Epilogue~或る継母の手記~
私が3人目の娘の母親になると決めた時、喜びと希望しかありませんでした。
私の前夫は商社の仕入れ部門にいて海外出張が多かったのですが、余程のことがない限り娘たちの行事には有給休暇を使ってでも参加するような、子煩悩な良い父親だったと思います。ですが彼は、子供たちが小学校高学年になった頃、出張先で交通事故に合い、自分の足で帰って来ることはありませんでした。
心配性な夫は自身に高額な保険金をかけており、また仕事中の事故ということで会社からも多額の見舞金が支払われ、私たちが慎ましく生活していく分には十分すぎる程のお金を残してくれました。
しかしながら、家族4人で過ごしていた自宅に籠っていると、悲しみに支配されそうになった私は、気分転換のために商店街の弁当屋でパートをすることにしました。
娘たちも私を気遣って、進んで家事を手伝ってくれる優しい子達で、私たちには細やかながらも笑顔が戻りつつありました。
上の娘が高校生受験の年、商店街で畳屋を営む男性に初めて声を掛けられました。彼にはもうすぐ中学2年生になる娘が一人いて、1年前に妻を亡くしてから親子関係が悪化したようだと相談されました。日に日に娘さんが痩せていくのが見るに堪えないという彼の相談に乗るたびに、私はその娘に同情するようになり、ついには支えてあげたいと思うようになっていきました。そんな私の心情に気づいたのか、彼に娘と会うよう打診されて彼の家に行くと、そこにはボサボサ頭で肌色が悪く、ガリガリに痩せた女の子がいて、心臓を握り潰されたような痛みを覚えました。娘たちとそう年の変わらない年頃の女の子が暗い瞳でこちらをじっとりと睨んでいるのを見て放っておけなくなってしまい、私は彼の「娘の母親になってほしい」という提案を受け入れることにしました。
自宅に戻って娘たちに、彼女たちと同じ年齢で母親を亡くし心を閉ざした女の子がいること、彼女の力になってあげたいこと、娘たちにも協力してほしいこと等を話しました。心優しい娘たちは、「自分たちは姉妹がいたから辛い時期も乗り越えられた。もし自分たちが誰かを支えてあげられるのなら、是非協力したい」と申し出てくれて、その夜は3人でちょっとした決起集会のようになりました。
そうして始まった同居生活は悲惨な物でした。3人目の娘は全く家事ができず、服は脱ぎっぱなし、食品ごみは置きっぱなし、電気もテレビもつけっぱなしで、家庭の事には一切興味を持っていませんでした。このままでは将来困るだろうと教えてもなしのつぶてで、何度説明しても覚えてくれません。それでも、私は根気強く教えました。彼女はもう私の娘なのだからと。
父親の方も困った人でした。長く続く商店のため、固定客はいましたが、経営の方は苦手だったようで、借入を借入で返すことを繰り返し、負債がとんでもない金額になっていました。私は弁当屋のパートを辞め、彼に畳職人の技術を教えてもらいながら、健全な帳簿になるよう資産や負債を洗い直す作業を進めていきました。驚いたことにかなり前から、恐らく前妻が亡くなる直前まで、会社の借入金を着服しており、自宅にあった大量のブランド品の出所がようやくわかった気がしました。
私は借金返済の為、売れる物を片端から処分していきました。3人目の娘にはきちんと説明しましたが、泣いて拒否されました。それでも、将来の利息を少しでも軽減するために心を鬼にして進めていきました。
そうして会社が少し持ち直したころ、彼が事故を起こして帰らぬ人となりました。二人目の夫までもを事故で失った私は自分が呪われているのだと思いました。ですが、私には3人の守るべき娘と会社があります。せめて3人目の娘が継承するか選べるようになるまで何とか守ってあげようと誓いました。私が必死で仕事に没頭する間、娘たちには辛い思いをさせたと思います。でも、私は最善の選択をしたのだと思い込んでいました。
夫を亡くした翌年の夏祭りで、初めて3人目の娘が出店を手伝いに来てくれました。嬉しくて涙ぐむ顔を隣で接客する娘に見られたくなくて、客足が途切れた隙をついて奥に籠り、一人で少し泣いてしまいました。
そのぐらいの時期からだった思います、3人目の娘が変わり始めたのは。
まず、家事の一切を止めました。娘たちが言っても私が言っても全くやろうとしません。受験勉強でストレスが溜まっているのだろうと言う実娘達が、家のことは自分たちがやると言ってくれたので、私は任せきりにしてしまいました。
ところが、3人目の娘は大学受験に失敗してしまいました。図書館に行っているという言葉を信じていたのに、男の家に入り浸っていたのです。2人目の夫は保険金が少なかったので、私は彼女の為に頑張って貯金していたのですが、小さな町の畳屋の収入では浪人生を養えるほどのゆとりはありません。途方にくれていると、彼女は「結婚するので、もう進学はしない」と言い出しました。聞くと、祭りの日に素敵な人と出会ったのだと言いました。
正直、ホッとしました。肩の荷が全部降りた気分でした。大学生の娘達もアルバイトを辞めました。なんでも、東京の大学を目指していた3人目の娘に金がかかりそうだったから、水商売をして自分たちの留学費用を貯めていたとのことでした。娘たちがそんなに思い詰めていたことにこの時初めて気が付きました。もっとコミュニケーションの時間を取って、「あなた達にはお父さんの遺産があるから、好きに勉強して良いの」と言ってあげるべきでした。私たちは再び3人で暮らすため、昔家族4人で住んでいた自宅マンションに戻りました。
3人目の娘の結婚式の日、私は始めて彼女の旦那さんになる人を見ました。精悍な顔つきをした、頼りがいのありそうな人で安心しました。娘たちと3人で喜び合っていたら、最後に特大の爆弾が落とされました。花嫁からの手紙で、初めて3人目の娘に憎まれていることを知ったのです。彼女には私たちの気持ちは1mmも届いていなかったようです。私の心の中は怒りよりも悲しみでいっぱいになりました。会場から追い出された後、どうやって帰ったのかも思い出せない程に私たちは打ちのめされていました。
娘2人には誠心誠意謝罪しました。心優しい2人は愛情を伝えられなかった自分たちにも非があると泣いていました。
実母様ごめんなさい、私は継母失格です。私は娘さんを生活力のある人間に育てられませんでした。これからは彼女の夫が彼女をフォローし、支えてくれるのを祈り続けることを誓います。
愛しい娘達ごめんなさい、私は母親失格です。私はあなた達が悩んでいるときにきちんと向き合い、支えてあげることができませんでした。でも、これからはどんな時でもあなた達たけの味方になることを誓います。