第43話 聖ブリジット
まだ帝国なんてものがこの大陸に、存在しなかった遠い昔。王侯貴族が覇権を握ろうと、群雄割拠していた時代とも言う。滅ぼさないとこちらが滅ぼされる、そんな殺伐とした世界だ。
けれど唯一、手を出してはいけない領域があった。現在に残る法王領と、各地にある教会および大聖堂がそれ。暗黙の了解として王侯貴族は、教会への武力攻撃を差し控えていた。許しを請うための神聖な場所を、軍靴で穢してはならないと。
どんなに綺麗事を並べても、大義名分を振りかざそうとも、騎士や兵士の本分は人殺し。法典と教会を踏みにじれば、自分たちは正義を失うと分かっていたから。
当時ダーシュがいた地方は、敵軍の占領下にあった。
男も女も駆り出され、最前線での的役にされた。同胞を殺したくないという、心理を悪用した鬼畜な戦法である。老人と子供は奴隷扱いされ、鞭で打たれながら強制労働を課せられていた。
そんな中、占領軍の指揮官に面会を求めた女性がいた。この人物こそが、ダーシュの主人ブリジットである。有史以前から羊飼いは聖なる職業とされ、教会の所属となっていた。羊を食肉として扱う事から生臭の聖職者ではあるのだが。実は羊飼いこそが従軍司祭の起源だったりもする。
「ヤコブ指揮官に提案がございます」
「聖職者が軍人であるこの私に? 面白い、話しを聞こうじゃないか」
ブリジットは子供たちを奴隷ではなく、食肉を確保するための羊飼いにしてはと持ちかけた。指揮官とて人の子、上からの命令とは言え幼い子供を、鞭打ち働かせるのは本意じゃない。
「いいだろうブリジット殿、許可する」
「ありがとうございます、ヤコブ指揮官に神と精霊のご加護があらんことを」
子供たちを食肉確保の為に羊飼いとする、それは本当でブリジットは嘘など言ってはいない。ただし占領軍のため、とも言ってない。草の状態を見ながら放牧地を移動する、それが羊飼いだ。放牧に行きますと話せば、占領軍の検問所を突破できる。
ブリジットは体よく、子供たちに職を与え羊付きで占領地から脱出させたのだ。してやられたと悔しがるが、あっぱれと思う気持ちも半分のヤコブ指揮官。
上からの命令は非情にも、ブリジットを捕らえ処刑せよ。聖職者を手にかけるのかと彼は反発したけれど、結果は指揮官の更迭であった。更迭とは解任のことであり、首のすげ替えを意味する。
そして新任の指揮官はあろうことか、教会へ兵を差し向ける暴挙に出た。どんな時代にも己を神や精霊以上の存在だと、勘違いする愚か者は出てくるもの。だが司教とて黙っているはずもなく、聖堂騎士団に招集がかかる。敵兵との睨み合いが始まり一触即発の緊張が高まる中。
「ごめんねダーシュ、本当は私が貴方を看取る方なのに」
先に逝く私を許してと、愛犬の頭を撫でるブリジット。凌辱され処刑されるくらいなら、私は自らの命を絶ちますと微笑む。そして彼女は服毒自殺を図り、天に召されたのだ。
敵の隊長はブリジットの首を差し出せと要求したが、司教は一切応じず聖堂騎士団も引かなかった。慈愛を以て子供たちを救い、教会が戦場にならないよう自害の道を選んだ殉職者だ。その汚い手で触るなと断固拒否を貫き、敵を根負けさせ追い返したのである。
だが自殺も殺人と同じ、そう考える教会はブリジットの扱いに戸惑う。聖職者としては埋葬出来ず、けれど行いは正しかったからだ。そこへ彼女の亡骸を預かり小高い丘へ、丁重に埋葬したのは更迭されたヤコブであった。
彼は聖職者をないがしろにする国主と縁を切り、勇者よ集えと軍団を組織する。小競り合いを続ける戦場へ介入し、正義とは何ぞやと大陸をかき回したのだ。その勢力はどんどん拡大し、戦乱に疲弊する民衆をも味方に付けた。
