美沙の日常
はじめまして。
軽くて重い話が書きたくなりまして、
一人の女子高生の出来事を彼女寄りの三人称視点で書いています。
拙い文章ですが、よろしくお願いいたします。。。
彼女の日常は美しい。
普通の高校生3年生、美沙。明るく優しい今どきの女子高生。
何でも頼りになる強い母、ギャルに走りつつある高1の妹、理解のある親友の結衣。楽しいアルバイト先。楽しい学校生活。
順風満帆な美沙の日常だったが、人生が大きく揺るいでいく。
昔から、笑顔でいることが周囲を幸せにすること。彼女は常にニコニコ笑っていた。エクボが可愛いと会う人に言われ続け、鏡を見るときはエクボの確認も欠かさない。
もともと口角が上がっていたことも、常に笑っている印象の土台になっていたが、作り笑いではなく、満たされた日常と積み重ねてきた日常が、彼女をそうさせていた。彼女は身の回りのもの全てが好きであった。
学校の授業中の眠気、容赦なく降る雨、ココアの甘さも全てが自分の大切な一粒の幸せ。その幸せの蓄積で自分は生きている。彼女はそう無意識に信じていた。誰かの言葉に流されたりはしない。自分は自分だということをしっかりと持っていた。
福本美沙は17歳の高校3年生。都立高校に通う普通の女の子。YouTubeを観たり、SNSにオシャレをした日常を投稿するごくごくどこにでもいる若者。明るく優しく、敵を作らない、誰からも好かれる存在であった。人間としての完成形をすでに作り終えているのだろうか。
整った目鼻立ちで、笑うと両頬の下側にエクボができるチャーミングさ。左目の目尻の下にある泣きぼくろ。体格は小柄で、痩せた手足に馴染む白い肌。肩より少し伸びた長い黒髪がサラりと風になびくと、それに視線を奪われる男子は多数。欠点というものが見当たらない透明感。美沙自身も幼少から、可愛くて人形みたいだと褒められ続け、周囲から可愛がられたことを自覚していた。17歳で美沙は自身のことを客観視でき、周りの同世代と比べても少し成熟していた。
高校生といえば、学業よりも恋愛に身が入るところが、美沙が最後に男子と付き合ったのは中学1年生の時。キスの経験はあるが、清廉な身のままであった。恋愛に興味がないわけではないが、自分と年齢が変わらない相手とは恋愛に発展しなかった。見た目から好きになられることが多く、街なかで声をかけられることも日常茶飯事であった。
運動以外のことは何でもできるので、成績も常に上位である。勉強は嫌いでは無かった。成績が良いと、母親から褒められるという理由だけで、スムーズに進学校へと駒を進めていた。頭を撫でられることがこの上ない喜びで、母親や友達に「撫で撫でして」と甘えるのだが、テストのタイミングは成績が良いと母親に甘える口実として心置きなく使うことができた。
高校3年生に進級した際、アルバイト先のファーストフード店の社員から言われた「美沙ちゃんこのままうちの店で社員になっちゃいなよ」の一言で、美沙の人生進路はファーストフード店の社員になることに決まった。社員から無理強いされたわけでもなく、彼女自身の意思で決まったのである。
そして願書締め切りが近づく10月中頃、保護者懇談会ならぬ、担任とクラスメイト全員が参加するという異例の美沙の進路相談が今、教室で開かれていた。
生徒会長を務める男子はクラスの意見を総括して言った。
「やっぱり、福本さんはS大学とかに行くべきだと思います」
クラスメイトの大半が頷く。その中に苦笑いを浮かべ、気まずそうな美沙がいた。就職を選んだだけで、大ごとになってしまった。
「この間の中間試験も学年10位、もちろん就職希望がダメとかじゃないんだけど、やっぱり勿体ないよ」
他の生徒も意見が続く。「塾とかカテキョつけずにこの成績なら、もったいないよね」「美沙ちゃんのキャンパスライフ姿が見たいよ」「でもミラクルバーガー就職って、よっぽどミラバが好きなのかな」様々な意見が続くが、担任が生徒たちの声がひと盛り下がりしたところで間に入る。
