第171話 天使の翼と強盗団(11)
仙観京で用いられた特効薬は、ナナシーの二次分裂から作られたものだ。意思を持たないアメーバが原料だったのは、現地で治療に当たった誰もが知るところ。だがシュバイツにあげた栄養ドリンクは、本体と同一人格のナナシー自身が提供したゼリーである。
「どうしたい、シュバイツ」
「いや、急に鼻血が出てきて、紙ナプキンくれないか」
「フローラが眠ってるから溜まってるんだね、あたいが抜いてあげようか」
「いや結構です伯母上」
「冗談だよ、伯母上はよしとくれと言ってるだろ、何か飲むかい?」
ラーニエが言うと、全く冗談に聞こえないから困る。眉を八の字にしたシュバイツは、手渡された紙ナプキンを丸めて鼻に捻じ込んだ。
「白のぶどう酒を、でもどうしてカウンターバーの中に」
「んふふ、スワンがいないから自分で好きな酒を作って飲んでるのさ」
どこをどう突っ込めば良いのやら。シュバイツは呆れて言葉が見つからず、さようですかと苦笑い。カネミツが俺にもくれと、ソルティドッグをご注文。ラーニエと並んでカウンターの中にいるバッカスが、待っててねと作り出しちゃうこの不思議。二人ともすっかり馴染んでて、バーメイドになっちゃってますがな。片や選帝侯の妃、片や神霊さまなんだけども。
「はい白ぶどう酒。ところでさっき、ナナシーの栄養ドリンクを飲んだよね」
「うん」
「あたいも作ってるとこ見たんだけどさ」
「うんうん」
「あれは母乳を絞るような感じだったよ」
「ぶふぉっ」
「つまり二次分裂じゃなくて、一次分裂の本気汁」
「げほっごほっ」
ラーニエの表現はあれだけど、言ってる事は間違ってない。そして好きになった相手でなきゃそんなことしないよねと、彼女は吹き出したシュバイツにおしぼりを差し出した。純粋で無垢な存在だからこそ、接し方を間違えないようにと付け加えて。
「側室にするんだろ、大事にしなよ」
「うん、分かってる」
さすがはラーニエ、女性の視点から鈍感なシュバイツに、カネミツが言いあぐねていたフォローを入れてくれました。しかし同一人格である以上、外道界に住む本体から好かれてるってことになる。
お城サイズのでっかいアメーバを頭に思い浮かべ、どうにも実感が湧かないシュバイツは炊事場に目を向ける。火属性を使えるようになったナナシーは、三人娘から料理を教わっているのだ。
「かんかかーん、かんかかーん、ほっほほっほー」
いつもと違う音頭に、糧食チームが腹筋を鍛えられているもよう。包丁を持つ手が定まらない助けてと、笑いの混じった悲鳴が聞こえて来る。中華鍋を振るたびにグレイデルを参考にした、たわわなおπがバウンドしてこれがまた圧巻。
「はいソルティドッグ、ところでカネミツ」
「なんだい? バッカス」
「あれは栄養ドリンクと言うよりも、桃源郷の桃を強化したオーバーポーションではないかしら」
「だろうな、俺もそう思う」
ポーションとは本来お料理一人前の分量、もしくはシロップなど液体一回分の量を指す。キリアも糧食チームもその認識で使っており、大盛りがオーバーポーション、小盛りや半量をアンダーポーションと呼んでいるわけだ。
ゲオルク先生はお薬を出す時に、患者の年齢と体重で量を調整している。マッスルお兄さんならオーバーポーション、お子ちゃまの場合はアンダーポーションってな具合に。
人間の体に魔素が流れると、生命力も体力もごりごり削られる。それを補完するのが桃源郷の桃であるが、ナナシーのゼリーが加わったことで即効性が付与された。
シュバイツが口にした量はグラス一杯だったけど、効き目が速く鼻血が出るほどに強い。それでバッカスはオーバーポーションと、敢えて言い表したのだろう。
「どうする、神界のお偉いさんに報告するのかい」
「いいえ、止めておくわ」
「ほう、そりゃまたどうして」
「ナナシーは絆を結んだフローラと、大好きなシュバイツにしか栄養ドリンクを作らないでしょ」
