第96話 流動体ですかそうですか
離宮の中庭には真ん中に、ちょっと深いけれど井戸がある。近くに水源が無い場合は井戸を試し掘りし、水が出るか確認するのが築城の基本だ。例え断崖絶壁の要害であろうと、水を確保できなければ籠城戦には向かず、使い勝手も悪い城と言えよう。
「お疲れさまです。バタークッキーを焼いたの、よかったらどうぞ」
「これはありがたい、いつもすまないね、桂林殿」
桂林がポケットから出した紙包みに、衛兵は顔を綻ばせた。
毒が投げ込まれるのを防ぐため、井戸には必ず警備の兵が見張りに付く。最悪は精霊さんが教えてくれるから、軍団に被害は出ないだろう。けれど水源が近くになければ、水の調達が面倒なことになってしまう。そう考えると井戸に張り付いてくれる衛兵には、差し入れのひとつもあげたくなるのが人情ってもん。
「毎度のことながら、手品を見せられてる気分だよ」
「あはは、見慣れてください」
井戸が深ければ深いほど、手作業で水を汲むメイドの負担は大きくなる。ところが三人娘の手にかかると、意思を持ったように井戸の水が、運んできた水瓶へ移っていくのだ。兵士たちに言わせると太い一本の噴水だそうで、周囲に飛沫が舞い小さな虹がかかる。
しかも貯めた水を加熱殺菌し、そして冷やすが三人娘のワンセット。飲料水の販売で食って行けそうだなと、衛兵はもらったクッキーを頬張りながら目を細めた。この世界で安全な飲み水は、どこへ行っても有料だから、あながち間違ってはいない。
「ソーンウィップ」
重量物を無視する地属性の技を使い、水瓶を蔦でひょいっと持ち上げ、桂林はふんふーんと炊事場へ運んでいく。すれ違った皇帝軍の兵士らが、ぽかんと口を開け石像と化してしまう。なお彼らはフローラ軍と作戦行動を共にするため、中隊長の名前にちなんでゲッペルス隊と命名された。
「ねえシルビィ、どうして私の客間に居座るの?」
「あら、そんな邪険にしないで下さいませ、フローラさま」
この人はと、胡乱な目を向けるフローラ。まあいいじゃんかと、シュバイツがくすくす笑っている。当の飲み助はミリアとリシュルに、何かおつまみちょうだいとおねだりしてます。
パーラー・メイドであるスワンは、買い出しで運び込まれた酒類の、毒味と味見を行う役目がある。料理に合わせてお酒をチョイスする、ソムリエ兼バーテンダーでもあるのだ。従って彼女が警戒態勢中に飲んでいても、仕事だから特に問題はない。
だがシルビィことラーニエが飲んでいると、兵士たちに示しがつかないのだ。どうしても飲みたかったら私の客間に来なさいと、情けをかけたのが運の尽き。腰を据えて動こうとせず、ミリアが出してくれたナッツチョコをひょいぱく。
「法王と枢機卿、身の安全は大丈夫なのか? シルビィ」
「近隣諸国から聖堂騎士と、ミーア派にズルニ派を集結させました。おいそれとは手を出せませんわ、シュバイツ。
それにフローラさまが対抗手段となる、リバースディフェンスシールドを編み出して下さいました。今の法王庁を魔物で押さえ込むなど、事実上は不可能です」
青以上のルキアを取得している聖職者が大勢いるのだから、ディスペルと併用すれば魔物を用いても制圧は困難であろう。シールドで固めてしまえば教会魔法の加熱と冷却で、蒸し焼きにするか氷漬けにするか。又は物理でめった打ちにしてもよく、大聖女はあくどい……もといとんでもない技を考案したものだ。
「なら法王庁は大丈夫か、だがいざって時の通信手段が欲しいよな、フローラ」
「友好国には伝書鳩の拠点を置くつもりなの、抜かりはないわシュバイツ」