「福本さんは先生も聞いたんだけど、堅い意志があって大学受験はせずに、就職することを決めたんだ。親御さんも本人の意思を尊重するって。だから皆の気持ちもよく分かる」
担任の中谷は35歳の男性教師。根っからの真面目というよりは、生徒寄りで時には一緒にふざけたり、信頼できる若い教師だ。美沙は三者面談の時を思い返していた。その時も中谷から進学を進められたが、キッパリと断っていた。奨学金のことも丁寧に説明してくれ、すべて承知したうえで美沙は決めていたのだ。
「美沙、自分で言ったら?」
斜め前の席に座る女生徒が振り返って美沙に聞く。1年生の時から同じクラスの山本結衣は、中谷以上に美沙のことをわかっている。そもそものこの進路相談自体、開く必要性の無さを一番訴えていたが、愛されキャラである美沙を心配するクラスメイトの圧に負けて、渋々首を縦に振っていた。
結衣に対して頷いた美沙は、ゆっくり立ち上がりクラスメイトに声を出す。
「みんな、ごめんね。進学はもともとする気が無かったんだ。私の家は母子家庭で、ママが頑張ってここまで育ててくれたから、、、」
透明感のある声が教室の気持ちを一つにまとめていく。胸元に優しく握られた右手、その所作にドキドキ胸を高鳴らせる男子生徒が複数。そして母子家庭というワードに、好き勝手他人が口を挟むことがいかに愚かなことかをクラスメイト各々が感じだった。
「私、とっても幸せ。こんな優しくしてくれるみんなと出会えて。本当にありがとう」
異論は出なかった。華のある笑みで進路相談会は幕を閉じた。美沙が就職を選択したことでクラスが心配するほど、彼女は愛されていた。
現に美沙がアルバイトで働くミラクルバーガーの支店は彼女のお陰で売上が増加した。彼女の「ご一緒にチョコレートアップルパイいかがですか?」の販売促進のための一言に老若男女の財布の紐は緩んでしまう。この一年間で告白された回数は20回。アルバイト中に連絡先を聞かれることは1日2回。高飛車な女ではないが、モテる半面に同性から妬みの声は聞こえてくる。
悪い噂が流れたところで、美沙の聖女オーラを前に噂は灰のようにポロポロと崩れ消え去る。男子生徒が作る彼女にしたいランキングは常に2位。1位ではない理由は「胸がそんなに大きくないから」という健全なものであった。
人見知りな生徒へも気兼ねなく話しかけ、授業態度もよく成績優秀。絵に描いたような優等生である。
「じゃぁ、、、残りは好きに騒がずに勉強しろよー」
中谷は教壇の真ん中からはけて、生徒たちへあとは任せて教室をあとにした。まさかの一人の生徒のための進路相談会が終わり、残りの時間は自習となる。受験が近いためか、真面目に勉学に勤しむ生徒が大半であった。
「美沙、今計算してたんだけど、明後日の給料日で
とうとう目標達成!」
勉強する気のない結衣は美沙の机にすぐに寄ってきた。
「お、ついにですか」と、ニンマリとした笑顔で美沙は机の中から1枚の紙を取り出した。自動車教習所の申込用紙だ。既にアルバイト代を貯め終わっていた美沙は、親友のお金が貯まるタイミングを待っていた。二人で一緒に教習所に通うことは約束しており、美沙の申込用紙の下側の未成年者用の保護者同意書の欄は、すでに親の署名捺印が終わっていた。
「早速、明日申し込み行っちゃいますか。ウェブで予約できるから、同じ時間でいけるかな?」
既に何回も開いたことのある自動車教習所のサイトを開く美沙。通いはじめは来年の2月からになるが、高校卒業までには仮免許までは問題なくとれるスケジュールだ。
「じゃあさ、今日私もバイトだから、バイト終わりに美沙の家泊まって明日の朝に行っちゃおうよ」
「いいねー。私21時までだけど、結衣は?」
