rodanthe ~君と並んで歩く為に~
町はずれの森の中、木漏れ日がうっすらとだけ照らす道。
そこを通って、男は目的の場所にたどり着いた。
噂話だけを頼って、わずかな希望を胸に。
生い茂る木々、妖しく光るその中に、ひっそりと佇む木で作られた一軒家。
この家こそ、男の目指していた場所だった。
男がドアに近づき、そのノブを掴もうと手を伸ばすと、男を待っていたかのようにドアはひとりでに開いた。
中は外よりも薄暗く、ろくな明かりも無い。
うまく内装を視界に捉えられない中で、目を凝らす。
積みあがっている本、長年放置されているであろう枯れかけの植物、壁に掛けられているローブなどが見えた。
少し中に踏み入るだけで埃がたち、男は思わず口元を手で覆った。
あまり掃除はされていないらしい。
ケホッケホッと咳き込んでいると、ボッという軽い音とともに部屋に明かりが灯る。
奥で灯った明かりは、蠟燭からのもののようだ。
その近くに人影が写る。
「何用かな、お客さん」
静かな、感情を感じさせない声だった。
その人影は背の高く、夜空のように澄んだ黒を身に纏っていた。
声が掛けられるまで気配を感じなかったため男は驚き少し後ずさる。
幽霊かまたは精霊か、どこか神秘的なものを感じさせるその姿に、男は息を呑んだ。
噂を知っていなければ、男はきっと声を上げてその場からすぐに逃げ出していただろう。
男はひとつ深呼吸をし、焦らずに言葉を返す。
「君が……噂の魔法使い、かい?」
そう男が問うと、人影はゆっくり頷いた後、一歩前に出て明かりの前に姿を晒す。
柔和な顔をした青年だった。
疲れきったような、くたびれているような、そんな儚げな雰囲気をしていて、それでいて何か本能に訴えかけられる強い存在感を男は感じた。
この家は、「魔法使いの家」として町で噂になっている場所。
そして、ずっと前から魔法使いの住む地であった。
男は魔法使いを訪ねてここまで来たのだ。
緊張を感じて少し鼓動が早くなる。
「私の名は……」
男がそう言いかけると魔法使いは手でそれを制して言葉を止める。
そして静かに言う。
「ここに来る人間たちは皆、ただ願いを叶えてほしくてここに来る。ここに来た経緯も君の名も、僕は興味ない。君はただ、自分の願いを口にすればいい」
そう言うと、魔法使いは男の目を見据える。
心の奥まで見られるような、全てを見透かされるようなそんな目。
男は真剣な面持ちになり、言葉を改めて口を開く。
「足を……足を治してほしいんだ。また、昔みたいに歩けるように」
男の足は不自由だった。
「子供の頃の事故みたいなもので、足が一生動かないようになってしまってね。こいつがないと一人で外を出歩けないし、動かすのにも苦労している」
そういって男は座っている車椅子の車輪に触れる。
ここに来るのにも相当の苦労をしただろう。森の中の悪路を無理に押し通ったせいか少し動かしただけでどこからかギシッと歪んだ音が車椅子からなる。
「お願い、出来るかい?」
そう男が言う。
木々のざわめく音が静かに響き渡る部屋の中。
魔法使いは少し寂しげな表情を見せた。
「ネラリア」
短くそう呟かれる。
その瞬間、目の前に少女が現れた。
瞬きほどの刹那の時間。まぶたが持ち上がった頃にはそこに居た。
フリルをあしらったゴシック調のドレス。綺麗なブロンドの髪。人形のように整った顔。
その綺麗な顔からは、表情が剥がれ落ちているかのようで何も感じられない。
初めからそこに居たかのように、音も無く少女は姿を見せた。
その少女から魔法使いは杖を受け取る。
いくつもの植物が絡まったような装飾で、鈍色をした杖だった。上部に付いた水晶の中には四枚の花弁からなる黄色い花が浮かんでいた。
魔法使いは少女の頭を軽く撫でるように手を動かし、「ありがとう」と言ってから男に向きなおす。
そして、その杖でこつんと男の膝あたりを小突く。
何か壮大な魔法が使われる前触れなのかと男は思ったが、特に何かが起こる様子はない。
しかし、突然男は急激な眠気に襲われ意識を保っていられなくなる。
薄れゆく意識の中で、男は魔法使いにこう言われた。
「これは君の選択で、僕にはなんの責任も無い。けれど一応言っておくよ。やりたいことがあるのなら、早めに済ませなさい。君の人生、後悔の無いように」
手遅れになる前に……という魔法使いの言葉は、男には届かなかった。
◇
男が目を覚ますと、そこは見慣れたベッドの上。自分の家だった。
いつも通りの風景。
窓から差し込む光を受けて脳が少しずつ動き出す。
「夢、だったのかな」
昨日の出来事が、嘘のように思える。
