エピローグ
夏も終わり、秋を迎え新学期が始まる。それからしばらくすると秋はすっかりと冷えていつの間にか冬になっていた。時間というのは過ぎるのは早い。光陰矢の如しとはまさにこの事だろう。
目紛しい環境の変化に翻弄されながらも、俺は今日も何とか生きていた。教室にはエアコンが設置され、石造りで冬にはキンキンに冷えてしまう教室もエアコンの暖房を押すだけで、勝手に教室は温まり快適な空間へと変わっている。今では逆に去年の冬の寒さをどうやって耐え忍んだか思い出せなくなっていた。
――けれども、俺はあの日から一度も華奈さんのことを考えなかった日はない。あの夏の日々を俺は決して忘れる事はないだろう。
「おはよう! 今日も外寒いな。教室の中が天国過ぎて駅から走ってきたぜ」
和泉は相変わらず、俺と仲良くしてくれている。
「まぁ、色々あったけどさ。頑張っていこうぜ」
励まし続けてくれる和泉に、俺は救われていた。彼という友だちがいなければ、今でもまだ絶望の淵に立ったままかもしれない。
「和泉、本当にありがとな。なんだかんだ、本当にお前がずっと気にかけてくれてるってだけで幸せ者だ」
「お、おう。そこまで言われると気色悪いけど、まぁ婚姻届とか持ってこなかったら何でもいいや」
「婚姻届は――俺相手がいるから、お前とはずっと遊びなんだ」
他愛のない会話は、気持ちを楽にさせる。
「おはよ。そう言えばもうオカルト新聞書かないの?」
寒さで鼻を真っ赤にした茉莉花が、席の横を通りながら話しかけてくる。彼女の使っていた眼鏡は伊達メガネだったようで、あの日以来彼女の眼鏡姿を見る事はなかった。
「オカルト新聞は九月号と十月号って頑張っただろ? 九月号の深夜のピアノのやつなんか、まさかの警備員の人たちのお墨付きだぜ?」
「その分、十月号は不評みたいね。さすがに私も勘違いがそこまで広がるかって疑問だけど」
「意外とそんなもんだと思うけどな。その勘違いした人が人望がある人だったりすると、真正面に否定しにくいだろ?」
「――まぁ、それも一理ある、かも。それで、トイレの花子さんはいつ調べるの?」
「偉大なニーチェ先生も言っているだろ。『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ
』ってさ。あれは本物のだから、気をつけた方がいいぞー」
「つまり、調べる気はないってことね。まぁ女子トイレの話だし、零二くんは調べれないよね」
「記事になったら、多分俺学校全体の女子生徒から酷い扱いされそうだ」
二人の会話を裂くようにチャイムが鳴り響く。
「ねぇ、今日一緒に帰る?」
「ああ、そのつもり」
「――わかった」
そんな短い会話をして、茉莉花は席に着いた。一限目は、古文の授業だ。と言っても既に履修範囲は全て終え、小テストなり、自習する時間となっていた。
「起立。気をつけ! 礼!」
「はーい、今日の授業は自習ですが、恒例の私の創作話をしましょう。聞きたい人だけ聞いてくれていいから」
一柳の中に入っていたイス人のジルコンは、俺に別れを告げ元の時代に帰って行った。それによって元の一柳に戻ったらしい。彼にユーモアがあるというのは、間違いではなかった。
そして、彼に戻ってからは未来の地球というタイトルで色々な事を話す。とても現実味の無い話なのだが意外と面白く、彼の授業が楽しみになっていた。
「えー、私の好きな活用はへ、へ、ふ、ふる、ふれ、へよです! なんだか、この活用を言うとお腹のガスが抜けていく感じがしていいんですよね」
好々爺のような人。その評価とは少し変わるが気の抜けたような教師だ。
「あとですね、これが一番好きなんですが。まじく、まじから、まじく、まじかり、まじ! まじき、まじかる、まじけれ! いやぁ童心に返った気分になれる良い活用です」
今までの一柳を見てきた俺たちは、最初こそ困惑したものの、すぐに受け入れてしまっていた。
人間は、本当に適応が早い。これまでの一年半の彼から、ここ三ヶ月間の彼に順応し昔の彼は遠い過去のように思えた。