近いうちプハルツ王子のラビス王国へ、座標を覚えに行くわよとフローラは人差し指を立てる。それって音速飛行だよなと、頬をひくひくさせるシュバイツ。当たり前じゃないと、にっこり笑う大聖女さま。半月荘へ行ったとき以来になるが、音速を超えると馬車の周囲が真っ赤になるから、心臓に悪く彼はあんまり嬉しくないっぽい。
「ところでシルビィ、客間は伯父上と一緒でなくて良かったの?」
「それを今ここでお聞きになるのですか、フローラさま」
「野営テントも未だに別だし、ねえシュバイツ」
「気になるよな、フローラ」
アリーゼはフローラの護衛武官だから、夜でなければゲルハルト卿と話す機会は滅多にない。そんなわけでみんなして、同じテントに押し込んだ経緯がある。壁際に立つアリーゼが、頭目もそろそろ年貢の納め時かしらと、によによしてます。
なおカモフラージュで衛兵は立てているが、フローラを含む王たちは皇族用の立派な部屋を使っていない。来賓用の客間にしたのは刺客を送り込まれても、誰がどの部屋にいるか、分からないようにするためだ。
「あたいはね、フローラさま」
「うん」
「好きな人と一緒にいると」
「うんうん」
「気が緩んじまって」
「うんうんうん」
「暗殺者としての勘が鈍るんだよ」
「……ラーニエって、意外と乙女なのね」
「ぶふぉっ!」
娼婦として暗殺者として、客を取るのとは別なんだと、シュバイツも感心しきり。あのねえとハンカチで口を拭いながら、恨めしそうな顔で二人を見るシルビィことラーニエ。だが言い換えれば、それだけクラウスが好きだってことだ。フローラがふうんと、こぼれそうな笑顔になっちゃった。
「皇帝領が片付けば法王さまは、選帝侯会議の準備を始めるでしょう。それまで私たちはアウグスタ城へ、一旦戻ることになるわ。その頃には父上の本軍も帰還するし、人質になっていた伯父上の子供たちも戻ってくる。結婚式ラッシュになるから、その時よねラーニエ」
「その時ってなんだい?」
「決まってるじゃない、仕込むのよ。子供は何人欲しいのかしら、伯母上」
フローラに男女の睦み事を教えたのはラーニエ自身で、彼女は一本取られたなと顔に手を当てる。だがグレイデルと同じで彼女にも、子供たちに囲まれて暮らしたい願望が、ぼんやりとあったりするのだ。
「三人は欲しいかな、アリーゼは?」
「あら奇遇ですわね、頭目。私も三人は欲しいと思っていたところです」
ならば安全なローレン王国で、羽を伸ばして励んでねと、フローラが身も蓋もない事を言っちゃう。もっとも子供を二人しか産まなければ人口は増えず、三人以上が望ましいから一夫多妻を認めているのだ。三人と言わず五人は無理かしらと身を乗り出すフローラに、たじたじのラーニエとアリーゼだったりして。
「俺たちはどうする、フローラ」
「シュバイツが選帝侯会議で皇帝になれば、法王さまは婚約も結婚も解禁して下さるでしょう。私はすぐにでも、あなたと結婚したいな」
「婚約をすっ飛ばしてか?」
「そうよ、早く子供が欲しいの。その暁には私に仕込んで仕込んで」
「ばっ!」
罪が無いと言うか何と言うか、これがローレンの大聖女なのだ。絶倫の種馬に期待してますと口走っちゃうもんだから、さすがのミリアとリシュルも肩が小刻みにふるえている。
その時だった! 警笛が鳴り響きフローラたちは、弾かれるように席を立つ。
夜間の歩哨以外で警笛を首から下げるのは、各部屋の入り口に立つ衛兵と井戸の見張り番だ。中庭の方からだったと、窓に駆け寄ったフローラたち。
だが目にした光景に困惑し、対処に悩んでしまう。見張り番とうりふたつの衛兵が向き合っているからで、どっちかが偽物の刺客であることは間違いない。行きましょうとフローラは客間を飛び出し、シュバイツも剣を手に取り、ラーニエとアリーゼも後に続く。