いつもと変わらない窓の外の景色が何も変わった事は無いと訴えかけてくるようだ。
普段と変わらない、身体に染みついたルーティーンをするためにベッドの横の車椅子に手を掛けようとする———が、その手は空を切った。
そのためバランスを崩し、男はベッドから転げ落ちてしまう。
「イテテ……」
いつもはそこに車椅子が置いてあるはずなのに……
打った身体の部位を摩りながらベッドに手を掴んで、男は立ち上がった。
目を開け男は訝しんだ。
何か部屋の中がいつもと違う。
置いてある物、家具の配置なんかには違いは無い筈なのに。
見えている景色に違和感がある。
「すごい音がしたけど、だいじょう……」
男を心配して入って来たのは男の幼馴染。
今の男の状態を見て言葉を詰まらせた。
「足……立って、る?」
女のその言葉で、やっと男は理解した。
その行為をあまりにも自然にやってしまっていたから。
昨日の事が夢ではなかったのだという実感がやっと出来た。
男の足はきちんと動くようになっていた。
その事実をちゃんと消化出来た時、男は喜びのあまり涙を流した。
これ以上ないほど泣き腫らし、魔法使いに対する感謝の言葉を口にし続けた。
男は、何が起こったか分からないという風の幼馴染に事の経緯を説明した。
女はただ一言「良かったね……」とだけ呟いた。
喜びで笑みが抑えられない男と対照的に、女は少し悲しげな笑みを浮かべていた。
◇
それから男は魔法使いの言葉の通りに今まで出来なかった事に明け暮れるようになった。
今までの分を取り戻さんとするかのように。
子供たちに紛れて野を駆けずり回ったり、ボールを蹴る遊びをしたり。
幼馴染と海に行ったり、山登りをしたり。町の路地裏なんかを探索してみたり。
男は自らの足で、大事な人と同じ目線で、共に時間を共有出来ることが嬉しかった。
彼の周りには笑顔が絶えずあった。
どんなに暗い雨の日でも、後には必ず虹が出るように。
ちょっとした不幸も気にすることなく、楽しげな時間を過ごしていた。
魔法が掛けられた男の人生は、幸せに満ちていた。
魔法使いはそれを遠くで見守っていた。
いつ「その時」が来てもいいように。
◇
男の人生に魔法が掛かってからから一年と少し
男は病床に伏せていた。
身体は段々と弱っていき、もうまともに食事を取ることも出来なくなっていた。
男の体はやせ細り、実際の年齢よりも老けて見える。
そんな男のもとに魔法使いは突然現れた。
男の傍らに座っていた女は、目の前にいる存在が魔法使いであると気づくと、男の手を握りながら縋るように言う。
「……彼を、助けて、ください。神官様の祈りも効かないし、お医者様も、どうしてこうなっているのか、分からない、と……」
だから魔法でどうにかして欲しい。女の訴えはきっとこうだったのだろう。
何も出来ず、他人に縋るしかないその姿は、とても哀れで悲痛なものに魔法使いの目にも映った。
しかし魔法使いは淡々と告げる。
「無理だよ。これが魔法だから」
その一言に女は絶望し、膝から崩れ落ちる。
そんな女には目もくれず、魔法使いは男に近づく。
傍らまで来ると、魔法使いの存在に気づいたのか、男はゆっくりと顔を向ける。
「……死神が来たのかと思いましたが、魔法使いさん、でしたね」
「死神だなんて、恩人に対して、酷いな君は」
そう言って魔法使いは口元に笑みを浮かべる。
男の周りは暗い顔をしているのに対し、彼は明るい顔をしていた。
「冗談を言えるくらいにはまだ元気なんだね」
「ええ」
「その顔が見れて良かったよ」
そう言うと魔法使いは近くの椅子を風を起こして手繰り寄せ、そこに腰を下ろす。
「聞かせてよ、君がどんな人生を送れたのかを」
「……いいですよ。大して、面白くは無いと思いますけどね」
それから彼は幼少のころからの思い出を滔々と語りだす。
子供のころから身体を動かすのが好きで、よくあちこちに擦り傷を作っていた事。
幼馴染をよく外遊びに付き合わせていた事。
誕生日に貰って一番嬉しかったプレゼントの事。
事故に遭って足が動かなくなった時の事。
その後の人生が、酷くつまらなく、自殺を考えた時の事。
頼みの綱として魔法使いの元に赴いたこと。
足が治ってからの人生が幸せだったこと。
「あなたの言葉通り、後悔の無い人生を送れた気がします」
隣で泣き腫らしている女の手を握り返しながら男は言う。
「……心残りがあるとすれば、彼女にちゃんと告白出来なかった事くらいです」
「……」
「ここで無責任に言葉を吐いたら、彼女が、今後の人生をちゃんと生きれなくなるかもしれませんから」
「そっか」
涼しげな風が隙間を通り抜け、花瓶に活けてある花の花弁を散らす
