lavendaer ~いつかその時が訪れるように~
その日、少年の母親は死んだ。
隣町から流れてきた流行り病だった。
治療に必要なものが近くでは採れるものではなく、隣町から治療薬が届くまで彼女は持たなかった。
村の何人もの人が犠牲となった。
どこにでも転がっている、単なる不幸の一つだった。
「ままはいつかえってくるの?」
少年はことある事に、父親にそう口にした。
初めの方は優しくなだめるように抱きしめてくれた父親だったが、回数を重ねるごとに何も言わなくなり始め、今では煩いと言わんばかりに耳を塞ぐようになった。
どうしようもなく込み上げてきて、拳を振り上げた事もあったが、それが少年に向かうことは一度もなかった。
◇
少年が外で友だちと遊んでいるときのことだった。
「『ねがいをかなえてくれるいえ』ってしってるか?」
友だちの一人がそう口にした。
「なにそれ?」
「しらなーい」
「うちのアニキが言ってたんだけどな、あの家をまっすぐ行ったとこ。そこのもっともーっとおくの森の中にな、『魔法使いが住む家』ってのがあるらしいぜ」
それは単なる噂話で、友だちたちにとってはただのオモシロ話。
兄に聞かされた面白い噂話を仲間内に共有しただけのこと。
少年はそれを静かに聞いていた。
彼にとってこれは夢のある、魔法のような話だったから。
父親が自分の息子が帰ってきていないことに気付いたのは、酒浸りから目を覚ました夕飯時のことだった。
◇
「ままにあいたい」
魔法使いのもとに一人で訪れた小さなお客様は、開口一番でお願いを口にした。
「ずいぶん小さく、勇気のあるお客さんだ」
服には数か所、引っかけたようなほつれがあり、その手は枝葉で切ったような小さな切り傷が複数見えた。
大した道もないこんな森の奥によくひとりで進んできたものだと魔法使いは感心した。
少年がここに来るまでに相当な大冒険をしてきたに違いない。
そんな苦難を乗り越え、少年はここまで来た。
それほどまで叶えたいお願いがあったのだろう。
「あなたがおねがい、かなえてくれるひと?」
少年のキラキラした目と向き合い、真っ黒に身を包む青年は頷くことで肯定を示す。
「なら、ままにあわせて!」
純朴で純粋な、まじりっけの無いお願い。
それを聞いて一呼吸置くと、魔法使いは呟いた。
「ネラリア」
その言葉に呼応し、少女は現れる。
音も無く、足を着いた床にホコリを立てることも無く。
初めからそこに居たかのように少女は姿を見せる。
綺麗なブロンドの髪の少女は魔法使いに鈍色の杖を手渡すと、侍女のように彼の後ろに控えた。
魔法使いは少女の頭に二回ぽんぽんと軽く手を置いたあと、少年に向きなおる。
「ちょっと失礼するよ」
そう言いながら少年の頭に杖をかざす。
上部に付いた水晶が翡翠色に淡く光りを灯す。
魔法使いの表情が寂し気に揺れると同時に、光はゆっくりと消えていく。
「いまのでままにあえるの?」
「いや、今のは会う前のおまじない」
母に会えると信じてやまない少年に魔法使いはそう言った。
知りたいことを知るための事など、いちいち説明しても意味がないだろうから。
魔法使いは少年と視線を合わせるように片膝をつく。
「じゃあ、行こうか。君のお母さんの所へ」
「うん!」
魔法使いは少年の手を引き、家を出る。
森の中もっと深いところ。
とある花の咲き誇る場所へと向かって。
◇
少年は不思議な光景を見ていた。
森の木々が動いているのだ。
まるで足が生えているかの如く。
目の前にいる真っ黒なモノを邪魔しないかのように。
その存在を忌み嫌うかのように。
自然が自ら動き、彼の通る場所が道となっていく。
隣に立つ青年が何かを行ったような仕草は無く、そうなることが当たり前のように表情に変化は見られない。
今自分が手をつないでいる存在が、すごい力を持っているのだと少年は理解した。
道なんか無いほどの鬱蒼とした森の中のはずなのに、歩みを止めることなくその場所にたどり着く。
彼らの前には花が一面に咲いていた。
「うわぁ……」
幼い少年が思わず声を漏らすほど、その目の前の光景は綺麗なものだった。
暗幕の中のように暗いこの森の中で、その一帯は夜空の星々が落ちてきたかのように光っている。
