青いセーター
2人の子供と妻を幸せにする。真山は馬車馬のように働いた。年収を伸ばすには、成果を上げていくしかなかった。家事と育児はほぼ沙絵がワンオペで回す事が増えてきた。仕事の休みの日は子供と遊び、積極的に出掛けるが、家族と過ごす時間は以前と比べて減ってきていた。
平日は仕事が遅くまでなることがあり、帰宅すると三人は既に寝ている。子どもたちの寝顔を見て、早く次の休みの日に遊びに出かけたいと、さらに仕事に精を出す。真山のお小遣いは月に二万円。そこから昼食代や交際費を捻出していく。真山は空腹をおにぎり1個で済ませるのことがほとんどであった。毎週日曜日の朝、真山と美沙はミラクルバーガーに行って朝ごはんを食べるのか恒例であった。芽衣と沙絵と4人で行くこともあったが、まだ1歳になったばかりでぐずってしまう芽衣は来る頻度は少なくなっていた。
真山と美沙はミラクルバーガーに行って、帰りに公園で少し遊んでから昼食頃に帰る。雨の日に泥だらけになって帰って、沙絵に2人揃って怒られる事もあった。
「雨の日は公園じゃなくて、ゲームセンターとかに行こうか」と、シャワーを浴びる2人は約束を増やしていく。
沙絵はバケツで洋服の泥をすすぎながら、なぜ自分だけが汚れ仕事をしているのか、気持ちがドシンと沈んでいく。そしてリビングの方からは芽衣の泣き声。そして風呂から出てきた2人は、ろくに身体をタオルで拭かぬまま床を濡らしながら走り去る。
予防接種の予定や、芽衣の保育園の入園希望が通るか分からない重圧。沙絵は芽衣を出産してから、余裕のない日々を生活していた。周囲からは幸せな家庭だと、褒められるが、沙絵からすれば他所のほうが輝いて見えた。隣の芝は青く見える。理想の旦那さんだと、真山が褒められるたびに、イラッと癇癪玉がこのバケツのように溜まっていく。
自分がどんなに頑張っても、夕食も残して2人は真山の仕事の帰りを待っている。パパは遅くなると言っても、二人は寝ようとしない。明日も朝が早いので、一刻も早く寝たいが、言うことを聞かない子どもたちにイライラが募る。
真山が帰ってくると、芽衣は先に寝落ちしていても美沙の大きな「パパおかえりー!」に、反応して起きてしまう。そして睡眠循環が変わる。どこのママも同じ経験を積んでいると分かっていても、自分だけが苦難の谷に落ちていく感覚は拭えない。
真山はそんな沙絵の気持ちを知る由もなく、駆け寄る我が子を抱きしめる。
真山は急いで風呂に入り、乾いていない髪の毛のまま子どもたちに就寝前のおしゃべりを楽しむ。
「芽依ちゃん寝ちゃったね」
真山は芽依の頬を親指で円を描くように撫でる。
それを見た美沙は欠伸をして、芽依に毛布をしっかりと被せてあげた。
「パパ、こっちに来て」
美沙の眠気混じりの声の誘いに、真山は起き上がり美沙の隣に寝転んだ。
「パパ、美沙まだ寝たくないよ」
「寝ないとダメだよ。大きくなれないよ」
美沙の鼻頭を指でつつく。二へっとハニカムと美沙の頬にエクボができていた。
「美沙は今日何食べたの?」
「今日はね、ママとクレープ食べたよ」
「クレープかぁ、、、最近食べてないなぁ」
「今度パパも一緒に食べようね」
美沙は真山の手を握り、虚ろな眼で必死に眠気戦う。
「みんなでクレープ食べに行こう。美沙は一番大きなクレープ」
「楽しみ、、、」
「この前みたいな大雨の日は家でクレープ作ろう」
「雨、、、美沙、雨好きだよ。パパと雨」
雨の日も真山と一緒だと、心地が良かった。その心地よさをいまは全快で感じている。そして眠気に心地良さが加わり、美沙はそのまま眠りについた。この真山と過ごす眠気のピークの瞬間、美沙は幸せいっぱいであった。
