閑話 その10
――パタン。
後ろ手に、今出てきたドアを閉める。その直後、俺はその場にズルズルとへたり込んでいた。
(……やっちまった……)
先程の自分の行動が、グルグルと脳内を駆け巡る。今更のように顔に灯った熱は、みるみるうちに耳の先端まで広がっていった。
キス、してしまった。クーナに。
俺がこんな行動に出るなんてまるで思わなかったに違いない、驚愕の表情がまだ目に焼き付いている。正直、俺だって自分がこんな事をするなんて思ってもみなかった。
だって、嫌だったんだ。あんな状況だったとはいえ、クーナに「あれはキスじゃない」と思われる事が。
俺は、本当は、あの時あった全部を覚えている。
血に塗れた唇の温もりも。
クーナに吐いた酷い言葉の数々も。
そして、この手でクーナの体を深く貫いた感触も。
あの時。クーナが俺に向かって、飛んできた時。
僅かに残った俺の本心が、一瞬、クーナを殺す事を拒んだ。それにより曲刀の軌道は逸れ、クーナは致命傷を免れた。
本当に、ギリギリのところだったんだ。クーナが今生きていられるのは。
(そんな目に遭わせた癖に、クーナの初めてのキスの相手は俺がいい、とかアホかよ……)
自分の我が儘さに心底呆れる。何が「お前の唇を初めて奪ったのは俺だ」だよ。本来ならそんな事する資格すらないだろうが、俺には。
このままクーナの元を去ってしまうのは簡単だ。けどそれだけは、どうしても躊躇われた。
それは恋慕の情や責任感もある。だがそれ以上に――。
「……いつまでもこんな所で座り込むな、邪魔だ」
不意に降ってきた声に、顔を上げる。するとすぐ横に、渋面を顔いっぱいに広げたベルファクトが立っていた。
「……いつからいたんだよ」
「お前が部屋から出てきて無様に崩れ落ちたところからだな」
「全部じゃねーかそれ」
醜態だ。こんなにハッキリとした気配に気付かないとは。いや、コイツには、それ以上の醜態をとっくに晒しちゃいるんだが。
「お前が出てきたという事は、クーナは目を覚ましたのだな?」
「ああ」
「……あの事は話したのか?」
ベルファクトの問いに、浮かれていた熱がスッと冷めていくのを感じる。俺は眉根を寄せながら、小さく首を横に振った。
「……いや。話してない」
「……そうか」
それきり、辺りに沈黙が降りる。その沈黙を居心地悪く思いながら、俺の脳裏には、昨日の出来事が蘇っていた。
「クーナ! クソッ……!」
俺にもたれかかるようにして倒れたクーナの体を、急いで身を起こして支える。曲刀が刺さったままの腹は今はまだ大した出血はないが、恐らくは曲刀を抜いた瞬間に血が溢れ出してくるだろう。
ベルファクトはまだ無事だろうか。いや、その前に……!
「……やれやれ。何度もこちら側に引き込むのも、楽じゃないんだけどね」
「テメェ……!」
いかにも面倒だと言わんばかりの物言いに、一気に怒りが沸き上がる。コイツだけは……コイツだけは絶対に許さねぇ!
