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図書館を出ると、最高気温を通り過ぎた様で時刻は午後四時。熱射の熱さは感じないものの最高気温帯にジリジリと焼き続けたアスファルトは熱気を放ち、溶けてしまいそうだ。
可能な限り日光を避けたい。俺は頭をフルに回転させ、部室までの道を太陽の角度を計算しながらルート検索を始める。こんなときナビで〈日陰優先〉などの設定があれば、最高なのになどと馬鹿な想像をしていた。どうやら頭の方は熱気でバグってしまったらしい。
しかし、そんな頭が弾き出したルートは間違いなく正確で、見事なまでに日光を避けていた。鞄から部室の鍵を取り出し、鍵を開ける。普段通りに俺は
「うっす」
と掛け声をして中に入った。
――しかし、その日は特別な気持ちで入った様な気がする。その時の、感情を思い起こす事は霞が掛かったように出来ない。けれど、俺は間違いなく違う気持ちでいた。
「おっそい! なんで一番に部室に来ないかな?」
そこには、カーディガンを着た女子生徒が部長の椅子に座って俺を迎える。スカートの裾から少しふくよかな肉付きのいい脚がチラリと見え、目を奪われていた。
「あ、変態! 今キミ、私の脚をおじさんのような目で見た!」
「いや、見てませんって! 証拠は、証拠はあるんですか!」
「女の子って、男子の視線に敏感なんだよ? 見られてる事くらいすぐわかるって。それで今何の七不思議調べてるの? この華奈部長に白状しなさい!」
「うわ、出た。すぐ権力を笠に着て言う言い方嫌われますよ」
部長の――華奈先輩がいた。彼女は背は低いものの態度がデカく、そして愛想がいい。なんだかんだ上手く立ち回っているのだろう。
「えっと、今日は――『トイレの花子さん』の足掛かりを調べてみたんですけどね。なかなかに面白い事がわかりましたよ」
「へぇ――」
華奈さんに図書司書の先生から聞いた話を、そのまま伝える。彼女は終始黙って聞いていた。
「まぁ、でもこれが四年前の話なので『トイレの花子さん』に結びつけるのは難しいかと」
「なんで? ――もしかして、キミ。『トイレの花子さん』ってどんな話か知らないの?」
彼女に言われギクリとする。そもそも『トイレの花子さん』をまだ本格的に調べる気がなかったため、その詳細は一切知らない。知っている事なんて、ノックしたら返ってくる怨霊、程度の知識だ。
俺の反応を見て彼女はため息を大きくついた。どうやら何も知らないという事がしっかりと伝わったようだ。彼女は立ち上がり百五十センチの小さな身体を精一杯動かし本棚のある場所へと向かう。そのままでは背が足りないため、近くの椅子を引きずり本棚の前へと起き、行儀良く靴を脱いで椅子の上に登る。うちの高校は体育館以外はほぼ土足で入る珍しい高校だ。土足で椅子の上に乗るのは流石に気が引けたのだろう。
少し椅子の上で背伸びをしながら分厚い本を取ろうとしていた。校則違反なのだが、彼女はスカートを短く追っており少ししゃがめば彼女のスカートが覗けそうだ。
「あのさ……覗いたらぶっ叩くよ? てか見てないでキミに取らせれば良かった。ちょっとあれ取って」
「……はい、すみませんでした」
彼女に言われるまま、先ほどまで彼女が手をかけていた分厚い本を本棚から引き抜く。
とても重厚なハードカバーの本。それを手に取った時、俺の本能が告げる。
――この本は、触れてはならぬもの。
手に持ち続けている間、悪寒にも似た血の気が引く感覚。それは、明らかにおかしな感覚だった。
本を手に持っただけなのにも関わらず、汗が吹き出しシャツを濡らす。肌に張り付いているのにも不快感を感じる神経すら機能せず。騒がしく支配していた蝉の声も聴こえず、ただ深淵の水底で静かに息を潜めているような――静寂だけがそこにはあった。
何か衝撃が――俺の身体にぶつかり手元から本が地面に落ちる。
「――部長の話を無視するとは、キミは本当に意地悪なやつだ」
「……は?」
俺は彼女に見事な体当たりをされ、地面に転がっていた。彼女もかなり強く突進したようで勢いのまま俺の上に乗っかっている。
「さっきからどうしたの。ボーッとするし、話し掛けても無視するし。無視って一番人を傷つけるんだから」
彼女はそう言うと立ち上がり落とした本を拾い上げ、机の上に載せる。
「手くらい貸してくださいよ」
転げた俺は彼女にそう言うが少し拗ねたように顔を逸らした。
「ふん。だってキミに手を貸したら、何か覗こうとするでしょ。自分で立ち上がりなさい……けど、これはまだキミには無理か」
