第155話 ハミルトンとアンネリーゼ
伝承によれば神々は天地創造で、第七日目を休息に充てたとされている。そりゃ神さまにだって過労はあるから、のんびり過ごせる日を設けたわけでして。
人間界もこれに倣い、土曜の日没から日曜の日没までを安息日としました。職業によって違いはあるけれど、基本的に作業と名の付く行為をしない日だ。心有る人々は教会に足を運び、祈りを捧げ牧師の説話に耳を傾ける。
「お姉ちゃん、お船が空を飛んでる。あれって方舟だよね?」
「間違いないわ、世界は終末を迎えてしまうのかしら」
伝道の書には多くの説話があり、もちろん終末と方舟の物語も含まれている。安息日に家族と教会へ通った子は、案外お話しの筋を覚えているもの。野原で空を見上げる姉弟は、こうしちゃいられないと駆け出していた。世界が終わってしまうかも、一刻も早く家族に伝えなければと無我夢中で。
「僕たち死んじゃうのかな」
「そんなの知らない、でも教会に行かなきゃって事だけは分かる」
大空を駆けるテレジア号の存在は、人々の薄れかけていた信仰心と道徳心に嫌でも問いかける。終末が訪れた今、座して破滅を待つのか、悔い改め行動を起こすのか、自ら選び取れと。
「教会で何をすればいいんだろう」
「ただひたすら祈る、それしか思い付かないわ、ほら急いで」
求められているのは神と精霊の存在を信じ、祈りを捧げ己を律する心。善き者であろうとする意思が人間界に満ちたならば、神界のお偉いさんたちも認めざるを得ないだろう。ローレンの聖女に課された人類存続の条件は、この一点のみに尽きる。
「旅人や行商人の目撃によって、方舟の話しは大陸中に広まりつつある」
「予定通りよ法王さま、世界の隅々まで周知させるのだから」
「おかげで各地の教会に民衆が押し寄せておるぞ、フローラ」
「あら、それこそ聖職者の出番じゃない」
簡単に言ってくれるとパウロⅢ世は、手鏡の向こうで顔をくしゃりとさせた。飛行艇の建造を始めたと聞いた時から、こうなることは覚悟していたのだろう。そして聖職者が人々をいかに導くか、存在意義を問われる立場になることも。
「既に大陸全土へ早馬を出した」
「どんな内容で?」
「方舟におわすはローレンの大聖女、率いるは終末を回避するために戦う天軍。あれこそが人類の希望であり最後の砦とな」
これは嘘偽りも誇張もない事実であり、ど直球なのはむしろ清々しい。聖職者においては民衆に語り続け信仰の灯火を絶やすなと、法王は各地の教会へ檄を飛ばしたのだ。
「お願いしようと思ってたこと、もうやってくれたんだ。ありがとう法王さま」
「聖職者としての使命を果たしているにすぎん、礼には及ばんよフローラ。だが願わくば……」
「願わくば?」
「生きている間に新たな千年王国を、この目で見届けたいものだ」
ならとことん長生きしなきゃとフローラは微笑み、また連絡するわねと手鏡を閉じた。もちろん終末は意地でも回避してみせる、だがご高齢のパウロⅢ世にその約束は難しい。見せてあげられるだろうかと呟き、彼女は船長室の窓に目をやる。その瞳にはヘルマン王国の首都カデナが映っており、テレジア号は港に着水するため降下を始めていた。
「スワン、ウォッカをもう一杯ちょうだい」
「はいどうぞバッカスさま、ところでひとつお聞きしても?」
「何かしら」
「言葉づかいが男性っぽい時もあれば、女性っぽい時もありますよね」
ああその件ねと破顔し、酒を司る神霊さまは隣にいるラーニエことシルビィをちらりと見やる。これから王城入りするため、女性聖職者の装束を身にまとう相棒に。
まあ純白の法衣を着ていても、飲兵衛であることに変わりはない。グラスを手に炙ったタタミイワシをもーぐもぐ。醤油マヨに七味の組み合わせが、この人ツボにはまったみたい。
「高位精霊になると、雌雄同体になるのは知ってるでしょ」
「離島で海水浴をした時、リャナンシーさまから伺いました」
