暗闇
美沙のマンションの前で前橋は車を止めた。結衣と美沙は車から降りる。前橋も車から降りて、美沙に1枚のメモを渡した。メモには住所が書かれている。
「店長、シフト本当にごめんなさい」
「大丈夫。美沙ちゃんのお母さん、店に来て大変だったからね。また落ち着いたら連絡ちょうだいよ」
美沙は深く頭を下げた。結衣はジッとできないので、そのやりとりを歩き回りながら見ている。前橋は車に乗り込み、その場を去った。本当は最後まで美沙に付き添いたいが、店に戻らないといけなかった。
「さて、行きますか」
結衣は美沙の手からメモをパッと奪うと、住所をスマホで調べ始めた。そして悪巧みな顔で美沙の背中を押す。
「ほら、着替えておいで、補導されたくないからね」
頷いた美沙は着替えに全力で部屋まで向かった。エレベーターは上の階で止まっている。その時間も待てないので、階段を駆け上がる。時刻はまだ16時半。車内で聞いた前橋の話。それを聞いてからは、美沙はあの日の朝に真山に放った言葉を後悔していた。誰の人生が一番壊れたか、自分たち家族三人が可哀想だと悲観していたが、それは今の成熟した美沙にはハッキリと分かった。家には誰も居らず、自室で制服を脱ぎ散らかし、私服に着替えて結衣のもとに戻る。
息を切らして下に着き、住所の場所へと結衣と向かった。その住所が示す先は真山の家に違いなかった。
「会ってどうするの?」と、問われたが、美沙にも明確な解答は無かった。とにかく謝って、そして一つ叶えたい事があった。真山も求めているに違いない。根拠はないが、細胞単位で模範解答は出ていた。浅くて深い矛盾した自信は、大きな空白を埋めてはくれない。
電車を二回乗り換えて、二人が着いたのは新築の綺麗な高層マンションだった。家賃相場や分譲価格などは分からない女子高生二人でも、ここに住めるのは高収入しかあり得ないことがわかる。エントランスのインターホンの前に立ち止まる2人。
「704号室、、、準備はいい?」
結衣は美沙の背中を後ろから支えた。
「うん、もちろんだよ」
美沙の指が部屋番号と呼び出しボタンを押す。インターホンが鳴り、少しして回線がつながった。意外にも出てきた声は、女性の声だった。「福本美沙です」と、美沙が口にするとエントランスの中に入る自動ドアが開いた。
中を進み、結衣はキョロキョロと入り口の物に目を配る。エントランスの広間には大理石の机を囲むようにソファーが置かれ、エレベーターを探すのに苦労するほど広かった。
エレベーターを見つけて二人は乗る。結衣は高級マンションに興味津々で、エレベーターに貼られた管理会社からの張り出しに目をやる。美沙は心を燃やして寡黙に待つ。七階に到着し、二人は廊下を進む。途中、方向を間違えて反対側に戻った。そして、メモに書かれていた部屋に到着。二人がインターホンを押すのをためらっていると、玄関のドアは突如開いた。
玄関のドアから現れたのは30代半ばくらいの女性であった。白く澄んだ肌に、整ったた顔立ち。そして気品さを醸し出すタイトなセーターと、細いウエストで履かれたロングスカート。ニコッと笑い女性は白い歯を見せる。
「こんちには。あの人は居ないけど、ほらどうぞ上がって」
二人は互いに顔を見合わせる。そして慣れない会釈をして部屋の中に入った。入ってすぐの玄関の中に花の匂いが漂う。玄関の棚に手入れされた生花が花瓶に刺さっている。女性は客人用スリッパを四足並べた。
「寒かったでしょ。ほら、入って入って」
この女性は真山の今の妻なのか。美沙はスリッパに足を入れる。柔らかいは着心地と暖かさ。我が家のスリッパとは、比べものにならない良品だとわかる。
二人は広い廊下を進み、リビングに入る。リビングは3区画に分かれており、ダイニングテーブルもあれば、大きな壁掛けテレビの前には、ガラステーブルを囲むように三人掛けソファーが3つL字に並んでいた。
「お邪魔します」と、今更美沙は声を出す。女性はソファーに二人を座らせ、コースターを並べた上に湯飲みを置いた。結衣は「ありがとうございます」と、言いすぐに湯飲みを手に取った。熱い緑茶は火傷をしないちょうどの温かさだった。
「ごめんなさいね。来てもらったのに肝心の人がいなくて」
女性は2人の対角線に座り、長い脚は少し斜めに位置を置く。
「あなたが美沙ちゃんね。そしてお友達。私は川本
葉奈、真山の一応内縁の妻です」
葉奈はガラステーブルの下から、お菓子が入った木製の器を出してテーブルに置いた。内縁の意味がよく分かっていない美沙に「事実婚ってやつよ」と、結衣が耳打ちで教える。
「結婚されてないんですか?」
美沙は思ったことを率直に言ってしまった。
「私もあの人もそのほうがいいからね。前橋さんから私のことは聞いてない?」
葉奈の質問に2人は首を振る。先ほどまでの車の話に全く登場していなかったからだ。「あははー、言うの忘れてたよー」と、誤魔化す前橋の顔が浮かぶ。
「会えたんだね。ま、正確には会ってたけど、父親として会えたんだね。あの人、何考えてるかわかんないでしょ?」