俺はクーナを抱いたまま、即座に風の精霊を呼ぶ。だが同時に、ノアも俺に向かって手を突き出してきた。
「奴らを切り刻め!」
「無駄だ! 『絶対なる皇帝の威光』!」
風の刃を二人に向かって放つと同時、俺の体が三度、赤い光に包まれる。……しかし。
「っ!?」
「キャアッ!?」
俺の放った風の刃は、そのまま二人の体を切り刻んだ。予想外の出来事に、俺自身も思わず呆気に取られてしまう。
「……あの光を浴びたのに、俺のまま……?」
そうだ。確かに奴の光を浴びたのに、この胸に燻る奴への怒りは全く消える事がない。
原因には、すぐに思い至った。……クーナの血だ。俺の中のアイツの血が、あの光から俺を守ったんだ。
「……何、ノアを傷付けてくれてんの?」
不意に聞こえた低い声に視線を戻すと、ビビアンが無表情にこっちを見つめていた。その瞳は、激しい怒りを滲ませている。
「もういい。アンタ要らない。ビビアンが纏めて始末して……」
「……待て、ビビアン」
だがそんなビビアンを、隣のノアは片手で制した。そして小さく肩を震わせたかと思うと、突如、大声で笑い出す。
「ククク……アハハハハ! これはとんだ掘り出し物だ! こんな所で『神の器』を見つけられるとはね!」
「クリスタ……?」
訝しむ俺に、ノアは歪んだ笑みを返した。その笑みを、不思議と俺は、遠い昔に見たような気がした。
「今日はこれで引くよ。兵隊は置き土産にしていくが、君達なら問題なく処理出来るだろう。今はまだ、『神の器』は君達に預けておくよ」
「待ってノア、ビビアンはコイツら殺さなきゃ気が済まない! だってノアの体に傷をっ……!」
ノアの言葉に納得していない様子で、ビビアンが声を上げる。ノアはビビアンにゆっくりと顔を向けると、底冷えのするような冷たい声で言った。
「引けと言ってるんだ。……僕の言う事が聞けないのか?」
「……っ!」
ビビアンの顔が、一瞬にして青く染まる。その反応に満足したのか、ノアが再びこっちに向き直る。
「それじゃあ、くれぐれも、『神の器』は丁重に扱ってくれよ? また会おう、エルフの剣士」
「……ビビアンは、アンタ達のコト、ゼッタイ許さないカラ!」
そう言い残し、ビビアンを連れてノアは消えた。それを見届け、俺は深い息を吐いた。
奴らに追い縋る事は出来た。だがあの二人は恐らく、共にまだ隠し球を持っている。更にクーナの状態も考えれば、ここは黙って行かせるよりなかった。
そして気になったのはノアの残した言葉だ。奴はクーナをクリスタと呼んだ。
言葉の意味は掴めないが、解った事が一つある。――それは、奴らにとって、クーナが重要な存在に変わったという事だ。
「……っ、これ以上を考えるのは、先に色ボケ神官を助けてからだな。風の精霊よ、この場にいる武装していない全員を捕縛しろ!」
こうしている間も操られた民衆から襲撃を受けているベルファクトを救い、クーナに治療を施すべく、俺は傍らの精霊に命令を下した。
「……クリスタか。一体何を意味するのだろうな」
ベルファクトの漏らした言葉に、意識が現実に戻る。俺はわしわしと髪を掻き乱しながら、不快感と共に吐き捨てた。
「さぁな。何にせよろくでもねえ事は間違いあるまいよ」
「我々よりも異世界に詳しいお前でも解らんか」
「俺も奴らの内幕を、全部知ってる訳じゃないからな」
言いながら、思わず溜息が漏れる。ベルファクトにはここまで来たら隠せないと、俺の知っている総てを話してある。
「……守り切れるのか。お前に」
不意に、ベルファクトがそう言った。その目には、厳しい光が宿っている。
「お前がクーナにした事を、私はまだ許していない。例え操られたのだとしてもだ。あのような体たらくを見せたお前が、本当に、クーナを守れるのか」
「守るさ」
それに対し、間髪入れずに俺は答える。握り締めた拳に視線を落とすと、血の気が引いた白色に染まっていた。
「俺の命に替えても、アイツだけは絶対に守る。もしまたあんな無様を晒しそうになったら、その前に自分の首を掻き切ってやるさ」
「……その言葉、忘れるなよ」
「当然だ」
ベルファクトが俺を通り過ぎ、クーナの部屋のドアに手をかける。そして、こっちを向かずに言った。
「……異神とやらを倒す協力はしてやる。だがそれはクーナの為だ。決してお前の為ではない」
そう言い残し、俺を足でどかしてベルファクトはクーナの部屋に入っていった。俺は沸き出した自分への怒りをぶつけるように、拳を自分の掌に叩き付ける。
「……畜生っ……何が英雄『竜斬り』だ……っ!」
強く噛み締めた唇からは、あの時のキスと同じ、血の味がした。