後半声を絞り小さな声で呟く。俺に何かを隠しているようで、全てを語らない。そもそも語る気もなさそうだ。
それから彼女は、親切に『トイレの花子さん』について語り始めた。その内容は、その被害は実に単純で、学校の三階の、トイレの三番目の扉を三回ノックし呼び掛けると返事が返ってくる。そして、その扉を開けてしまうと赤いスカートのおかっぱ頭の少女がいて、トイレに引き摺り込む。
「じゃあ、そもそもそれをやらなければ無害ですね。それで、その花子さんってのは?」
「眉唾物の情報だけど、そもそも名前も長谷川 花子って言われてる。だからキミの調べようとしてることは無意味なんだよね」
「なるほど。じゃあこれは実践してそんなことなかったで終わりな話なんですね」
「――それでだけど、キミは本当にするの?」
彼女は意味深な笑みを浮かべる。その笑みは不気味で、背筋が凍るほどの底知れない何かを感じた。
「そんなもの、嘘に決まっているでしょう。第一、被害は……」
そこで俺は遅くも彼女の言いたい事が伝わる。四年前の行方不明の女子生徒。学校に残っていた遺留品。そんなものはこじ付けだと言えば、この話は終わりだ。
「それでトイレに引き摺り込まれたらどうなるって言われてるんですか?」
「なにかな? 怖くなっちゃったかな? ――異界に連れて行かれるとか聞いた事あるかな」
「――転生してチートでも手に入るんですかね」
「それは"異世界"って言い方かな。異界はもっと身近で、慣れた言い方だと裏世界、みたいなものって言った方が想像しやすいかも。
全く同じ景色なのに、自分以外の人間は誰もいなくて……。すぐそばで現世のこの世界の声が聞こえてきたり、人間と思えないような不思議な物体がそこにいたり――」
「随分と具体的な話ですね。帰ってきた人が伝え広げたとか?」
「帰れるのかな……? けど日本では異界の入り口って呼ばれるところが点在しているし、案外戻れるって信じたいけどね」
彼女は窓から遠くを見つめる。その先には高校のすぐ横を通るバイパスの道路が視界を塞ぎ、遠くを見せない。交通量がかなり多いのだろうか、時折聞こえる車のクラクションが、蝉の声を妨害するように鳴り響いている。
「それで、花子さんじゃみんなが興味を示すような記事にならないよね。なら、『異界に繋がる夜の学校』なんてどう?」
「夜って……流石に調べようがない気もしますけどね。俺んち、厳しいから門限破ると色々と制裁されるんですよ」
「例えば? これまで破った事があるからそう言えるってことよね」
「うーん、高校一年の時に門限破って趣味だった漫画を全部捨てられましたね。まぁそのとき、俺も遊び呆けてたから自業自得なんですけどね」
「それは――辛いね。キミはなんとも思わなかったの?」
「いや、さすがに腹が立ちますよ。けど、真剣に結んだ約束を破るってそういうもんじゃないんですかね。
軽すぎると、きっと俺は――平気で人の約束をすっぽかす人間になってたかもしれません」
「偉いね、すごく立派。私は――約束破っちゃったからダメだったんだろうなー」
彼女の言葉を終えると、静かにチャイムが鳴る。気がつけば宵を迎えようと、夕陽が海へと飛び込む準備をしていた。時刻は十七時半。あっという間に時間が過ぎていた。
「じゃあ華奈さん、俺帰ります。友だちと校門で待ち合わせしてるんで」
「うん、気をつけて帰ってね。――またね」
俺は部室を後にして校門で和泉を待つ。校門では教師が呼び掛けをしながら、早く帰れと生徒を門の外へと追い出していた。時刻を同じくして隣の予備校からも生徒が溢れ、門の前は大勢の人がごった返している。
「和泉ー!」
「お、いたいた。お待たせ。帰るか!」
駅までの道は十五分程度しかない。たかだかその距離を一緒に帰るために待つというのは、実にコストパフォーマンスが悪い。もし待つ時間が十五分以上であったのなら、その友だちといる時間より一人でいる時間の方が長くなる。
けれども、俺はその十五分のためなら三十分は待ってあげられるだろう。それくらいに、この時間が好きだった。
「それで、図書館はどうだった?」
「一柳がいて話し掛けられた」
「うっわ、マジか。ドンマイだな、なんか言われた?」
「いや、怖かったけど特になんも言われなかったというかむしろちょっと優しくされた気がする……」
「まぁ、さすがに何もしてない生徒を一方的には怒らないか。俺もなんかバケモンみたいな気持ちで言っちゃってたわ」
和泉は頭を掻きながら少しバツの悪そうな顔をする。彼は自分の悪かったと思うところを簡単に反省する少し変わったやつだ。