その光景に数秒間だけ見惚れていた少年は自分の目的を思い出して、魔法使いに目を向ける。
「ここでままにあえる?」
魔法使いは少年に目を合わせることなく言った。
「そうだよ」
「でも、ままいないよ」
目の前に母親の姿を見つけられない少年は不安そうに魔法使いの袖を引く。
そこでやっと魔法使いは少年に顔を向ける。儚げな笑みを浮かべて。
「じゃあ、今から言う通りにしてみなさい。ゆっくり目を閉じ、会いたい人を思い浮かべる。じっくりと、ゆっくり、瞼の裏にその姿が焼き付くまで。そしてその後、ゆっくりと目を開けてみなさい」
魔法使いに優しい声色でそう言われ、少年はコクンと小さく首を縦に振る。
そしてすぐに目を閉じる。
「さあ、思い浮かべてみなさい。君の大好きな人のことを」
彼の囁きを合図に少年は思い浮かべる。
一緒に笑いあったあの日の姿を。
悪いことをして怒られた、あの鬼のような形相のことも。
自分が風邪をひいて、心配させてしまった時のあの不安そうな顔を。
優しく微笑み、自分の名前を呼んでくれる、大好きな母を。
「ラヴァン」
あの日の音が頭の中に響いた———いや、違う。
自分の中だけの単なる記憶の中の音じゃない。
今、目の前から送られてくる、待ち望んでいた響き。
少年はゆっくりと瞼を上げる。
両の瞳に大粒の雫を抱え、少年は走り出した。
「ままぁ!」
少年はそのまま、飛びつくように母の腕の中へ。
母親はそれをしっかりと抱きとめる。
「最期に会えなかった息子に会えるなんて……随分と親切な神様が居たのね」
そんなことを言いながら息子を撫でる。
奥の木に背中を預けている黒い青年を見て、死神みたいだけど親切な神様だと、母親は思った。
少年は、身体全体で感じる久々の母親の暖かさに泣いた。
「あら、よしよし、どうしたの?」
いつも通りに母親は少年を慰める。
優しく撫でてくれるその手が少年にはたまらなく嬉しかった。
「あいたかった」
「……私もよ。最後までずっと、あなたのことを想ってたわ」
「どこいってたの?」
「神様に呼ばれちゃったの。……勝手に居なくなって、ごめんね」
「もういっちゃいや!」
絶対に離してやらないと両の手に力を籠める息子に、母親は困ったように笑った。
そして、もう一度息子を抱きしめる。
「ごめんね……愛してるわ、ラヴァン」
「ぼくもだいすきだよ。まま」
互いの心臓の音を確認しあうように数十秒抱きしめあった後、母親の方から少年を離す。
少年の額に軽くキスをして、母親は息子から、一歩距離を取った。
「ねぇ、いつかえってくるの……?」
少年が顔を上げた時にはもう、そこには誰も居なかった。
「まま……?」
首を振り、周りを見渡してもそれらしい人影はどこにも無い。
「まま!」
声を張り上げても返ってくる言葉は無く、ただ森の奥に吸い込まれていくだけだった。
少年は母を探し出すため、走り出そうとする。
しかし、その場にパタリと糸の切れた人形のように倒れこんでしまう。
そして、段々と視界が遠のいていく。
薄れゆく意識の中でも、少年は呼び続けた。
「…………ま、ま」
一帯の花の光が少年の声と共に、静かに消えた。
◇
「これで、良かったんでしょうか」
魔法使いは倒れている少年を遠目に見ながら虚空につぶやく。
その顔はわずかの後悔も悲しみも感じさせないものであったが、声は少し震えていた。
魔法使いは、願う者の願いを拒めない。
それは彼の性格ゆえのものではなく、「魔法使い」としてのずっと昔に刻まれた抗えないモノであるから。
それは彼の悩みの種であり、どうにもできない問題なのだ。
そのせいで、ブロンドの少女は人形のようになり。
そのせいで、彼は寿命が極端に短くなり。
そのせいで、少年はこれから苦しむことになる。
魔法は歪めた現実でしかなく、けして万能の力ではないから。
「そんなこと聞くために呼び出したんじゃ、無いだろうね」
魔法使いの後ろから声がする。
「……」
「相変わらずかい。ほんとあんたは、魔法使いに向いてないねえ」
「才能があるって引っ張ってきたのは、あんたの方でしょ」
「性格のほうの話してんだよ、バカ」
ため息交じりで呆れたように、声の主は言う。
魔法使いも後ろを一切振り向かず、手元で薄く明かりを灯す花を見つめる。