そして、放課後はいつものように部室へ向かう。けれど、今の俺はもうオカルト研究部への執着は既になくなっていた。部員が増えなかったからというのも一因なのだが、本当のところは違う。
「本当に、廃部になるのね」
部活動が始まるまでの短い時間、茉莉花は様子を見に来たようだった。
「『立つ鳥、跡を濁さず』だな。あれから少しずつ片付けて来たからもう捨てるものはないんだ。だからこうやって現状維持の為に、掃除だけしてる」
「随分と殊勝な心がけね」
彼女は俺の様子を確認するとそのまま踵を返し、部活動へ向かう。
「心配させて、悪かったな。ありがとう」
彼女に聞こえたかは定かではない。けれど、彼女の言葉は聞こえなかったが、口の動きで「こちらこそ」と言っていた気がした。
あの日から写本は見ていない。翌日普段通りに部室に行ったのだが、もうそのときには机の上から消えていた。ただそこには最初から存在していない様にすら思えるほどだ。掃除していたらそのうち出てくるだろうと、薄い希望を持っていたのだが、いよいよ見つかる事はなかった。
あの日、音楽室から落ちた小瓶のせいで警備員に気付かれ、捕まってしまった。深夜の学校への不法侵入はかなり問題になったのだが、発見された場所が音楽室であった事、その時刻も七不思議に言われる時間であった事。そして、オカルト研究部の部長であり、オカルト新聞を発刊していたこともあって、学校側からは、ジャーナリズムの行き過ぎた行為だったとして厳重注意と反省文を言い渡され、それを素直に受け入れた。
それと警察での事情聴取も行われたのだが、名前を名乗るとすぐに父の息子だと判断され、何事もなくすぐに返された。
「父はどういう役職なんですか?」
「あれ、聞かされていないのかい? 芦屋さんは――今回の様な特殊な事件を担う部署の部長だよ。私は詳しくは知らないけど、本当にこんな事件が存在しているのを初めて知れたよ」
これまで、父親は警察官程度の認識しかなかったのだが、どうやら警察の中ではその名前一つでお咎め無しになることから、かなり名の通った人なのだろう。
一柳――いや、ジルコンと日を改めて話した。彼は、どうやらタイムトラベルが出来る未来人のようで、この時間には本来来る予定ではなかったそうだ。ただ、彼の気まぐれで偶然居合わせたと言う。
「蘆屋道満の子孫は――どうしているのだと思ってね、興味が湧いて顔を見に来ただけだ」
蘆屋道満――それは空想の人物だと思っていた。陰陽師という胡散臭いものを扱うもの。けれど、今の俺はそれを頭ごなしに否定出来ないほどの体験をした。――もう俺は、この世界の裏側の一部を知ってしまったのだから。
気がつけば、もう部活の終わる時間まで残ってしまっていた。完全下校前のチャイムが部室に響き渡る、そんなときだった。
部室の扉はふいに開かれ図書司書の女性が入ってくる。
「ごめん、多分ここに保管されている本を数冊取りに来たの。開いていてよかったわぁ」
「ああ、どうも。じゃあそれが終わったら部室閉めますね」
彼女はそう言うと奥にある本棚から何冊か本を取り、すぐに出ていく。
「ありがとうね。それじゃあ"二人とも"気をつけて仲良く帰るのよ」
「はーい!」
隣で腕にしがみつく華奈さんが元気よく返事をした。
「じゃあ帰りますか、華奈さん。そういえば今朝、茉莉花が俺に姉を取られたって対抗心剥き出しにしていましたよ」
「姉離れもそろそろしないとね」
彼女は――俺の使用した魔術によって、この世に生き返った。魔導書の写しにある『復活』の呪文によって。
ジルコンたちが事前に彼女の身体を分解し、青っぽい灰色の粉に変えて、一粒も紛失する事なく全てをあの箱に入れて保管してくれていたお陰で彼女の肉体を無事に復元出来た。アメーバ状のものも入っていたのだが、今のところ彼女の身体に影響はないため、恐らく復活に必要なものだったのだろう。彼女は四年前に行方不明になったままの姿でここに居る。