旗印は眠れる小羊を両脇からサポートする、ラッパを手にした天使の構図。子供たちを救うため方便を使い、自害という形で殉職した聖なる羊飼いへの、敬意と感謝の念が込められている。
ブリジットに心を洗われ荒廃する世を鎮めようと、兵を起こし戦った元指揮官。その名はヤコブ・フォン・カイザー。彼こそがキング・オブ・キングス、初代皇帝その人でありシュバイツのご先祖さまだ。
『さっさと入ればいいだろう、シュバイツ』
「そうは言ってもさ、ダーシュ」
フローラがいる女王テントの前で、右へ行ったり左へ行ったりの女装男子。
絡まった糸を解き、誤解のわだかまりを解消したのだ。もう食事以外でテントに入っても、いいだろうにと呆れ果てるわんこの聖獣。
こんな時ブリジットはどうしただろうかと、思いあぐねるダーシュ。するとそこへ容赦なく、シュバイツの背中を蹴り飛ばした御仁が。
「なな、何すんだよキリア!」
「これからお茶の時間なの、ワゴンを中へ入れるのに邪魔よ」
もんどり打って倒れ込んだシュバイツを睨む、仁王立ちの兵站隊長さん。
三人娘と糧食チームが、シーフの二人とゲオルク先生が、テントを守る衛兵まで必死に笑いを堪えている。女王のテント前でうろうろは挙動不審もいいところ、実はみんなの注目を集めていたりして。
「これを持ちなさいシュバイツ、貴方に関係するものだから。兵站お針子チームの力作なの、フュルスティンに見て頂くから付いて来なさい」
「俺に……関係するもの?」
キリアはシュバイツが、テントに入る正当な理由を与えた。人をよく見ているなとダーシュは、恰幅のよい兵站隊長に感心しきり。さてお茶の時間ならば、自分もおやつをもらえる時間だ。行事用テントでケバブが待っているはずと、尻尾を振りつつうっきうきのわんこ聖獣。
「ほらお食べ、こいつも美味そうだな」
「おんっ!」
それは焼いた羊のスペアリブで、ブリジットがよく食べさせてくれたと思い出す。それにしてもこのケバブ、野営時はずっと行事用テントから離れない。どんだけつまみ食いしてるんだよと、胡乱な目を向けるダーシュである。
「これはブロガル王国の旗じゃないか、フローラ」
「そうよシュバイツ、軍団にクラウス候だけではなく、皇帝の血筋もいることを示したいの」
眠れる小羊を両脇からサポートする、ラッパを手にした天使の構図。テーブルに広げた自国の旗、それを掲げる事にどんな意味がと、シュバイツは考える。
分家によって背景色が異なり、ブロガル王国は黄色だ。選帝侯会議で皇帝と認められれば、それは高貴な紫色となる。
「次期皇帝の座を狙ってる分家の連中が、ざわつくだろうな」
「何もしないでいては埒が明かないわ、シュバイツ。悪いけど貴方の御旗を、あぶり出しに使わせてもらうわね」
フローラは皇帝どころか、帝国を屁とも思ってないんだと、つい破顔してしまうシュバイツ。有り体に言えば自分自身も、そんなもんどうでもよかったのだ。
領民あってこその王侯貴族、彼はフローラとその点で一致していると、つい嬉しくなってしまう。だがそれは壮大な賭けであり、帝国全土へ信義を問う大鉈を振り下ろす事になる。
「あの巨人が隊列を組んで現れたらどうすんだ」
「その時はその時よ、私には天運が無かった、そう思うだけ」
「そっか、ローレンの聖女が決めたならいいぜ、俺もとことん付き合おう」
キリアが旗を畳み頃合いと見て、ミリアとリシュルがティースタンドを置いた。三人娘がどうぞと、みんなの前にお茶を並べていく。