「私は20時までだから、ミラバに迎えに行くよー。なんかホラー映画でも観てパァーッと1週間ねぎらっちゃおうよ!」
今日は金曜日。学生にとっても華金である。専門学校へ進路を進める結衣と、就職する美沙にとっては受験戦争は無縁であるので、この時期でも切羽詰まったこともない。美沙にワクワクが一つ増えた。そして今日は金曜日。週で1番楽しい日である。それは結衣と遊ぶことも含め、学校からの解放感もあるが、それだけではなかった。
学校が終わり、結衣と二人で駅まで歩いて向かう。いつも通り電車に乗り、家の最寄りを途中下車して各々のアルバイト先へ向かう。この道中も楽しい2人はずっと喋り、笑い、手を叩いて笑う。他校の男子は2人のことが気になってチラチラと見ている。美沙はそういった視線には気付かないが、結衣はだいたいの周りの男達の挙動を把握しており、純粋に気付かない親友が可愛くもあり心配であり仕方がなかった。
また後で、と二人は別れ、美沙はミラクルバーガーへと向かった。家と学校までは電車で5駅。その3駅目の真ん中にアルバイト先があった。家から近いミラクルバーガーは他にもあるが、美沙はなぜかこの店舗を選んだ。休みの土曜日に通う分には確かに面倒であったが、小さい時に家族で行っていた店舗で、馴染みがあったという理由だけでアルバイト先として選んでいた。
従業員専用入り口から入り、休憩室で制服に着替える。今日は金曜日。楽しい金曜日。鏡の前で、クシでといだ髪の毛をしっかりと結んで、頭に被るバイザーの中に綺麗に整え入れていく。高校1年生の6月からはじめたこのアルバイトも、早いもので2年半。社員、先輩、後輩とも仲が良く、最高に楽しい環境。社員登用することへの抵抗は全くない環境だったのだ。
キッチリと支度ができた美沙は出勤の5分前に店舗のカウンターへ向かった。スラッと自然に伸びた背筋、そしてサービス精神旺盛な口角が少し上がる印象の良い表情。カウンターに入り、勤務中だったスタッフに丁寧に挨拶をする。
「美沙ちゃん、今日もいっぱいアップルパイ売っちゃってちょうだいねぇ!」
厨房から胡麻をする手の動きをしながら、店長の前橋が出てきた。
「はい! 在庫切れで、店長が他店に頭を下げて走り回れるように頑張ります!」
「そこまで頑張らなくていいよぉ」
焦る前橋を見て美沙はフフフと笑みが溢れた。実際に先月の美沙の出勤日に、本当にアップルパイが完売してしまい、エリアマネージャーに在庫管理で厳重注意を受けた事があった。「ほどほどに、めっちゃ売っちゃってね」と、前橋は胡麻をする手の動きをしながら厨房に消えていった。
今日も頑張るぞ、と意気込んだ美沙はカウンターに立ち、入店してきた客にスマイル全開で接客を開始した。天性の接客術が今日も炸裂する。無心で自然と接客はしていて楽しい瞬間の連続であった。
夕食時になり、混雑する店内。美沙は丁寧な接客と素早い対応を織り交ぜて、気がつけば時間はあっという間に過ぎて19時50分頃になっていた。忙しさもピークアウトしていく時間だ。
もう少しで20時。美沙の日常幸福度が一つ階段を上がった。もうすぐ結衣がバイト終わりに来てくれることだけではなかった。カウンターの引き出しから、ホットコーヒー用のコーヒーフレッシュを一つ取り出し、カウンターの上に置いた。向きが少しいがんでいたので、人さし指と親指で微調整をする。
美沙の楽しみの一つ。毎週金曜日、このくらいの時間に必ず来る客がいた。ドアの透明ガラスにその人物がうつる。ドアを開けて入ってきたのは、一人の男性客だった。スーツ姿で、右手には薄いビジネスバッグが携えられている。男は美沙のカウンターに歩み寄る。
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」
