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真夜中、『資料室』の前に一人の女子生徒が身を潜め、その時を待っていた。彼女は息を潜め目的の人物が来るのを今か今かと待ち侘びる。
けれども、これまで一時間も何事も起きていない事実が、次第に彼女の緊張感を緩めてしまっていた。そんな緊張感のなさは、次第に明日の夜の事に現を抜かすようになっていく。誰かと一緒に見る事が出来たら――それはロマンチックできっと素敵な思い出になるだろうと。
欠伸をし、両手を上にゆっくりと伸ばすとカーディガンの左胸に付けっぱなしだった名札が目に付く。
「こんなの付けてたら、すぐに馬屋原ってバレちゃうね……」
その名札を外そうとしながら囁く声は、突如として発生した音に掻き消される。その音は『資料室』ではなく女子トイレの方からだった。女子トイレのドアを開けて中から百八十センチを超える大男が姿を現す。――その顔には見覚えがあった。
思わず出そうになる声を、慌てて手で口を塞いで黙らせる。彼はそのまま階段の方まで歩き、そのまま帰るのかと思われたのだが、立ち止まった。その時、視界がぐにゃりと歪む。それは一言で言えば、ありえない、夢の中にいるような光景だった。
軽く頬を抓る。けれど、彼女の痛覚神経は正常で痛みが走り顔を一瞬歪めた。
「な、なに? 今の……夢じゃない――」
歪んだ視界が再び正常に戻ると、そこには階段が現れる。これまで、想像もしていなかった現実が――いや非現実がそこにはあった。それをあって当たり前のように、何事もなく登っていく彼。振り返る事なく、そのまま階段の奥へと消えて行った。
身体が、背筋が、凍る。
それは、紛れもなく学校の七不思議の一つ。『異界に繋がる夜の学校』の正体が目の前にあるのだ。――見に行きたい気持ちが逸る。けれど、彼女の身体は氷のように冷たく固まり、――足は震えていた。
彼女は今ここにいる目的を冷静に思い出す。
「私は――『異界に繋がる夜の学校』を調べに来たんじゃない」
彼女の声は自身の耳に届き、震える身体を落ち着け立ち上がる。今、上に登って行った大男が戻ってくる前に速やかに、そして静かに歩き出す。
予想通り、『資料室』のドアには鍵が掛けられていない。音が鳴らないよう静かに中へ入ると、先ほどまで作業していたように、机の上には書物が開かれたまま置かれていた。恐らく彼はあの席に先ほどまで座っていたのだろう。椅子が引かれたままになっていた。
そして、そのまま奥にある『保管庫』へと向かう。その扉も鍵は掛かっておらず、ドアノブをゆっくり回すと彼女を迎え入れてくれていた。
その部屋は先ほどまでの『資料室』とは違い、窓一つない。月明かりの入らない完全な闇に包まれ何も見えなかった。気持ちを一度落ち着けるように、彼女は真紅の眼鏡を綺麗に掛け直す。入り口のドアを開けていれば、資料室に差し込む月明かりが届き多少見える範囲が増えるのだが。考えていたそんな時、廊下から重厚な足音が響く。それは、先ほどまで四階に行っていた大男のものだとすぐに気がついた。
彼女は慌てながらも冷静に、保管庫の中へ入り扉を閉める。漆黒の闇に身を潜め、資料室に入ってきた者をやり過ごす。その後、何者かは椅子に座ったようで、その微かな音が彼女の耳に届いた。
今間違いなくあの者はこちらへ意識が向いていない。そう確信したとき、ふと闇の奥から不気味な音が小さく響く。今までに似たような鳴き声を聞いた事はなく、それがどのような生き物かも発せられているのか想像も出来ないだろう。
「――テケリ・リ、テケリ・リ」
その音は何かに塞がれていて曇った鳴き声だった。恐る恐る音のする方へ闇の中を歩くと、硬い鉄のようなものが足に当たる。少しずつ進んでいたお陰で勢いよくぶつからずに済んだが、足先はかなり痛く思わず声が出てしまいそうだった。
暗がりの中、手探りに今当たった物を触って何かを確かめる。その形状はすぐに思い当たるものがあった。――檻だ。
不意にその檻の中から手を掴まれる。一瞬の出来事に、腰を抜かし地面にへたり込み声を上げる。けれど、彼女の声は声になる事はなく高音の高い声が音になり切れず掠れただけだった。
「まっ、待って、助けて欲しいの」
檻の中から発せられる声は、間違いなく人間の女のものだった。その声は極めて落ち着いていて、そして助けを求めていた。
「だ、誰なの?」
「そんなことは、後にして。あなたはあの眼鏡の大男の仲間……じゃないのよね?」
恐らく、今資料室で何かを読み耽っているあの者の事を指しているのだろう。そう推測した彼女はきっぱりと否定する。
「なら、ここから出して。私は何もしていないのに捕らえられたの。きっとどこかに鍵があるはずよ」
「わ、わかった。待ってて」
そう答える馬屋原の声はどこか震えていて、自分が何か恐ろしいものの懐に入り込んでしまったのだと理解し、恐怖が身体に纏わりついていた。暗闇の中、震える手で手探りに漁りだす。その震えは寒さからなどではない。恐怖がただ彼女の思考や、肉体を支配し始めたからのものだった。
少しだけ目が慣れたのか視界が僅かに向上し、馬屋原は静かに机の上を中心に探し始める。鍵であれば恐らく机の上だと、彼女なりの考えがそうさせたのだろう。
ただその机の上に異質のものがあった。それは四角い箱で外からは中が見えず、時折振動している不気味なものだ。
――箱は先ほどの不気味な音を出すものを封じたものだった。
「その中に、入っているはずよ! 早く! 早く!」
檻の中の女は声を荒げる。彼女は意を決してその蓋を開け、手を入れた。
手を突っ込む箱の中のものは、固体ではなかった。漆黒の玉虫色に光る粘液状の生物で――表面に無数の目が浮いている。それはこの世界に存在しているとは到底思えない。そして、その独特な鳴き声は遮るものがなくなり、彼女の耳へとしっかりと届く。
「――テケリ・リ、テケリ・リ」
無数の目が全て彼女に向いた。悍ましい見た目の生物に睨まれ、手に纏わりつかれ、正気ではいられなくなった彼女は大声を出して叫んだ。
纏わりつかれた右腕から骨の砕ける音がする。いくら引き剥がそうとしようが決して離れる事はない。痛みに踠き、狂気が思考を奪う。彼女の右手に纏わりつくアメーバのような何かを剥がすために、手当たり次第浮かぶ事を実行する。あらゆるところへぶつけ、引き摺る。部屋は散乱するがお構いなしに彼女は暴れ回った。
その異変を聞きつけた大男が、保管庫の扉を開ける。
「何をしている?!」
馬屋原は錯乱し、それでも暴れ回る手を止めない。眼鏡を掛けた大男は小さく言葉をぶつぶつと呟くが、彼女はそれに気がつく事はなかった。
そして、暴れ回る彼女はピタリと動きを止める。
「な、なに……? どういう――」
馬屋原の口からドス黒い液体が吐き出された。いつの間にか、彼女の右手に纏わりついていたアメーバはなく、自分の腹部には鋭利な何かが貫き大きな穴を開けていた。
声にならない馬屋原の叫びは音になることもなく、静かに崩れ落ちる。身体から次々と漏れ出る血はすぐに池のように広がり、まるで打ち上がった魚のように一頻り痙攣させた後、動かなくなった。
彼女の意識は――目を閉じることなく消えていく。
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