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二〇二四年八月十三日、午後二十三時。俺はいつものように、部室に忍び込んでいた。
茉莉花が通報している可能性があったため、より慎重に事を運ぶ必要がある。そのため、一時間ほど潜入する前に学校の様子を眺めていた。けれども、普段通り変わらない様子だ。
彼女がもし通報してても、確証のない話を信じられないだろう。警備が変わらない事は想定の範囲だった。
校内は普段通りなはずだが、どこか重々しく不穏な空気を漂わせる。別館にある部室から南館にある資料室は正反対の位置だ。
別館から渡り廊下を使い北館へと入るとすぐに異変が起こっていることに気がついた。――コツコツ。廊下に鳴り響く足音。これまで何度もこの時間に校舎に潜入した。けれども、一度も廊下を歩く足音など聞いた事がない。今日に限って、警備員が気合を入れて見回りをしているのだ。茉莉花が本当に通報したのは間違い無いのだろう。
右回りで行くルートにも、左回りで行くルートにも足音が響く。今ここで確認出来る事は、二人以上の警備員がこの北館にいるという事だけだ。そこで俺は音楽室の前を通るルートで行くことにした。理由は二つあり、警備員がどんなに多くてもこの規模の建物なら四人もいれば十分な為、一番逃げる方向が多くなる音楽室のある場所を通るのが最善ということ。そして、もう一つは、もし見つかった時の言い訳に、変な犯罪を企んでいるのではなく、オカルト部として音楽室の七不思議を調べるためという、信憑性のある言い訳が出来るためだ。
幸いにも、俺の新聞は知名度がある。それこそ、本当に夜に忍び込んで調べて記事を書いていたと広まっても学校のみんなは信じるだろう。教師陣にも、なんとしても部員を増やすために本気で調べていたのだと言えば厳重注意をされる程度に収まると見込んでの事だ。
廊下に響く足音が俺の平静を掻き乱す。その脈はまるで小動物のウサギのように早い。自分の音を少しでも減らすため、足音に合わせて歩く。二階から三階へ。そして、音楽室前の廊下へと無事に到着する。ここまで上手く行くと高揚感も相まって、心臓の鼓動は恐ろしいほどに早さを増す。この廊下を突き当たれば、いよいよ資料室のある南館の廊下に着く。しかし、そんな時だった。背後から警備員の足音がこちらに近寄って来ている。階段を登り、いよいよこの廊下へと向かって来ていたのだ。少し早足で廊下を渡ろうとするが、足音は正面から……そして、音楽室の近くの階段からも迫っていた。
逃げ場が多いからと選んだこのルートだったが、その逃げ場から次々と迫ってくる。逆手に取られていた。
もしかすると、俺の位置は既にバレていて泳がされていた可能性だってある。俺は一か八かの手段に出た。
急いで音楽室へと駆け込む。遮音カーテンがついているため多少音を出しても大丈夫だろう。そこで、俺はカセットデッキにピアノの曲を奏でさせた。
警備員はその異変にすぐに気が付き、次々と音楽室前に集合する。彼らはまだ入り口のドアの前で緊張しているようですぐに入ってこなかった。その時間を利用して俺は最適の場所へ移動し、息を潜める。
扉は開かれ、中に次々と警備員が中に入り込む。全部で四人だ。その隙に俺は入り口に張られている遮光カーテンから、音楽室の出口に急いで移動しやり過ごすことに成功した。すぐにその場を離れると、ピアノの曲は止められ少し笑い声が聞こえる。彼ら大人からすれば、所詮学校の七不思議はタネがあり、そのタネを見つけたところなのだ。――誰が再生したのか、という一点を除いては。
資料室の鍵を使い中へ入る。しっかりと内から鍵を掛け、資料室を見渡す。人は誰もおらず、俺は無事に任務を成功した事に、心から安堵した。
ここに来るまでに、激しく鼓動し酷使した心臓は次第に落ち着きを取り戻し、一気に肉体へと疲労が伝わる。扉の前でゆっくりと腰を下ろして、休憩した。鞄の中から、ペットボトルを取り出し喉を潤す。そして、チョコ菓子を取り出すが、完全にこの暑さにやられ、二つに分かれるはずだったチョコ菓子は、溶けて二つに分ける事も出来ないほど完全に一つになっていた。それでも俺は、無理矢理吸って口に含む。溶けていても味は何一つ変わらず、美味しいままだった。
完全に落ち着いた俺は、一度気を引き締め目的であった保管庫を目指す。合鍵の精度はしっかりとしており、スムーズに鍵が開く。そして扉を開くと窓ひとつない部屋に、ただ闇が佇んでいた。
「窓がひとつもないってなら、電気付けてもこの扉さえ閉めたらバレないよな」
中に入り、電気をつけると闇は瞬く間に姿を潜め、全てが光に照らされ浮かび上がる。
そこには――何もおかしなところはない。けれど、その中で、ただ一つおかしな物が目に飛び込む。俺はそれに近寄り、袖を掴む。その瞬間、記憶の中の霧が晴れ、彼女の全てが頭の中へと帰ってくる。
「待たせましたね。迎えに来ましたよ」
彼女の制服の腹部は穴が開き、その周りにはドス黒く乾いた血が染めていた。恐らく彼女は死ぬその時まで、この穴に痛みながら、苦しみながら死んだのだろう。その時の、彼女の苦痛に顔を歪める彼女を想像する。