「お前さんもよく見てるな」
「カウンターバーから大食堂を眺めていると、誰の視線がどこを向いているか、よく分かるものよ」
「成る程ね、ただ飲んだくれてる訳じゃないってか」
栄養ドリンクを誰にでも作るとなったら、神界はきっと上を下への大騒ぎになるだろう。でもフローラとシュバイツ限定なら、固いこと言わないでしょうとバッカスは肩をすぼめた。
「それに神界がまた、ナナシーを取り上げるなんて言い出したら……」
「フローラが怒り心頭で、議事堂に隕石を落としかねんな」
「そう言えばあの時フローラは、ゴッドハンドをいくつ召喚するつもりだったのかしら」
技名がハックションに切り替わったから、あの場が大惨事にならなかっただけ。離脱のタイミングが掴めず、はらはらしたとバッカスは遠い目をする。その場にいなかったカネミツだけど、心情は理解できるから笑えない。
「二人とも、何のお話しかしら」
そこへやって来たのはヘカテーで、ドーナツが乗った皿を手にしている。そう言えば冥界の執行官は、超が付く甘党でございました。大食堂では休憩に入る歩哨のおやつも常備されており、ちゃっかりご相伴にあずかってるみたい。
「なるほど、ナナシーのゼリーにはそんな効果があるのね」
「意外と冷静なんだな、ヘカテーも」
「減らない魔力タンクを連れ歩いてる時点で、既にフローラは規格外なのよ、今更だわカネミツ。ルシフェルさまもグレモリーさまも、ふうんって笑うだけだと思う」
カスタードクリームが詰まったフレンチクルーラーを、ヘカテーは美味しそうにぱっくんちょ。まあねとバッカスが、違いないとカネミツが、それぞれのお酒をくぴくぴと。
なおラーニエとシュバイツはカウンター隅で、桂林が味見して下さいと持ってきたレバニラ炒めに驚愕していた。ナナシーの味覚が確かなのは分かっていたけど、上手に作れるかって言えば話しは別でござんしょう。ところがぎっちょん、普通に美味しいのである。先生役となった三人娘の指導もあるんだろうけど、お店で出せるレベルだったのだ。
――その頃、こちらはケルアの広場。
「この子がシドナよ、ゲルハルト隊長」
「アリーゼと絆を結んだシドナです、どうぞよしなに」
指令テントでリュビン隊長から紹介され、ぎこちなく握手を交わす騎馬隊長さん。魔人化も魂ぐるぐるも分かっちゃいるが、いざ自分がその対象になると思うと気持ちの整理が追い付かないようで。
「廃屋にいる連中が強盗団とは、まだ確定していない」
「限りなく黒に近いグレーなわけね? ゲルハルト」
「その通りだシドナ。奴らが倉庫と家畜舎に手を出した時点で、我々は軍事行動を開始する」
「その時に魔物が顕現すれば、私が天使隊を指揮して殲滅に加わります」
「よろしく頼む、リュビン隊長」
ジャン達からの報告で、もう黒だと言い切っても構わない状況ではある。だが現行犯でなければ教会は裁きを下せず、収穫祭を見物に来た旅行者だと言い張られたらそれまで。先手を打とうと血気にはやった自警団長を止めたのも、下手をしたらこちらが悪者になってしまうからだ。当然ながら天使たちも原理原則の下、強盗団が魔物と分かるまでは動かない。
「失礼いたします、ゲルハルト隊長」
「おおスワン、リーベルトからの報告を頼む」
「はい、強盗団の総数は二百二十で止まり、そこからは増えていません」
打ち止めかと、ゲルハルトは町の見取り図を広げながらペンを手にした。ジャン達がエセ商隊を潰さなかったら、二百五十になっていたわけだ。それが総数なんだろうと、彼はマーキングした廃屋にペンを走らせる。
問題は到着しない仲間を待つのか、それとも待たず収穫祭の期間中に事を起こすのかだ。穀物と家畜が集められ現金が飛び交うこのチャンスを、見過ごすはずもないなとゲルハルトはペンを置いた。
「収穫祭の最終日には、買い付けに来た商人を集め競りが行われる」
「人間界の大金が動くわけね、ゲルハルト隊長」