「俺が本物です」
「よく言うぜ、井戸から這い出して来た魔物風情が」
「それはお前の方だろう」
「警笛を吹いたのは俺だ」
「いや俺だ」
首脳陣と隊長たちも集まったが、このやり取りでは本物を見分けることが出来ずにいた。そこへ駆けつけた三人娘のうち桂林が、ずずいとそっくりなダブル衛兵に歩み寄る。そして彼女はにっと笑い、片方に出刃包丁を向けた。護身用としてスカートの下、太ももの皮ベルトにいつも挿しておりますゆえ。
「さっきバタークッキーをおすそ分けしたから、どっちが本物か匂いで分かるわ。正体を現しなさい! この外道!!」
「ちっ」
「ホイールウィンド!」
桂林の放った風の渦が、偽物の右腕を切断した。ところが魔物は緑色のジェルと化し、切り捨てた腕を取り込んだではないか。そこへ姿を見せたサキュバス姉さんが、すっぽんぽんのまま、ふよふよと降りて来た。
「そいつはアメーバっていう魔物よ、フローラ」
「どんな特性なの? サキュバス」
「物理と四属性魔法は効かないわね」
「おやまあ」
「わっはっは、誰がローレン王国女王か、探す手間が省けたわ。邪魔だどけ!」
「ぐはっ」
アメーバが本物の衛兵を、伸ばした触手で吹っ飛ばした。乾いた音がしたから、どこか骨が折れたのだろう。大丈夫ですかと桂林が、走り寄ってヒールをかける。
「物理も魔法も無効だぞ、他の選帝侯も後で飲み込み、ゆっくりと消化してやろう」
アメーバがまるで花のように体を開き、動きはのろいがフローラに迫ってくる。食虫植物のような花、精霊界にもあったなと彼女は思い出す。その蜂蜜と蜂蜜酒は、美味しいのだけどと。取りあえず霊鳥サームルクには、念動波を打たないでねって思念を送る。
「いただきますだーぜ」
「ダークプリズン」
「は? えええ? のわああああぁ!?」
悪魔ちゃんの専属スキルが発動、属性無視の万能攻撃だから逃げられないもんね。訳の分からない緑色の流体生物は、為す術なく暗黒空間へ吸い込まれて行った。
派手に天使ちゃんのシャイニングアローが良かったかしらと、彼女はふんと鼻を鳴らし耳にかかった髪を後ろに流す。二霊聖の専属スキルを使えるアドバンテージに、首脳陣と隊長たちが、やんややんやの拍手喝采。
「桂林、衛兵は大丈夫かしら」
「はいフローラさま、命に別状はございません」
「助かりました、いやそれよりも皆さんにご報告が」
「なあに? 他に何かあるのかしら」
「あの魔物、井戸に魔法をかけました、フローラさま。スペルはポイズンだったと」
井戸水を恒久的に毒水へ変えたのねと、サキュバスが宙で胡座をかき腕を組む。そろそろ衣装を展開してくれないかしらと、キリアが半眼でそのお尻をつんつんしていた。まあ見慣れてくれば目の保養と言うか眼福なんだが、それは間違っても口にしない男衆である。
「そんな状態異常の魔法もあるなんて、知らなかったわ」
「解呪できそうか? フローラ」
「ちょっと待ってシュバイツ、精霊さんたちがディスペルじゃ解けないって」
「げっまじか」
「うん……うん……分かったわ」
フローラが扇を空へかざし、くるくると回す。これはきっとディスペルの上位魔法ねと、グレイデルに三人娘が頷き合った。その通りよとサキュバスが、お手並み拝見と静観している。あまりキリアの血圧を上げるなと、文句たらたらのダーシュを尻尾であしらいながら。
「悪しき呪いよ我がスペルを聞け、そして我に恐れよ、ブレイクザカース!」
井戸からどす黒い霧と供に、断末魔の悲鳴を上げる怨霊の顔が浮かび上がった。やがてそれは霧散し、サキュバスが成功よと告げる。さすがは大聖女、これで井戸が使えると、誰もがほっと胸を撫で下ろすのだった。