二〇二〇年十二月二十日、一人の女子生徒が学校内で行方不明となった。その生徒の名前は――馬屋原 華奈。
その被害者であると主張するように、カーディガンの胸には『馬屋原』と書かれた名札が付けられたままになっていた。
しかし、そこにあったのは制服だけで遺体はない。彼女は一体どこにいったのだろうか。
「蘆屋、よくここまで来れたな」
保管庫入り口が開かれ、そこには一柳が立っていた。
「華奈さんが導いてくれましたから。ここに行く事だけの記憶は消さなかったんでしょうね」
「あれは、もっと具体的に指定したものしか消せないからな。お前は……我々につけ。悪い事はせん」
「説明されないと何かわからないんですが。素直にはいと頷けませんね」
「まずは我々の誠意を見せねばな。ついてこい」
一柳は、そういうと背中をガラ空きにして歩き出す。まるで俺など警戒する価値がないような、堂々とした振る舞いだ。その後ろ姿には畏怖さえ感じれる。俺は彼のその態度に素直に従い後ろを追いかけるように歩く。
そして、彼は女子トイレの前で立ち止まる。
「我々の一人が悪趣味でな、中に入れ」
「男揃って女子トイレに入るなんて、随分と冒涜的ですね」
半ば強引に押され中に入れられる。
アンモニア臭とカビの臭いの悪臭が鼻を突き刺す。トイレの臭いは男女では大差がない。けれど、女子トイレはそれに更に異臭が多い気がした。
一柳はそのまま進み、トイレの三番目の扉の前に立ち、三回ノックをする。その行動は、完全に『トイレの花子さん』を呼び出す行動そのものだった。そこで更に驚くべき事象が起こる。そう、返事が返って来たのだ。
「はあい?」
「私だ、四階に繋げてくれ」
しかし、その会話は事務的で、到底オカルトのものではない。まるでトイレの中で用を足している誰かに話しかけているような……とても地味で、見たくない光景だった。
一柳は女子トイレを後にし、階段の前に立つ。その目の前には、視界がぐにゃりと歪み、名状し難い"何か"が起こる。視界が戻るとそこには、元からあったと言わんばかりに四階に繋がる階段が現れた。そして、その階段の先を登ると小さな扉がある。
「ここが――秘密基地だ」
扉を開けるとただ真っ白な空間が広がっていた。そして、そこにはかつて見慣れた人物が、だらしなく寝転び本を読んでいる姿が目に入る。
「平川先輩?!」
「やっほー。零二くん元気してた?」
「何故ここに?」
「何故って……そりゃあ私も――イス人だからよ」
俺が一年のときオカルト研究部へ入部した際、親切に迎え入れてくれた当時三年生だった平川先輩が、あの時と変わらずに話しかけてきた。いや、少し大人びていて、大学生のようで少し垢抜けたような印象を受ける。
「零二くんは、一体どこまで辿り着けたのかしら。答え合わせといきましょう」
綺麗なボブに切り揃えられた髪をゆらゆらとさせながら立ち上がり俺を見つめていた。
しかし、俺は彼女の質問に殆ど回答する事は出来なかった。
「私たちイス人とは、遥か過去――具体的には五千万年前まで、この地球を支配していた種族でもあり、そしてあなたたち人類が滅亡した後の時代にも存在している種族よ」
彼女の言っている意味が、上手く理解できない。間違いなく彼女は日本語を使い、意味不明な言葉を羅列しているのだ。
「大丈夫、理解しなくていいから。そもそもそれを理解出来る知能があれば、さっきの私の質問に答えれたはずだからね」
彼女は、昔のように軽い口調で話し続ける。
「まぁ、私たちをあなたが簡単に表現するのなら『未来人』とでも思っておけばいいわ。それで、私たちは訳あってこの時間軸に来たの。そのうちの一つが、『ナコトの写本』を適切な人に届ける事」
「もしかして、あの部室に置いてあったやつ……?」
「そう、あれはあなたに届ける目的のものだった。元々は『ジルコン』がその写本を探すために、図書館の書庫に部室を動かす話になった」
「それが、古典部が資料室に移動した理由ですか?」
「そうね、けれど、書庫は二つあった。今の古典部の部屋と、そして今のオカルト部室。ここは博打になるからもし、間違えれば――数年は動かせなくなる。だから、私が華奈さんを唆してオカルト研究部を作らせたってわけ」
彼女の話す内容がとても濃く、推理小説を読んでいる時のように脳を動かさなければ、置いていかれそうなほどに情報過多だった。
「華奈さんの死は――想定していなかった。私たちは訳あって『ショゴス』と『シャッガイの昆虫』を抱える羽目になった。彼女はそれの被害者なのよ」
「――つまり、あなた方は俺たちに敵意を持っている訳ではない、と?」
「そう。華奈さんはジルコンが完璧な状態で保管しているわ。だから、あなたが私たちに協力してくれるなら――それを全て零二くんに渡すわ」
そう言うと、先ほどから『ジルコン』と呼ばれている一柳が、三十センチ四方の重厚な箱をこちらの足元に静かに置く。俺の返事を聞く前というのに、何かを俺に渡す。
「箱の中身が――その華奈だ。一欠片たりとも紛失していない」
言っている意味がわからなかった。たかだか三十センチ四方の箱に彼女がいるはずはない。けれども、それは何故か本能的に彼女なのだと認識する。――認識出来てしまう、そう彼女なのだと。
俺は大きく息を吸い込み、自分の心に答えを委ねた。