「いかにも、銅貨ではなく銀貨や大銀貨が広場の競りで使われるだろう。襲うとしたらそのタイミングではと、わしは睨んでおるのだリュビン隊長」
住民をひとりひとり脅して、金を出せなんて効率が悪い。騒ぎが広まれば自警団も警戒を強めやりにくくなるだろう。ならば大金が集まる広場を一点集中で襲う、わしが悪党ならそうすると、ゲルハルトは自慢の顎髭を撫でた。
天使シドナが、ふうんと目を細めた。アリーゼが自分を口説く時、相手がどう動くかよく見ている強者ねと言ったからだ。なるほど婚約者のゲルハルトも、ロングソードとハルバードの達人ではある。だがそこは歴戦の古参兵、敵情を分析する洞察力も高い。それで気が合いそうだわと、シドナは頬を緩めたのだ。
天使にも好みがあって彼女の場合、武芸に優れた者は好きだが、考え無しで脳筋な武人は大嫌い。そんな性格だから最後に人と情愛を結んだのは、なんと一万三千年も前のこと。だからブーメラン二刀流でチェスが強いアリーゼに惹かれたし、ゲルハルトにも好感を抱いたっぽい。
「入るんだな。あ、スワンみっけ」
「私に何かご用? ナナシー」
「髙輝と三女官が待ってるほ、ラム酒を見つけた屋台に案内して欲しいとか」
キリアからのご指名で、現地の酒類調達はスワンに一任されている。この地域特産のラム酒を髙輝はたいそう気に入ったようで、後宮へのお土産にしたいのだろう。意図を把握したスワンは、では後ほどと指令テントを出て行った。
「ところでナナシー、その皿はいったい」
「レバニラ炒めだほ、ゲルハルト。いっぱい作ったんだな」
「……はい?」
五感も含めた情報を本体と共有しているナナシーは、二号が向こうで覚えた料理を行事用テントでも作っちゃったのだ。皿に盛ってここへ来たのは、テントにいるゲルハルトたちにも味見をして欲しいから。
「よいお味よね、シドナ」
「ご飯が欲しくなりますわね、リュビン隊長」
「これは……また……」
「口に合わないかほ? ゲルハルト」
「いやそうではない、お世辞抜きで美味い」
むふんと鼻の穴を膨らませるナナシーに、料理の才能があるんだと驚きを隠せないゲルハルト。こりゃ二号はセイクリッド王国に着いたら、お料理しまくるんじゃあるまいか。触手をいっぱい出して調理する姿を、誰もが頭に思い浮かべたのは言うまでもない。
「町長もでしたか」
「これはシャーロン殿、やはりレバニラですかな」
「本日限定ですからね、行列に並ばない手はないでしょう」
レバニラを生春巻きの皮で包んだから、歩きながらでも食べられる。ナナシーが調子に乗って作り過ぎたもんで、糧食チームがラインナップに限定で並べたとも言う。これがまた評判で、行列は絶えず鍋の銅貨は溜まる一方だ。三人お嬢が台車に鍋を乗せ騎馬隊員を従え、ぱたぱたと買い出しに行く姿が視界に映る。
「言ったでしょう、採算は度外視ですと」
「生鮮食品で商いをしている町の住民は、さぞ潤ったでしょうね」
「近隣の農民もですよシャーロン殿、そのお金が今度は生活必需品を商う住民へと流れています。ローレンのご一行様には、店を毎年出して欲しいくらいですよ」
集まったお金を停滞させることなく、循環させて広く行き渡らせる。大聖女には優秀な商人もブレーンにいるんだなと、ムリル商会の御曹司はレバニラ生春巻きを味わう。調味料の製法は当然ながら、けんもほろろで教えてもらえないが。
「町長とは、しばらく会えなくなるかもしれない」
「ケルアとの取引を止めると仰るので?」
「違う違う、それは商会の優秀な部下に任せるから心配しないで欲しい」
「では、何をなさるおつもりでしょう」
「新生セイクリッド王国へ行こうと思う」
「国民が全くいないのに?」
だからこそ商売のチャンスがあるんだと、シャーロンは悪戯っぽい顔をした。セイクリッド王国の御用商人となれば、山脈の向こうは宝の山になるだろうと。取りあえずレバニラをもっと食べたいと、二人は再び行列に並ぶのであった。