第140話 病める時も健やかなる時も
「クーナ」
心地の良い声が、優しく鼓膜を揺さぶった。
何だか妙に温かい。冬はまだ、これからだと言うのに。
「おい、いい加減に起きろって」
再び降ってくる声と、体を揺らす微かな振動。あまりの心地良さに、私はまた夢の中へ落ちていこうとするけれど。
「……起きないと、また襲うぞ」
「ふぇ!?」
少し低い声で囁かれたその言葉に、一気に脳が覚醒する。バッと目を開くと、直後に、こっちを見つめる紫水晶色の瞳と目が合った。
「よっ。オハヨ」
「なっ……なっ……」
至近距離で悪戯っぽく笑う思い人――サークの姿に、私は一瞬頭が真っ白になる。な、何で!? 何でサークが、私のベッドで一緒に寝てるの!?
「……おいおい、まさか何も覚えてないとか言わねえだろうな」
何も言えず、ただ金魚みたいに口をパクパクさせるしかない私に、訝しげな目を向けるサーク。だだだだって! そう言われたって! ……あ。
不意に、サークの瞼が少し腫れぼったいのに気付いて。
私は、やっと、ゆうべあった総てを思い出した。
(……そっか。私、あのまま寝ちゃったんだ)
あの後。サークが私の腕の中で、声が枯れるまで泣いた後。
泣き疲れたサークは、私に縋り付いたまま眠りに落ちてしまって。そんなサークを引き剥がすのは、何だか忍びなく。
どうしようかと迷っているうちに私も眠ってしまったと、そういう事らしい。
心が落ち着いたところで、改めてサークを見つめる。瞼が腫れてはいるけれど、今のサークは、完全に私のよく知る、いつものサークと変わりない。
「……元気、出た?」
気が付けば、ついそんな言葉が口から出てしまっていた。そんな私に、サークは穏やかな笑みを浮かべ頷く。
「ああ。……お前のおかげだ」
「そんな、私は何も……」
「俺の気の済むまで、ずっと抱き締めてくれた。……久しぶりだったよ、そんなの。故郷を離れて以来だ。――ありがとう、クーナ」
そう言って少し照れ臭そうに笑うサークに、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。少しでもサークの心の支えになれた事が、たまらなく嬉しく感じる。
まだまだ子供で、未熟な私だけど。それでも私といて良かったって、サークが思ってくれたなら。
それはとてもとても――想いが叶うのと同じくらい、私にとっては嬉しい事なんだ。
「さ、そろそろ起きろ。……その肩の治療もしなきゃならないからな」
「え?」
改めてそう促され、私は思わず首を傾げる。するとサークの言葉を待っていたみたいに、右肩が鈍痛を放ち始めた。
(ああ……そうだった)
思い出した。ゆうべこの肩を、サークに思い切り噛まれたんだ。
「だ、大丈夫だよ、このくらい」
「駄目だ。結構深い傷になってる。ほっといたら、痕が残るかもしれない」
大袈裟だと私は首を横に振るけど、サークは頑として譲ろうとはしない。私は仕方無く、上半身をゆっくりと起こした。
「よし、待ってろ」
それを見てサークも起き上がり、手早く治療の準備を進める。そして慣れた手つきで消毒をし、包帯を巻いていく。
「……ごめんな」
包帯を巻く手は止めずに、ポツリとサークが言った。
「えっ?」
「お前にこんな傷を付けちまった……俺が弱いばっかりに」
「そ、そんな事ないよ!」
私は反射的に身を乗り出し、サークの言葉を否定する。サークの目が、驚いたように見開かれる。
「どんなに強い人でも、耐えられる限界はあるよ! 私だって、サークを支えなきゃって気持ちがなかったら、きっとゆうべのサークみたいに……」
「……クーナ」
「だから、お願い。辛い時は、ゆうべみたいに爆発しちゃう前に、私を頼って。……相棒って、そういうものでしょ?」
サークは、暫く無言で私を見つめ。それから、嬉しさと寂しさが入り交じったような笑みを浮かべた。
「……本当に、お前は、どんどん大人になってくな」
「サーク……」
「なら、もしまた俺がやらかしちまった時は……お前の胸の中で、泣いてもいいか?」
「……! うん!」
力強く、私は頷き返す。サークの役に立てる事。それが何よりも、何よりも嬉しくて。
起こってしまった事は、消えたりしない。きっと今回起こった事を、私はずっとずっと背負っていくんだろうけど。
サークと、半分ずつ痛みを分け合えるのなら。きっと潰れないでいられるって、そう思うんだ。
「今日は一日ゆっくり休んで、また明日から頑張ろう、サーク!」
「……ああ。そうだな」
笑い合う私達を、窓から射す陽の光が優しく照らした。