイス頼まれるの」
美沙は教わりの姿勢で、前橋の画面の操作を見る。唇を内側にすぼめて頷き、しっかり覚えようと復唱して注文を通す。
前橋は美沙に耳打ちで何かを言う。真山は財布を取り出して、震えそうな指で財布のファスナーを開く。
会計をしているときも、美沙から目が離せなかった。小銭を数えて、真山にレシートと小銭を渡すときに指が少し触れ合った。この指でどれだけ一緒に遊んだか。数え切れないほどの指切りをしてきたか。
「ポテトがお時間かかりますので、お席までお持ちいたします」
美沙は番号の書いた黄色い立て札とバーガーとコーヒーをトレーに乗せて真山に渡した。真山はそれを手に持って二階へ向かった。ドキドキしていたことを今さら実感する。前橋が耳打ちで行ったのはポテトの件だったのか。席についても食欲が沸かず、カラカラに乾いた喉にコーヒーを流し込む。
ため息とともに達成感がこみ上げてきた。美沙と目を合わせることができた。同時に自分のことに気付かなかったことが悔やまれたが、今はそんなことよりも数分の先ほどの時間がまだまだ味わい深かった。
コーヒーを飲み終わると、二階席に美沙がポテトを片手にやってきた。キョロキョロを繰り返して、真山を見つけると、スタスタと近寄ってきた。テッテテッテと歩いていた幼い姿が上書きされる。
「お待たせいたしました。ごゆっくりお召し上がりください」
立て札とポテトを交換し、美沙は一礼して真山から離れていった。行って欲しくない。離れて欲しくない。真山の左手はスッと美沙の後ろ姿に伸びたが、空気だけを握りしめて手を下げた。
こうして真山の金曜日の夜のイベントができた。毎週金曜日の20時半、毎週毎週足繁く通った。仕事が絶対に入らないように、全力で1週間を走り切る。雨の日も、体調が悪い日も必ず真山はミラクルバーガーに行った。
美沙から「今日は暑かったですね」、「寒かったですね」、「お仕事お疲れ様です」の一声が嬉しくて、正体を隠したまま、1年2年と時間が経過していった。