細長い赤いいくつもの花弁が、焔のように咲いていた。
「どうしたらよかったんでしょうか」
「それと向き合い続けるのが、お前の魔法使いとしての生涯なんだろうさ。答えを私なんかに簡単に求めんじゃないよ」
変わらない声と言い草に、魔法使いは少しだけ目元を緩めた。
「相変わらずですね、先生」
「精々悩むことだね。頑張んなさい、『いのち』の魔法使い」
その言葉を最後に気配は消え、手元の明かりも消えた。
魔法使いは少年を抱えると、その場を後にする。
彼の後ろの木々が、戻るのを拒むように通った道を消していった。
◇
少年が目を覚ますとそこは自分のベッドの上だった。
まだ寝ぼけた眼を薄く開けながら辺りを見るとすぐ近くに父親の姿があった。
寝落ちたのか突っ伏したような体勢で寝息を立てている。
まだ夢見心地でふわふわしている。昨日のことがまるで夢のようだった。
でも間違いなく母には逢えた。抱き合った温度はまだ忘れてない。
「……ラヴァン?」
いつの間にか起きていた父親が息子の名前を呼ぶ。
「おはよう、パパ」
その言葉で父親は感じていた不安から解放され、安堵した。
それもそのはず、息子は二日も目を覚ましていなかったのだ。
息子が帰ってこず、一日中村を探し回った次の日のこと、村の近くの草原の上で眠っている息子は発見された。
特に怪我をしている様子も見られず綺麗なままだったのだが、意識だけが一向に回復しない。
最近、愛する人を失ったせいか、最悪な想像をして眠れなかった。
でもこうしてまた言葉を交わすことができたのだ。
どうして居なくなったのか? や、どこに行っていたのか? など色々と聞きたいことや怒りたいことはあったが、その全てよりもこうして息子が無事だったことが何よりも嬉しかった。
息子の手を握ってその喜びを噛みしめる。
「……良かった、本当に。本当に」
今の今まで呪っていた神様に感謝したいくらい喜びの感情であふれていた。
そんなことを考えていたその時だった。
「……あれ?」
不思議そうな声を息子が上げた。
「どうしたんだ?」
「て、うごかない」
息子の発言に耳を疑った。
「は?」
「あれ? ……あしも」
息子の様子に嘘を言っている節は無く、ただ純粋に不思議がっているようにしか見えない。
外傷も何にも無かったはずだ。何かがおかしい。
父親は握っている息子の手を改めて凝視する。
その手に力が込められている様子はなく、指先からだらんと力なく垂れ下がっている。
父親はその手に既視感を覚えた。
それはまるで、こと切れたこの子の母親の手と同じようで……
それに気付いた途端、背筋に悪寒が走った。
握っていた手を、つい放してしまう。
いや違う、そう自分に言い聞かせて息子の顔を見る。
特に具合が悪そうでは無いし、おかしなところも見当たらない。
きっと寝起きでうまく力が入らないとかそんな感じのはずだ。二日も起きなかったのだ、そういった不調があってもおかしくはないだろう。
父親は自分にそう言い聞かせた。
これ以上良くないことが起こるはずなど無い。
そう思っていた。
そう思わずには、いられなかった。
父親の思いを裏切り、少年の四肢は動かなくなっていた。
指先から足の先まで、ピクリとも動かない。
村の医者が調べても、原因は分からなかった。
身体的には何の問題もない。ただ手足が動かせなくなっているだけだと言う。
少し無理をして遠くの街へ連れて行き、治せないものは無いと噂の名医にも診せた。
しかし、お手上げだと追い返された。
少年はベッドの上での生活を余儀なくされた。
急な不幸の連続に、父親は頭を抱えた。
中でも一番頭を悩ませているのは少年の言葉だった。
「ままはいつかえってくるの?」
亡くなった妻の帰りを、息子はいまだに待っている。
いくら説明しても、どんなに語りかけても、理解してくれない。
居なくなったあの日に、息子は母に会ったのだと言う。
そんなのは夢か幻だろう。しかし息子はそれを信じてやまない。
母は生きているのだと。
そんな息子に父親は疲れ、いつしか説明するのを止めた。
「母さんはまだ帰ってこないのかな」
「……そうだな。返ってくると、いいな」
少年は今も待ち続けている。
二度と帰らない母を。
動かない体で。
いつまでも。
永遠に。