美沙の楽しみの一つは、この男性客の接客をすることだった。月曜水曜土曜にこの客は来ない。毎週金曜日の20時ごろ、仕事帰りに必ず来てくれる。
「いつものお願いします。店内で」
男は優しい口調だった。キリッとした見た目とは違い、少し朗らかな表情。決まったルーティンでスマホ決済用の画面を美沙に見せる。男はいつもチーズミラクルバーガーのセットを注文する。チーズバーガーはマスタード抜きで、ドリンクはホットコーヒーの砂糖なし。サイドメニューはミラクルサラダ。美沙は男が入店してきた時に既に注文画面を操作し終わっていた。
「かしこまりました。ご一緒にミラクルアイスヨーグルトいかがですか?」
「じゃあ、それもお願いします」
そして必ず美沙が販促するものも購入してくれる。11月の寒い時期でもアイスを買ってくれるし、夏の暑い日でも、めちゃ辛ミラクルチキンも買ってくれる。美沙はこの男のことが好きな訳では無い。他にも常連はたくさんいるが、この男は美沙がアルバイトを始めた頃から通い続けている。店長曰く、美沙がアルバイトに入る前から来ていたそうだ。
まだ美沙が接客に慣れてない頃から販促商品を買ってくださる安心感。それが今現在も続いていることが、この楽しみの要因であった。
美沙は商品をトレーに並べる。トレーに商品を並べる際に、マニュアルでドリンクの位置、バーガーの位置など細かく決まっているのだが、美沙は少しアレンジをして、できるだけ商品をトレーの中央に寄せて設置した。男が鞄で片手が塞がった状態でも、安全にトレーを片手で持てる配慮だった。他の客でも同様の場合は同じ対応をするが、そういった対応を自然と気付かせてくれたのは、この男との接客の中でうまれたものだった。
「おまたせしました。どうぞ」
美沙は少し頭を下げる。男はカウンターからトレーを手に取り、二階席へと上がっていった。階段から足が見えなくなるまで、美沙は目で見送る。
「あのお客さん、ぜーったい殺し屋か何かよ」
美沙の後ろから小声で前橋が呟く。あの男が2階に上がったあとに、前橋は美沙に毎度あの男は◯◯だと言うことがお約束の定番になっていた。
「じゃあ、店長のこといくらで殺して貰えるか聞いてみますね」
「いやー、美沙ちゃんこわーい! アップルパイもう売らなくていいからねー」
そう言い残して前橋は厨房へと消えていった。美沙はやれやれと肩でため息をする。フリーメイソンの末裔だの、前の内閣官房長官だの、これまでに色んなやり取りがあった。確かに何の仕事をしているかは見当もつかないが、そんなことはどうでもよかった。大切なお客様の一人である、
年齢は40代なかばくらい。担任の中谷よりも大人でしっかりとしていて、おちゃらけな前橋と年齢は近い印象だ。清潔感で人はこんなに変わるのかと、わかりやすい比較になる。交わした会話も接客中だけのものであるが、誠実な人柄で相手に不快感を与えない卒のない人柄だと思われた。
掃除で二階に上がった際に、男がハンバーガーを食べる姿を見かけたことがあった。大きな一口でハンバーガーを食べる仕草は、潔癖そうな男の見た目とはギャップがあり、美沙はその光景をたまに思い出して、ニヤリとすることがある。めちゃ辛ミラクルチキンを食べるときのリアクションが知りたいがゆえに、わざと長めに掃除をしたこともあった。ミラクルバーガー史上一番辛い商品を男は一口食べて、あまりの辛さにホットコーヒーをがぶ飲みする。素の男の反応がとてもほほ笑ましく、ハンカチで顔の汗を拭きながら最後まで食べ、その日はいつもより長く滞在したこともしっかりと美沙は覚えていた。
男が来てから15分経過したほどで、美沙のより楽しみな客が来た。
「お疲れー」
バイト終わりの結衣が小走りで店の中に入ってきた。外が寒かったのであろう、温かい店内の空気を深く吸う。
「早かったね。あとまだ30分くらいあるよ」
「いいよ、二階で待ってる。充電もしたいし。あー、今日も鬼つかれたー」