二人は小刻みに首を縦に振る。美沙はようやくここでお茶を飲んだ。苦味はない緑茶は、冷えた喉をそっと温めてくれる。
葉奈の話では、真山はしばらく帰ってこないとのことだった。一人の時間が必要だと、葉奈は分かっていた。理解力のある美人の内縁の妻に、美沙は少し嫉妬していた。その隣で葉奈の落ちついた大人の魅力に好意的な結衣は、憧れの眼でその言葉を聞く。
葉奈は現在高級ラウンジのママとして、店を経営していた。真山と葉奈が初めてであったのは、14年前だった。仕事の接待でラウンジを訪れた一団の中に真山がいた。まだ仕事を始めたばかりのことだったが、真山たちの接客を鮮明に覚えていた。何より1番その場を盛り上げていたのは真山だった。上司や接待先だけでなく、接客についた女の子たちを笑わそうと、モノマネを披露したり、話をオーバーにリアクションしたり、今とは想像のつかない真山であった。葉奈は一生懸命に頑張る真山を見て、凄い人だなと感心した。
そして1年ほど経ったあと、真山とその同僚が店にやってきた。そして1年での変わりように驚いていた。寡黙で何も話さない目の前の人物と、1年前の人物は全くの別人であった。生気が抜けたその瞳には、暗闇が漂う。同僚に励まされる真山。この人は離婚したんだと、すぐに悟った。そしてそれから、度々真山は店に来るようになった。
一人で来るときもあれば、同僚と来る時も会ったが、寡黙で面白くない時間を過ごすだけであった。人生の迷子になっていると、葉奈は感じ取っていた。金使いは荒い時もあったり、一時間のセットで帰る時もあったり、真山は何を考えているのかがわからなかった。下心があれば扱いやすいが、テーブルについても、天気の話や世間話をこちら側が気を遣って話すだけで、安いガールズバーにでも行ったほうがいいのではと、心配になるほどであった。
そして回数を重ねるごとに、酔いつぶれることも増えていった。酔っても意識が白濁するだけで、大人しいので、店側からも悪い客ではなかったが、とある晩に真山は酔いつぶれて閉店後も店のソファーで横になっていた。葉奈は真山にミネラルウオーターとおしぼりを渡す。葉奈は真山が寝ていると思ったが、その顔を見て驚いた。泣いていたのだ。そして歯を食いしばって「美沙、、、芽衣、、、」と口にする。その女の子の名前が娘の名前であることはすぐに察した。葉奈は真山の肩に触れた。真山の瞳から涙が娘への気持ちが塞いでいた滝のようにあふれて出てくる。
翌日、真山は店に来て謝罪をした。迷惑をかけたので、もう来ないとだけ告げ店から出ていった。葉奈は放っておけなかった。店から追い掛けて、本当の連絡先を伝えた。それから葉奈から一方的に誘う形で、外でお茶をしたりするようになっていった。出掛けたり、旅行に行ったりする中でも真山の話は娘の話ばかりであった。
「あとは知ってると思うけど、あの人なんでもできるけど、不器用なの。早く言わなきゃ早く言わなきゃって、ずっと悩んでた。でもね、木曜日の夜なんて、凄く嬉しそうなの。靴を磨いて、私に白髪が見えてないかなんて聞いてきて、修学旅行前の子供みたいに」
葉奈は美沙の顔を潤んだ瞳で優しく見つめた。
「あの人を暗闇から助けられるのは、血のつながった家族だけよ。真山のこと、助けてあげてほしい」
葉奈の目から涙がこぼれた。この人はなんていい人なんだ。美沙は感銘して泣きながらも「はいっ」と大きく返事した。葉奈は鞄の中からキーケースを取り出して、カチッと一本の鍵を美沙に手渡した。
美沙はそれを受け取る。自分がすべきことは一つだけだった。
「こんなかわいい人とかわいい娘がいるなんて、マヤマヤは幸せものだなー」
「なにそのマヤマヤって、面白い。私も使っちゃおう」
葉奈とそれから少し話し、二人はスッキリした気持ちでマンションを後にした。行き先はわからないが、今の自分なら見つけられる。人と人との繋がりは温かく、希望を繋いでいた。
「ハナハナ良い人だったなぁ。美人でスタイル良くて金持ちで」
結衣は葉奈から貰った店の名刺をヒラヒラさせる。
「うん。結衣、ここからは私一人でいくね」
自信に満ちた日常通りの美沙の顔を見て、結衣は「行って来い」と背中を押した。
時刻はまだ18時。スマホには母からの着信の履歴ばかり。美沙はスマホの電源を切った。深く息を吸い、そして目を閉じて真山との記憶を辿る。
美沙は走り出した。
壊れた日常、違う。元に戻る日常、否。
新しくここから始まる日常、そこには真山が絶対に必要なのだ。
走り去る美沙を見送る結衣は、羨ましく感じていた。自分にも父親がいる。もしかしたら、今もどこかで自分のことを想い続けているかもしれない。悔やんで寂しくて、自分の名前と妹の名前を暗闇の中で呼んでいるのか。
「私も探してみるかな、、、なんつって」
結衣は歩き出した。
12月の東京の空は暗くて寒くて心まで冷える。
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