起き上がっているのが辛くなったのか男は咳き込み少し苦しそうに声を漏らすと、ゆっくりとベッドに横たわる
魔法使いは男を見て問う
「良い夢は、見れたかい?」
男は息を吐き、目を閉じる。
「ええ、とても。いい、ゆめでした」
魔法使いは小さく「そっか」とだけ言った。
男は女の手を握って彼女を呼ぶ
「アモネ」
その呼びかけに女はハッと顔を上げ、男の手を握り返す。
「本当に、僕は幸せ者だな……君にちゃんとお別れも言えるのだから」
「……っ、そんなこと言わないで!」
「君に出会えて本当に良かった。僕の足が動かなくなっても君だけがずっと傍にいてくれた」
「ううん、まだ、これからもずっと一緒にいるの! なんで! なんでなの!?」
「本当にありがとう。君が居たから、僕の人生は幸せだった」
「まって! おいていかないで……」
「君の幸せを願ってる」
「私は! 貴方と居られることが———」
「じゃあね……」
男の手から力が抜け、女の手からするりと抜ける。
魔法使いは立ち上がると、男の目を閉じてあげる。
「さよなら、ローダン」
それだけ言って魔法使いは病室を後にした。
◇
「返して!」
魔法使いが町を出ようとした時、そう怒声を浴びせられた。
振り向くと女——アモネが立っていた。
病室を出た後も彼女は泣きじゃくったのだろう、目元はもっと酷い有様になっていた。
そんな彼女に魔法使いは淡々と言葉を口にする。感情を感じさせない冷たい声色で。
「僕は何も奪ってないよ」
そんな冷淡な言葉に、彼女は息を詰まらせる。
「選択したのは彼で、それで彼は幸せだった。それでいいじゃないか」
あまりにも血の通っていないその魔法使いの言い草は無慈悲で、それでいて正論だった。
「うるさいうるさいうるさいうるさい! あの人との日々が、私の全てだったの!」
「そんなこと、僕は知らない」
「あなたのせいよ! あなたが彼に魔法なんか使うから!」
「彼には言ったが、これは彼の選択で、僕には何の責任も無い。筋違いも甚だしいよ」
もう救いは無いのだと、突き放すような言葉。
アモネは行き場の無い感情を魔法使いにぶつけるように、彼を睨みつける。
しかし、次の魔法使いの言葉で彼女の顔は青ざめた。
「君が彼から奪わなければ、こうなることも無かっただろうに」
「……」
彼女しか知り得ないはずの事実にアモネは言葉を詰まらせた。
魔法使いの目は何処までも冷めていて、言葉を交わす対象に一切の興味を示している様子は無い。
「……っ、魔法使いなら、魔法で何とかしてよ!」
それは勢いから出た言葉だった。
ただの悲痛な、ヒステリックな叫び。
しかし魔法使いはそれを聞いて言う。
「できるよ」
彼女にとっては渡りに船な言葉だった。
「なら……」
「でも———」
アモネの言葉を遮って言う。
「こうなるけど、いい?」
魔法使いがそう言って手を置いたのは、いつの間にか傍らに佇むブロンドの少女。
その目は虚ろで何も映していない。人間らしい感情を感じることすらできない。
人形のような少女だった。
希望は全て打ち砕かれた。
アモネは押し黙り、俯き、何も言えなくなってしまう。
そんな彼女の姿を見て魔法使いは背を向ける。
ブロンドの少女に「行こうか」と声をかけ、歩き始める。
取り残された女はゼンマイをまかれたかのようにまた泣き始めた。
「もっと、もっと一緒に居たかったのに…………」
その言葉はもう魔法使いの耳には入らない。
「ずっと一緒に、いる為だったのに…………」
町に消え行くその罪の告白は、風に攫われかき消された。
◇
「魔法」とは、人を幸せにする為のものではない。
人間の繁栄を祈って、出来上がったものではないからだ。
魔法は、魔法使いと呼ばれる者たちが作った、現実を歪める超常の力。
それはどこまで行っても魔法使いの為のものでしかなく、その恩恵を享受できるのは魔法使いだけ。
人間には上手く作用することは無い。
歪めた現実を望んでも、どこかで必ず帳尻合わせが来てしまう。
泡沫の夢はすぐに弾けて消えてしまうのだ。
このブロンドの少女のように、物言わぬ人形に成り果ててしまったりもする。
そういう風に出来ている。
そういう理なのだ。
木々の揺れる音を子守歌にしながら、魔法使いは少女と共にゆりかごのようにゆらゆらと揺れる椅子に身を預ける。
もう、魔法を使う日が訪れないようにと。
静かにそう願い、目を閉じる。
仄かな月明かりさえも無い部屋の中で。
初投稿。
ちゃんとできてるかいろいろと心配。
ひとりでもこのお話を「好き」と言ってくれる人が居てくれるといいなぁ……とか思ったり。
ローダンセ:変わらぬ想い
アネモネ:儚い恋