カウンターで二人が話していると、厨房の奥から嬉しそうに前橋がやってきた。たまに来る結衣がお気に入りのようだ。
「結衣ちゃん相変わらず可愛いねぇ。どう? 居酒屋さん辞めちゃってうちに来ない?」
そしてお約束の引き抜きの話だ。かれこれ2年近くずっと言い続けてるから、本気ではないにしろ、働いてくれたら嬉しいことは違いなかった。結衣はニコニコした笑顔で迎え撃つ。
「あれー? 私ずっと疑問なんですけど、美沙がいるとき、絶対に店長いますよね? もしかして、社員にするだけじゃなくて、手も出そうとしてます?」
結衣の言う通り、金曜の美沙の居る時間は必ずと言っていいほど前橋は出勤していた。慌てる様子もなく前橋はこれは1本取られたと、わざとらしい苦い顔をした。
「、、、ちがうのよー。金曜日って、明日明後日が忙しいから色々とやらないといけないのよー、結衣ちゃんが入ってくれたら、売り上げも上がって人も増やせるから、ねぇ、お願い」
「ミラバ券10万円分貰えるなら、考えますよ」
結衣の提案にすかさず前橋は反応した。
「マジで!? 店の銀行にある無料券合わせたら10万くらいあるかも、、、」
「店長、、、それ横領ですよ」
いつも通りの日常。こうして楽しいアルバイトの時間は過ぎていく。アイスクリームだけ購入して二階で待つ結衣と早く合流したい。笑顔とサービス精神で接客も卒なく捌いていく。そしてあの男も30分の滞在を終えて、帰るために一階へ降りてきた。
「ありがとうございました」美沙が浅いお辞儀をすると、男はペコッと頭を下げてドアから出ていった。今からまっすぐ家に帰宅するのか、どこかに寄ってから家に帰宅するのか。美沙の想像が働く。そして客足も落ち着いて来た頃合いで、前橋が美沙に提案する。
「美沙ちゃん、15分早いけどそろそろ上がろっか。年末にも入ってほしいから、そろそろ103万円意識しておかないとね」
「いいんですか? でも今月のお給料減っちゃうので、、、」
そう言うと踏んでいた前橋は、スッと一枚の券を美沙に渡した。ミラクルバーガーの従業員用の無料券だった。早く帰って時給が減る分、これでまかなえば支障はお互いにない。無料券があれば、食費が一回減る。
「じゃあ、お先に失礼します。店長、ありがとうございます」
券を受け取り、深く頭を下げてミサはタイムカードを切った。更衣室で制服に着替えて、髪の毛がヘアゴムのあとで乱れてしまっていたため、後ろで髪の毛をまとめて前髪の分け目を作り直し、いつものバイト帰りスタイルの完成だ。
二階で待つ結衣のところへ向かった。少し油の匂いがするが、結衣はそんなこと全く気にしないので、美沙も遠慮なくそのままの状態だった。二階席の二人用席に結衣は座っていた。充電の線が繋がったスマホを右手で操作して、アイスクリームのコーンが入っていた袋を左手の指にはめて待ちぼうけていた。
「お待たせー、少し早く上がれたよ」
「おっつー。ちょっと待ってね」カバンに充電器をしまい、二人は美沙の家へと向かった。二人は歩きながらひたすらに話す。結衣の今日のバイト中にあった客とのプチトラブルや、酒癖の悪い客の話。居酒屋で接客するのは自分には向かないと、そういう話を聞くと思う美沙であった。
電車に乗り家の最寄り駅へと向かう。11月の夜は底冷えしており、二人はやや早歩きだった。寝間着も明日の服も結衣は美沙のものを借りるので、学校帰りでも問題なかった。駅から家へと向かう途中で、結衣はあることを思い出した。
「そうだ。めっちゃ大事なニュース。あの男の人の名前、分かったよ」