「それでさ、花子さんなんだけど……意外な事を聞いた。どうやら花子さんって異界に引き摺り込むらしいんだ。それに、四年前に一人、女子生徒が行方不明になってた」
「じゃあその人が花子さん的な?」
「いや。花子さんは長谷川花子って人らしい。だからその人とは結びつかないんだけどさ、花子さんって異界に引き摺り込むらしい」
「あー異界な。よくゲームとかであるからなんとなくわかるわ」
「行方不明生徒は、学校で遺留品が見つかっているらしい。俺もただ落としただけだろって思ってたけど――落としてるの眼鏡なんだよ。普通にかけてる人なら困って学校に戻るだろうし」
「それが、どうかしたん?」
「ここからは仮定の話だけどさ。もし、その人が『トイレの花子さん』を呼び出してしまって、異界に引き摺り込まれて行方不明になったとすると――」
「ちょっとだけ、ゾクっとした。オカルト研究部は伊達じゃないね」
「まっ、無理矢理こじ付けな気もするけどな」
駅に着き、構内で彼と別れた。まだ話していたいという気持ちが彼との別れを名残惜しく感じさせる。けれども、この名残惜しいと思う気持ちがきっと彼を特別な友達にするスパイスなのだ。
家に着くとその異変はすぐに気が付いた。
――鍵が掛かっている。普段であれば、母親が帰っていて夕食の準備をしている時間だ。けれども、鍵を開け家の中に入っても電気は着いていない。母の手料理の匂いも漂うことのないひどく静かな部屋が部屋があるだけだ。
ポケットからスマートフォンを取り出すと、そこには母からの着信や通知がズラッと並んでいた。慌てて電話を掛けると落ち着いた声の母が出る。
「スマートフォン持たせてるのに何で出ないのよ!」
「ご、ごめん。気が付かなかった。一体どうしたの?」
「本家の人が亡くなったから、お葬式に行ってるのよ。しばらくこっちにいる事になるけど、一人で留守番出来る?」
「もう高校生だから流石に大丈夫だよ。それでいつ帰って来るの?」
「送り火までいるから八月十七日までね。明日明後日は休みでしょ。あんまりダラダラしないようにね」
「わかったよ。それじゃあ母さんも無理しないでね」
そう言って電話を切った。
母たちは葬儀の為実家に帰ったようだ。しばらく俺一人で留守番する事になった。母から通知で食費が入金される。今ではスマートフォン一つで遠くに居ても何だってできてしまう。多くの事を文字だけでやりとりする世界。けれど、俺と和泉は滅多に文字でやり取りしない。いつも顔を合わせて話すだけだ。
しかし、俺は何故かこの日、和泉と文字のやり取りをしたくなった。電話だと、夕食中だと悪いと思ったからだ。
『俺今週一人だわ』
『まじ? なんかあったん?』
『親が二人とも家の用事で実家に帰った』
『ラッキーじゃん。門限破れるな』
彼は、一体この時どんな表情で、どんな気持ちで言ったのかわからない。普段顔を合わせて話していたのなら、笑いながら冗談っぽく言うのだろうか。けれども、和泉から送られてきた文字は、俺に邪悪な考えを植え付けた。
――深夜の学校に忍び込む。
それは親がいたら出来ない冒険で、甘美な言葉。
もし、忍び込むのであれば今日ほど最適な日はない。明日は日曜日、そして明後日は祝日の振り替えだ。つまり、部活などがあっても手薄な二日となる。
そして最悪、出れなくなっても良いように代休の月曜日に絞った。この日であれば、もし学校のセキュリティが頑丈で出られなくても、翌朝には補習で鍵が開けられるからだ。
その時の俺は高揚していて平静ではなかった。――今までの人生で最も昂っている、そう自分でも自覚できるほどに。
翌日、俺は早速準備を始めた。予算は母から渡された食費の壱万円。それを使って忍び込んで調査できるようにしなければならない。
必要なものはそう多くはなかった。リストに軽く書き出したものでも、懐中電灯、非常食、そして翌日の補習の科目が入ったカバン程度だ。あとは制汗スプレーなどあれば、十分だろう。
和泉に連絡しようとしたが、茉莉花の言葉が頭を過ぎる。
――不法侵入は犯罪。
――もしそんな事をするなら通報するから。
彼女の言葉が、スマートフォンから手を離させた。巻き込む人数は少ない方がいい、情報が漏れるリスクを減らせるからだ。つまり最小の一人であれば、拡散のリスクを減らせる。
単身一人で、夜の学校で活動するというスパイ気分を味わえると言うのは、きっと真っ当な日常生活を送っていては一生知ることの出来ない。けれども、それは本当は知ってはいけないものだとも理解はしていた。
「でも……やっぱりロマンは捨てられないね。要は、バレなきゃいいんだ」
自己暗示するように何度も何度も反芻させながら、俺は眠りについた。