そして、彼女の魂は前日に俺の手元に移しておいた。あとは、完全復活した彼女と花火を見て青春を過ごしたというだけだ。警備員に見つかった時は冷や汗ものだったが。学校側も、『時間が止まったまま、神隠しに遭い、生還した』というような眉唾物の話を飲み込むしかない。何せ四年の月日が経っても年老いていないのだから。そして除籍もされていなかったため、そのまま二年生に復学した形に収める事で終息した。
「後は、零二くんが十八歳になるのを待ってあげて、結婚すればハッピーエンドだよ。女の子は十六歳で結婚出来るから、しっかりと待たせてる事自覚してよ」
「高校生でそんな話するのおかしいでしょ。まぁ異論があるとするなら――今は女性も十八歳にならないと結婚出来ないようになったからお互い様ってところですね」
「こ、戸籍上は……二十一歳だし……」
そう言って俯く彼女の頭を優しく撫でる。
彼女の復活は、俺の環境を大きく変えたものの一つだ。そして、もう一つは――八月二十日。父が他界した。
警察の取り調べでは、警察を狙った犯行とのことで、非常に悪質な事件だったと報されたが、俺はそれは違うと感じている。あれは警察を狙ったものではなく――俺たち一族、『蘆屋』を狙ったものだったのだと、そう確信していた。本家の葬儀の時もそうだったが、蘆屋に不審死が相次いだ。その事がどうしても引っ掛かっていたが、所詮は俺もただの高校生。今は"真実"を知る機会がない。
今の俺は、ただ幸せと不幸が釣り合っただけと思うだけ。それが世界の仕組みなのだと、思い込む事しか出来なかった。所詮俺は、この世界にとって無数にある塵のひとつに過ぎないのだから。
せっかく、日常に帰って来たのだ。その歓びを噛み締めて生きていこうと、華奈の手を強く握った。
――――
夜更けに、とある女がバーに腰掛けていた。
「バーテンダーさん、マンハッタンお願いね」
「かしこまりました」
バーテンダーは慣れた様に一杯のカクテルを作る。鮮やかな手際の良さは芸術を感じさせるほどに所作が洗練されていて、見るものの目を奪う。
「お待たせしました」
そう言って彼女の前にカクテルを出すとバーテンダーはすぐに離れていく。そしてそれと入れ違いに一人の男が彼女の横へと腰掛ける。
「ベースも何も言わずにアレンジの多いマンハッタンなんて、迷惑だろうに」
「ここは、私の行きつけなの。だから大丈夫よ。それで――状況を説明してくれる?」
おっとりとした口調に、胸を強調する様な服を着た彼女は自慢の胸をバーカウンターに乗せ首だけ動かし男の方を見た。
「本家の蘆屋は、脅しが効いたのかこれ以上踏み込む気はないようだよ。あの爺さんには手を焼かされたから始末して正解だった。そして、その分家の蘆屋京二は深入りして来そうだったから同様にね。刑事ってのは面倒ごとを増やしてくれる」
「それで、その息子さん二人はどうするつもり?」
「長男の悠一に関しては、父の跡を継ぐみたいだよ。まぁまだ若造だからしばらくは僕らの邪魔は出来ないだろうね。次男の零二はまだ高校生だ。子どもは関係ないだろう?」
「零二くんは、意外と危ないかもしれないわ。彼の周りがそっちに行かせようとする人が多いから困ったものだわ。もしかしたら、私たちの脅威になりうるかもしれないし、味方にもなり得るかも」
彼女はマンハッタンを一気に半分ほど流し込み、チェリーを半分齧る。アルコールに浸ったチェリーを美味しそうに食べる彼女はどこか嬉しそうな顔をしていた。
「そういえば――君は彼の高校に潜入していたね。通りで彼を知っている様な口調なわけだ」
「ええ、それに私は彼に恩も売った。そして『ショゴス』もね。これで噛み付かれたら溜まったものじゃないわよ」
「父親を始末しといて恩だなんて、君は随分と図々しいね」
「あら、彼の父を殺したのはあなたでしょう? 私じゃないわ」
男はやれやれと両手を上げ肩をすくめる。
「ルビー。君は目的のためなら冷酷だね」
「ええ、何人たりとも『白痴の魔王』に触れさせない。もし、そうしようとするのなら、命を持って贖わせるのよ」
「バーテンダーさん、僕にマティーニをよろしく」
二人は静かにカクテルグラスを傾け乾杯をした。
静かに鳴り響くその音の波紋は、これから世界を震わせる初期微動に過ぎなかったのだ。
ご一読くださり誠にありがとうございました。