ミラクルバーガーでアイスクリームを買って、美沙を待とうと席についた時だった。たまたまあの客が座る窓際の場所の前に結衣は座った。他にもカップルや親子や1人客がちらほら居る。アイスクリームを舐めながら、結衣は男を何となく見ていた。既に食べ終わっており、タブレット端末を触りながらドリンクを飲んでいる。自分の店にもこういう毅然とした様子で飲食をしてくれる客がいたら、確かに目に付くところだと思っていた時だった。男はテーブルに置いていた名刺入れにひじが当たってしまい、床に名刺入れが落ちた。名刺入れは折りたたみ式で、挟んでいた名刺が落ちた向きが悪かったのか、床に名刺が大量に散らばってしまった。
男は慌てる様子もなく名刺を拾おうと動く。結衣もアイスクリーム片手に自然と手伝おうと動く。
「すいません。助かりました」数枚しか拾えなかった結衣から、男は名刺を受け取り礼を言う。何もなかったように2人は元いた席に戻った。
「あの人はね、真山って名前。真ん中の真に山で、真山」
「なんでその名刺見てわかるの? 他の人のじゃなくて?」
美沙の疑問は真っ当なものであった。他の人と名刺交換したものだと、まずは思うはずだ。
「それがね、全部同じ名刺だったの。つまり自分用ってこと」
結衣が拾いながら見たのは全部同じ真山という名前の名詞であった。ここでこの男が真山だという名前の筋がはっきりと通る。
「名前知れて良かったじゃん。でもごめん、下の名前までじっくりと見れなかった。あと名刺なんて普段見ないから、会社の名前とかもよくわからかったし」
「別にいいよ。名前も別に知らなくても、、、」と言いつつも、男の名前は真山だと知れた。嬉しくないわけではない。
「マヤマヤって呼ぼうかな」
「もう、、、楽しんじゃって」
結衣は他人事を楽しんでいた。もちろん美沙が真山のことをただの客として接していることも、恋愛感情が無いことも知っている。ミステリアスな常連さんの名前が知れてラッキーという程度だ。
「わかっていることは、名前と既婚者と辛いのが苦手ってことだけか」
結衣は真山の話を続ける。普段なら違う話に脱線することがほとんどだったが、真山と少し接したばかりだったので、真山トークモードに入っていた。
「うん、、、辛いのが苦手なのは、ちょっと弱め情報かも」
真山が既婚者だということは、左手薬指の結婚指輪が物語っていた。印象的にも既婚者であっても、何の違和感もない。
結衣が言う真山の家での生活は、寡黙であまり喋らなくて、気の強い奥さんのイエスマンで、子供は一人か二人。進路も奥さんがすべて決めていて、真山も子供本人がそれでもいいなら、嫌な顔一つせずに受け入れている等、結衣の想像は具体性と現実味がある。
「私らからしたら、よく分からない話よね」
結衣はしんみりと呟いた。美沙と結衣は似ている。共に母子家庭で、妹がいる。妹の年齢も共に高校一年生。仲良くなってから、互いの家事情を知りさらに親密度が増した。他にも母子家庭の友人はいたりすものの、兄弟姉妹構成が違うとなかなか共感する部分も違ってくる。姉として、二人は成熟するタイミングが他人より早かったのだ。父親像をフィクションでしか知らない二人は、真山が家庭でどう詳細までは脳裏に描けなかった。
二人の話は真山から離れて、明日の教習所の申し込みが終わってからどうするかの案を出し合う。5つほど案が出て、結局は申し込みが終わってから考えようという答になった。そんな話をしている間に美沙の家に到着した。9階建てのマンションの1階、10年ほど前に母がローンを組んで購入した3LDK。3人暮らしには、不便のない快適な環境だ。
時刻は21時20分。母親にはLINEで既に結衣が泊まりに来ることを伝えており、了解のスタンプが返事されていた。結衣が泊まりに来るのは三週間ぶりのことで、朝までゲームをするはずが、二人とも即寝してしまう。今日はホラー映画を見る予定だが、確実に寝落ちすることは承知のことだった。
鍵を開けて玄関に2人が入る。廊下は明るくテレビの音がリビングから聞こえる。
「寒かったぁー。早く風呂入ろ」