子供たちが寝静まり、真山はソファーでぐったりしている沙絵の背後からそっと肩に手を伸ばし、揉みほぐす。真山のこの優しさも、今は重たく感じてしまう。思えば夫と最後にキスをしたのはいつのことだろうか。夫婦生活は完全に一時停止していた。このままではいけないし、前のような雰囲気に戻りたい。沙絵は真山の手をギュッと掴む。2人は見つめ合い、久しぶりにソファーで事に及んだ。
終わってから、真山は満足そうに、沙絵の身体を指でなぞる。沙絵は真反対の感情を抱いていた。沙絵の頭に離婚の文字が初めて過った。
沙絵は脳裏に浮かんではいけない言葉を全力で消した。黒く跡が残る脳裏に、今後の未来のことを考えさせる。
罪悪感を持った沙絵は、真山の誕生日が近いことを思い出した。同時に忘れてしまったていたことも罪悪感になる。沙絵はケーキを子供たちと相談して決めて、プレゼントを選びに3人でショッピングモールに出かけた。
パパのプレゼントを選ぶ任務に一段と燃えている美沙。パパが好きなおもちゃは恐竜や、仮面ライダーなのか、真剣に考える。沙絵はメンズの服屋に入ると、何か良いものはないかと店を回る。ベビーカーの芽衣は服の袖に手を伸ばすが全く届かないことが面白くない。美沙は服をプレゼントする意図がわからないながらも、ママの選ぶ仕事に協力したいので、一緒について回る。
沙絵はセーターのコーナーで立ち止まった。色の種類が豊富で、真山に似合う色は間違いなく黒であった。しかし、美沙はパパが好きな色は青だと言い、青いセーターが選ばれることになったた。原色系のセーターを着るのは好まないであろうが、美沙が選んだと言えば好んでいるであろう。沙絵はセーターを定員にプレゼント用に包装してもらい、真山に渡す日まで内緒にするように美沙と約束した。
しかしその日の夜に、美沙は先走ってしまい、せっかく隠して置いた場所から、帰ってきたばかりの真山にプレゼントを渡してしまった。
驚いた真山は、娘から貰う初めてのプレゼントに喜び、一生大事にすると心に決めた。次の日からまだセーターを着るには時期的に早かったが、真山はずっとそのセーターを着続けた。
沙絵はこれで元通りになる。心から愛した人はこの人だ。子供たちに本を読み聞かせる真山を見つめ、改めて頑張っていこうと、ガッツを入れた。
美沙が4歳になり、芽衣も保育園に通い始めたタイミングで、沙絵も職場復帰することになった。生活苦ではないが、ゆとりがそんなにあるわけではなかった。真山もそのタイミングで昇進が掛かった大事な事業を任されることになった。認可が下りたばかりの新薬を担当することになったのだ。接待で大手ドラッグストアや医師会のお偉いさん方との会食が連日続いた。
酒を飲んで帰ってくる真山に、沙絵は軽蔑の気持ちを隠せなかった。キャバクラやラウンジの女性たちの名刺がポケットに増えていく。そして酔って高揚している真山は、酒臭さをまき散らしながら絡んでくる。沙絵の脳裏に隠していた文字が再び湧き上がる。
「2人はどう? 今日はどんな様子だった?」
私のことは聞いてくれないのか。真山は子供のことしか聞いてこない。沙絵は「いつもどおりだよ」と、言い残し寝室に逃げ去った。
真山はネクタイを緩めて、ひとりぼっちのリビングを見渡した。しばらく子供たちと触れ合う時間が作れていない。早くこのプロジェクトが終われば、平常通りに戻れる。真山はテーブルに置かれた画用紙を拾い上げる。そこには子どもたちが描いた家族の絵が描かれていた。「パパ、ママ、大好きだよ」の文字を見て、真山は酔いを冷ました。
崩落の音は聞こえてはいなかったが、すでに足場は崩れ消えていた。