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第54話 樹

 光なき暗闇に一欠片の黒が滲んでいる。生物を模するのもままならない黒は、ただ霧のままその暗闇に存在する。黒は周囲の圧倒的な瘴気に飲まれないよう、存在の濃度を上げて純黒となった。

 その空間は箱庭のどこよりも異質だ。中央都市カプティルの教会、その奥深くに存在する空間に繋がる道筋はなく、完全に閉ざされている。箱庭の創成期からずっと秘匿されてきたその空間は聖女しか知り得ないはずだった。

 黒は今にも消えそうな自我を懸命に保ちながら、自身の黒を一部切り離して唯一の光とした。本来、黒はわざわざ光を産むなど面倒なことはしない。ただ存在が空間を覆えば、それだけでそこにある全てを掌握できる。

 なぜ黒がそれをしないのか。それはいたって簡単な理由で、できないからである。

 空間に満ちる瘴気が黒に存在することを許さないのだ。そこに満ちる瘴気はいつだって黒を飲み込まんとしている。今その空間にある黒の存在量で瘴気と同化してしまえば、主導権を完全に持っていかれてしまう。

 全ての黒が集まれば話は別だろうが、教会の奥深くにあるそこにたどり着くまでに途方も無い時間が掛かる。そのためこうして黒の一部が空間に顔を出しているのだ。もっとも、黒に顔という顔はなく、大部分の黒が地の中で減衰し消えてしまっているが。

 わずかな光で照らされたそこには、一本の樹があった。その樹は世界に根を張り、力強く立っている。樹の幹の直径は家屋のそれを優に超えていた。しかしそれでも箱庭の外にある、感情の巨木には遠く及ばない。その樹を見て、黒はかつての日常にあった巨木に思いを馳せる。


 人々は皆、巨木の下で巨木に感謝し、その恩恵を受けながら穏やかに暮らしていた。いつからだろうか、人々は感情の巨木を道具として見るようになっていった。感謝を忘れ、己の望みを叶えるためだけに巨木に願った。

 かつて人々にあった純粋な他者を尊ぶ感情は薄れていった。代わりに現れたのは他者を蹴落とす醜悪な感情。しかしそれも今ほど残酷なものではない。始まりは、心のどこかで小さく存在する微かなものだった。

 彼らの願いを受け取り、形にしてきた巨木は些細な感情に機敏に反応した。始めは小さかった悪感情も時を経るに連れて、巨木の中に積もっていった。

 人々に感化された巨木は世界に瘴気を吐き出した。それは世界の様々なものに影響を及ぼした。元々存在していた動植物が死滅したり、変異して新たな生物が生まれたのだ。オルフィも新たに生まれた花の一つだった。

 加速する悪感情に巨木も呼応し、悪意を吐き出し続けた。変わりゆく世界で、人々は元の巨木であることを願った。願うだけでなく人々は生贄を捧げようとした。

 捧げた。


 捧げてしまった。


 これらの推移が百年程度で起きているという事実は改めて黒を驚かせた。成熟した文明の興衰はなんと早いものかと。

 黒は目の前にある樹を見上げた。それと同時に、新しく自身を切り離し、はるか上を照らす光とする。黒はそこにぶら下がる変わり果てた神と呼ばれるモノの姿を見た。それは死んではいないが、決して生きているとも言い難い。

 自身の中で蠢く数多の記憶のうち、いくつかの記憶が反応を示した。黒は自身という集合の記憶を遡り、彼らの名前と姿を一致させていく。

 地を司る神、トニー。水を司る神、ヌイ。風を司る神、ブリーズ。光を司る神、ニアレイジ。

 それらの神とは別に一人が吊るされていた。炎を用いた瘴気の第一人者、カーターである。別の言い方をすれば、彼は失伝した炎の神だ。

 かつて世界のために奮闘した彼らの今の姿を見て、憐れみの気持ちがこみ上げてくる。千年前から今まで、世界のためにその身を捧げているのだから。彼らは樹に生かされながら死ねずに苦しみ続けている。黒にはその姿がかつての自分たちの姿と重なって見えた。

 自分たちが巨木のための生贄なら、彼らは箱庭のための生贄だ。彼らの肌は土気色に変色していた。干物のように乾いていて、表面に異質な線が何本も走っている。彼らの目は泥のように濁り、生気を欠片も感じさせない。炎の神に至っては身体に刻まれた傷も相まって、ひと目見ただけでは人間と気づくことも難しいほどになっていた。

 薄くなった身体がかすかに動いているのを見て、ようやく生きていることがわかる。しかしその動きを鼓動と呼ぶにはあまりに惨すぎた。樹に植え付けられた第二の心臓というべきものが不規則に膨張し、収縮し、瘴気を奪い、養分を与えているのだ。

 その身体に囚われた魂は摩耗して崩壊する一歩手前になっている。あるいは既に崩壊してしまったのか、生かされた肉体はただの抜け殻となっているものもあった。

 自分たちの身体もこんなふうになっているのだろうか。そんなことを考えていた時、はたと気づく。


 一人、足りない。


 それは決して聖女のことではない。彼女もまた箱庭の生贄であることには変わりない。神々が箱庭を動かすための機能とするなら、聖女は機能を一つに詰め込まれた器である。

 足りないのは始まりの人。聖女と共に過ごし、神々となる前の彼らと瘴気のあり方を考え抜いた人。彼がいなければ彼らは神たり得なかった。

 彼の名はフェイレル。悪意に満ちた世界で人々が救いを求めた、かつての英雄の名であり、今では救いを求める聖句でもあった。


 突如、空間に満ちる瘴気が急激に膨れ上がり、黒を飲み込もうとする。樹と対面した時間は僅かだったのだが、ここまで速く気づかれるとは思わなかった。しかし僅かな時間の中でも収穫がたくさんあったのも事実だ。黒はなんの抵抗もなく、鮮烈な光と化した瘴気に飲み込まれた。

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