「私は元々男性型だったから、今でも言葉がごっちゃになるのよ。すぱっと切り替えられなくてね」
精霊は子孫を残す上で、お相手となる人間の性別を問わない。ゆえに女役も男役もこなせるよう、柔軟さと器用さが求められる。以前ヒュドラがダーシュに、女言葉を覚えなさいとアドバイスしていた。大好きなキリアが輪廻転生で、男子に生まれ変わる可能性だってあるからだ。
「あたいはどっちでもいいと、前から言ってるでしょバッカス」
「それ本心で言ってる?」
「もちろんさ、あたいは男も女もいけるクチ。遊郭の暗殺者はそうなるよう訓練される、だから素で接してちょうだい」
それがいちばん難しいのよねと、バッカスは眉尻を下げた。そして今度は男性の口調で、私の素はただの酒飲みだぞと開き直っちゃう。するとラーニエは目を線のように細くして、酒飲み万歳とグラスを持ち上げた。
「いいですねいいですね、私もお仲間に入れて下さいラーニエさま」
「もちろんよスワン、酒飲みは永遠に不滅、一緒にかんぱーい!」
カウンターバーが盛り上がってますねと、炊事場の糧食チームがへにゃりと笑う。兵士でごったがえす食事の提供時間でなければ、騒ぐとすっかり聞こえてくるからなんだが。これから練習を始める吟遊詩人の四人も、相変わらずねと苦笑している。
「みなさん、よろしかったらどうぞ」
「これは? カレン」
「まかないで作ったフルーツゼリーよ、リズ」
吟遊詩人のリーダーでライアーハープのリズベット、みんなからは愛称でリズと呼ばれている。彼女があちらのお三方には出さないのと聞いたら、カレンは酒の肴じゃないから問題なしと真顔で言っちゃう。ああ成る程と、ギターのセーラ、ヴァイオリンのイルマ、フルートのアンジーが、そうねそうだよねーと揃って納得しちゃうこの不思議。
「座ってカレン、私たちとお話ししましょう」
「良かった、私もそう思っていたところなの」
ちなみにカレンとイオラにルディは、糧食チームの仲間内で三人娘ならぬ、三人お嬢と呼ばれるようになっていた。いずれはウェイティング・メイドに昇格し、フローラを支える側近の一翼を担うからだ。お嬢にした理由は、桂林たちよりちょっぴり年上だからという配慮だろう。
「聖地巡礼を止めて、軍団と最後まで行動を共にするって聞いたけど」
「そうよ、フローラさまは快く受け入れてくれたわ」
「理由を聞いてもいいかしら、リズ。吟遊詩人は聖地を巡り、楽曲の創作をするものでしょ」
カレンの問いかけに、四人はその通りよと微笑む。各地の神話伝承に触れることで創作意欲が湧く、だから吟遊詩人は巡礼の旅に出るのだと。けれど環境が大きく変わり、彼女たちは方針を変更したんだとか。
「環境って?」
「この飛行艇そのものが、もはや聖地じゃない。新たな神話はこの船から紡がれるのよ、カレン」
「あっ」
従軍司祭は軍団で起きた事を、忖度無しに記録して法王庁へ送る。今その仕事を請け負っているのはラーニエことシルビィであり、受け取ったクロニクルライターが清書して後世に残すだろう。つまり飛行艇でこれから起こる事柄が、神話となり語り継がれるのよと、リズは楽しそうにスプーンを動かす。
「舞台演劇の鑑賞に例えるならね、アンジー」
「私たちはその最前列、かぶりつきにいるのよね、セーラ」
「新たな千年王国をいかになし得たか! 当事者として立ち会う私たちの創作意欲は膨らむ一方だわ、ねえリズ」
「どうどう落ち着きなさい、イルマ。まあそういう事なのよカレン、私たちが追い求めているのは、新たな叙事詩であり神話ってこと」
「いつからそう思うようになったの?」
「決まってるじゃない、邪神界へ突入した瞬間よ。あの時から人類は新たな一歩を踏み出した、私たちにはそう映ったの」
操舵室で舵を握る桂林から、間もなく着水しまーすと思念が届いた。着陸と着水が集中力を一番使うところ、揺れたらごめんなさいとは言うものの、フルーツゼリーのスプーンはかちゃりとも音を立てなかった。炊事場のあちこちから、お見事という声が上がる。煮込んである仕込みの鍋が、いっぱいありますゆえ。