「ひとつ聞いてもいいかしら、シュバイツ」
「何だいフローラ」
「法王さまの前でも、その格好をするつもり?」
人質に出されないよう、うつけ者を演じていたシュバイツ。けれど戦場に於ける胆力は、隊長たちの誰もが認めるところ。クラウスとヴォルフも、武器をオールマイティーに使いこなせる彼には舌を巻いていた。
「貴方の女装趣味を、私は否定しない。でも時と場所は選ぶべきじゃないかしら」
「時と場所ねえ……確かにその通りなんだけど、俺は見た目で人を判断する奴が大嫌いなんだ」
「戴冠式が終われば法王主催の舞踏会で、私は社交界デビューするわ。知らない殿方と踊るの、正直なところ嫌なのよね」
「それってもしかして、俺をパートナーにしてくれるってことか?」
「皇帝の血筋として正装してくれるなら、もちろん男性の格好で」
グレイデルとキリアは、何も言わずお茶をすすった。レディース・メイドとファス・メイドも、表情を変えず役者に徹している。
残念ながら今のフローラ軍に、女王と釣り合う独身男性はいない。実はこれ、キリアの提案だったりして。下心を持つ王侯貴族がフローラに群がるのを、避けるために立てた苦肉の策。
加えて皇族であるシュバイツをパートナーとした場合、フローラに悪意を抱く者も動き出すだろう。ボディーガードとしても、彼はちょうど良い駒なのだ。
「いいぜフローラ。俺もひとつ頼みがあるんだけど、聞いてくれるかな」
「なあに?」
「仮面を取って、顔を見せてくれないか」
シュバイツはダーシュからこう言われていた、素顔を見せた時に女性は相手の反応を気にすると。そこで無条件に褒め称える男もいれば、正直な感想を口にする男もいる。お前はどっちなんだと問われ、心にもない事を言うのは本意じゃないとシュバイツは言い切った。
その場合はお前の反応と発する言葉次第で、相手の機嫌を損ねるかもなとダーシュは笑う。わんこ聖獣は世渡りが下手だなと言いつつも、白々しいヨイショの持ち上げを嫌う、賢い女性もいるから頑張れと背中を押していた。
「……へえ」
「へえって何よ、へえって」
「いやその、可愛いなと思って」
ぼっと顔を赤く染めるフローラと、伝染したのかシュバイツの顔まで真っ赤に。ぐっとお腹に力を入れる、グレイデルとキリア。表情を変えず役者に徹しようと、必死に堪えるメイド達。
心の奥底から湧き出し発した言葉はスペル、嘘偽りのない真摯な発露こそが人心を動かす。シュバイツはこれから照れながらも、フローラと気軽に話すことが出来るだろう。
「そう言えば後世になって、聖人に認められた羊飼いがいたよな、ヤレル」
「服毒自殺だけど、法王庁が異例の審問会議を開いたんだよな、ジャン」
糧食チームからお茶と茶菓子をもらい、救護テントでゲオルクとまったりするジャンとヤレル。それは興味深い話しだねと、ゲオルクがクッキーを頬張った。
中央に色を付けた飴を複数並べて焼いたもの、ステンドグラスクッキーと呼ばれている。それを手にした法王領出身のシーフ二人は、大聖堂にある絵画を思い出したのだ。
羊飼いが持つ先端が渦巻き状の、杖を手にする女性の絵。初代皇帝ヤコブが聖人に列するべきと、法王庁に働きかけた旨の資料が今も残っている。
優しく微笑むブリジットの足下には、忠実なシープドッグが寄り添う。それがダーシュであることは、誰も知らないし、知る必要もない。ましてや彼女が、シュタインブルク家の始祖となった血筋であることも。
新たな千年王国を築かんとする、使命を帯びたローレンの聖女。長き年月を経て集うべき者が、天の采配によりフローラの下へ導かれたのだ。