自分の家のように靴を脱いで結衣が先に進む。美沙は屈んで結衣の靴と自分の靴と、一番雑に脱ぎ散らかっていた妹の靴を並べ直す。
「おじゃましまーす」結衣の大きな声は居酒屋で培われたからか、やたらと部屋に響く。美沙はヘアゴムを外して後頭部の痒みを爪を立ててガサガサと掻きむしった。
「二人ともすぐお風呂にする? 今、芽衣が入っちゃったわ」
珍しくフルメイクの母が二人を出迎える。美沙の母、橋本沙絵43歳。小柄で細く童顔のため、43歳よりも歳下によく間違えられる。結衣曰く、美沙は動物で例えるならタヌキで間違いないらしく、沙絵はミーアキャットかオコジョ。昔はめちゃくちゃ美人だったと沙絵本人も言っているのだが、今でも十分美人である。
「えー、芽衣ちゃん風呂鬼長いから待つのダルー」
リビングのソファーに座って、結衣は自分が風呂に入れるのは一時間以上後だと嘆く。
「あの子、たぶん今日は早いわよ。生理って言ってたから」
「っしゃ、ナイス生理! 美沙、一緒に入って時間節約しよう!」ガッツポーズの結衣を見て、美沙と沙絵は自由人だなと思った。
「ママ、無事にあの話終わったよ」
早く風呂の準備をしようと、美沙は台所で手を洗いながら、進路相談会の報告を母にする。
「大変ね今の子たちは。クラスで毎回そんな話するなんて。全部で40回するの?」
「オバさんマジで言ってる? そんなわけないじゃん」
沙絵の天然発言に結衣はすぐツッコミを入れる。美沙はふんわりとクラスで自分の進路について話し合いがあるとだけ伝えていたが、母親の頭の中では違う解釈に変わっていた。そんな中、風呂場のドアが開いて、風呂上がりの妹がリビングにやってきた。
「いやー、マジ血の惨劇だわ。あ、結衣ちゃん今日泊まるんだ!」
バスタオルを頭の上に乗せ、下着姿でリビングを横切り、芽衣は結衣を背後から抱きつきに行く。「濡れるだろ」と、結衣は離れようとするが、気にせずに芽衣は頬をさらに擦り寄せに行く。
「あんたちゃんと服きなよ」
妹の行動に結衣は呆れてそう言うしかなかった。
「あ、お姉ちゃん居たんだ。お姉ちゃんだって全裸でうろついてるじゃん。たまに毛、落ちてるし」
「なっ、私のじゃないし! ママか芽衣のよ」
確かにそんな場面もあるが、親友を前に言われると恥ずかしい。美沙の焦り顔を見て一番喜ぶのは結衣であった。こういう一面を見れることが家に泊まりに行く理由の一つだ。
「芽衣は薄いし、ママは全身脱毛してるから、きっと美沙のよ」
謎の立ち位置の沙絵は妹側に加勢する。恥ずかしいので、美沙は結衣をソファから連れ出して自分の部屋へと避難した。その一連の流れが面白かったので、結衣は満足顔であった。
「あー、おもろ。たしかに見た目の割に濃いもんね」
ケラケラ笑う結衣に美沙はニコッと笑って何か反撃しなければいけないと、結衣の苦手な事柄を考える。1秒もかからずに、いいワードが浮かんだ。
「魔法使いユイリー」
このワードで結衣は床に綺麗に正座をして「本当にすみませんでした」と美沙に頭を下げた。素早い謝罪に美沙は手を叩いて笑う。威勢が良くて、堂々と常にしている結衣の弱点。それはアニメのキャラクターが好きすぎるあまり、声真似も練習して、そのアニメキャラのコスプレをして、完全模範することが趣味であった。専門学校に行くのも、声優の仕事がしたいという理由であった。
結衣はスタッと立ち上がり、「さぁ、ミサリー、魔法学園へようこそ」と声真似をしながら、風呂支度を始めた。そこから暫くは結衣は飽きるまで声真似で喋り続けて、二人が風呂から上がったのは23時手前。ドライヤーで髪の毛を交互に乾かし、アイスを食べて歯を磨き一つのベッドに仲良く就寝した。寝相の悪い友人の腕が首に入ってくるが、美沙はごくごく当たり前のことなので気にもとめない。
充実感、幸福感。美沙は目を閉じると程なく眠りに入った。
美沙のごくごく当たり前の1日が終わった。