「父上、ご無沙汰しております」
「会える日を心待ちにしておりましたわ、お父さま」
「ハミルトン、アンネリーゼ、二人とも元気そうで何よりだ」
「久しぶりだねフローラ、ずいぶんと大きく……あんまり変わらないな」
「ひどいわひどいわハミルトン!」
「お兄さま失礼よ、胸は年相応に……まあ」
「うぐぐぐ、アンネリーゼまで」
正門玄関前で従兄と従姉にいじられ、フローラがぷんすかぴー。クラウスといいフレンツェルの家系は、お茶目さんを輩出する血筋なんだろう。
城の主立った執事とメイドが、出迎えでずらりと並ぶ。だが言葉も出せず、みんな石像と化していた。理由はフローラたちが港からここまで、ワイバーンで来たからなんだが。クラウスからの書簡で知らされてはいるものの、やはり実物を見るとおっかないようで。
「こけっ」
「ここっこー」
首都カデナのエルンスト城が、ヘルマン国王クラウス・フォン・フレンツェルの主城である。意外と思われるかもしれないが、防衛機能を持たない白亜の優美な城だ。ただし首都の東西南北には、支城と呼ばれる砦が存在し防衛を担っている。特に南側の砦は岸壁から海にせり出しており、外洋からの侵略に目を光らせる要塞だ。
「皇帝陛下に拝謁できますこと、恐悦至極に存じます」
「俺のことは呼び捨てでいいぞハミルトン、アンネリーゼもな」
きょとんとする兄妹に、こういうお方だとクラウスが笑う。そして彼はマリエラとプハルツを紹介した後、ラーニエの手を取り二人に引き合わせた。この人なんだと、緊張を隠せないハミルトンとアンネリーゼ。
「私の名はラーニエ、洗礼名はシルビィよ。ルビア王国教会で修道女長を務めておりましたが、今は法王さまの命によりローレン王国軍に従軍する立場です」
聖職者モードだわとフローラが、ラーニエで行かないんだとシュバイツが、顔を見合わせ思念を交わし合う。もちろんそこは暗殺者にして移動遊郭の経営者、これで済ませるはずもなく期待を裏切らない。
「とまあ固い挨拶はここまで、メイド長は誰だい」
「わ、私です、イリスとお呼びください」
「あたいは底なしに飲むよ、酒蔵の状況は?」
「クラウスさまのお言いつけで、隙間もないほど樽で満たしておりますが」
「大変結構」
あまりの変わりように、使用人たちが目を白黒させている。最初に確認するのが酒蔵ですかと、呆れを通り越して笑うしかないフローラたち。ハミルトンとアンネリーゼはと言えば、理解が追い付かず呆然としてるよ。
「それとあたいのことは名前でいいからね、ラーニエで」
「王妃殿下となるお方にそれはできません。しかも赤のバナディ、せめて赤の君と呼ばせていただくわけには」
「うわ、背中がむず痒いからよしとくれイリス」
バナディとは、女性聖職者が額に付ける装飾のこと。赤色の菱形は最高位で司教に相当するが、事実上は大司教に等しい。女性は司教以上になれないからで、この呑兵衛は法王庁じゃお偉いさんに分類される。
「あたいわね、そうやって特別扱いされるのが嫌なんだ」
「しかしながら」
「お・だ・ま・り」
国王の後妻に入るならば地位と名誉に財産と、少なからず野心はあるだろうと使用人たちは考える。君主とその家族を思うからで、例え相手が高位聖職者でも値踏みはする。国母に相応しいか、王位継承争いを起こさない人物かを。
「縁あってクラウス侯に見初められたけど、これがあたいなんだ。もちろん時と場合によって、言葉と振る舞いは使い分ける。けどメイドのあんたたちとは、ざっくばらんな関係でいたいのさ」
取りあえず酒蔵で女子会をしないかと、ラーニエが満面の笑みをメイドたちに向けた。移動遊郭の経営者であり頭目なのだ、部下をまとめあげるのはお手のもの。どうもこの人、さっそくメイドの人心掌握に取り掛かったっぽい。