巨○は貧○を兼ねる
平日の午後6時過ぎ。夕闇迫るその時刻、小好道正は早足で歩いていた。
小好が早足で歩いているその道は繁華街のど真ん中。その道の両端には少なくない数の風俗店が煌びやかな原色のネオンと共に点在し、道の端々には通り過ぎる小好をジッと見つめる店員らしき人物が、あちらこちらに立っていた。小好に対し声を掛ければ風営法に引っかかるであろう事からも、何かを目で訴えるかの如く黙ったままに、軽い笑みを浮かべながらジッと見つめていた。
小好はそんな視線を一切無視しながらに歩き続けた。自分が独身であればいざしらず、嫁も子供もいるのにそんな店に用は無いのだと。
だがそんな小好とは反対に、どうみても妻帯者と思しき男達が当然と言わんばかりに、自らの意志でもって店へと入ってゆく姿を多く目にした。小好には妻帯者たる男がそのような店に出入りしている事が理解出来ない。故に風俗店が点在するその道を早く通り過ぎようと早足で歩いていた。
小好が一心不乱に繁華街から抜け出そうと歩いていると、とある店から1人の男性が出てきた所に何気なく目が行った。満面の笑みを浮かべたその男性、低めの伸長で小太りといった体躯に、薄い頭髪が少し脂ぎって光を放つほろ酔い加減の中高年男性。ふと小好と目が合い、思わず小好は足を留めた。
「おっ? 小好さんとこの旦那さんじゃないの。こんな所で会うなんて偶然だねえ……って、あれ? あれあれ? ひょっとして小好さんもこの辺の店に用があったのかな?」
ニヤニヤとしながら話すその男性は、小好の家の隣りの主人である大良宗有。大良が出てきた店は俗に言う「おっぱいパブ」。大良は小好の傍へ近寄ると、何処の店に行っていたのだと、どんな女の子が居たのだと、どんな事をして貰ったのだと、料金は幾らなのかと畳みかける様にして質問した。
「冗談じゃありませんよ。私がこんなお店に来る訳が無いでしょうが。仕事ですよ、し・ご・と。取引先の会社がこの辺りにあるから仕方なくですよ。私だってこんな所来たくありませんよ」
小好は憮然とした表情で以って答えた。いくら隣人とはいえ、自分がこんな店に来ていると疑われた事に苛立ちを覚えると共に、その様な店に出入りする大良に対して猛烈な嫌悪感を抱いた。
「ええ? ほんとかな~?」
「だいたい大良さんはこんな店に来ていて良いんですか? 奥さんに怒られないんですか?」
「大丈夫、大丈夫。俺はもう呆れられているから。財政的に迷惑かけなきゃ大丈夫ってね、ははは」
「ああ、そうですか。しかし、こんな店の何が良いんですかね」
小好は店の上、「飲み放題!揉み放題!」と高らかに掲げられていた看板を軽蔑の眼差しで見つめた。瞬間、小好はハッとした。翌々考えれば、そんな店先で大人2人が話し合っている姿を他人が見れば、その店に来た客にしか見えないだろうと。そして小好は直ぐに顔を隠すかのようにして下を向き、大良を置いて行くかのようにして歩き始めた。いきなり歩き出した小好に「ちょ、どうしたのっ!」と、大良も小好を追うようにして歩き始め、示し合わせた訳では無いがお隣同士、一緒に帰る事になった。
「は? 大きい事こそ全てでしょ? 小好さんて頭良いんでしょ? 良い大学出てるんでしょ? そんな事いってちゃ笑われちゃうよ?」
隣人同士、横並びでの帰路の道中、大良は憮然とした表情で言った。
「フッ、これはこれは。いやはやまさか大良さん、巨乳主義者だったんですか? いやはやなんとも」
「はあ? 何か可笑しいですか? 小さいおっぱいにどんな意味があるというんですか? どこに需要があるんですかね?」
大良は存在その物が不確かだった「貧乳主義者」と呼ばれる存在、それが目の前にいる小好なのかもしれないという事に驚嘆すると同時に、自分が崇める巨乳を嘲笑するような小好のその態度に、不快感を隠せなかった。
「いいですか大良さん、第2次世界大戦で旧日本帝国海軍は愚かにも大鑑巨砲主義を貫き、大和や武蔵なんて船を作ってしまったんですよ? 結果は当然ご存知ですよね? 大きければ良いなんてまだ言うんですか? 知った上で仰っているんですか? そもそも胸の大きさで需要の有無を語っている事が愚かだと私は思いますがね」
「いやいや、戦艦の話なんて関係ないでしょ? おっぱいの話でしょ?」
「いえいえ、小さい事は機動力がある、大きい事は邪魔であるというのが結果ですよ」
「いやいや、戦艦とおっぱいの大きさは関係ないでしょうよ。やだね~大卒ってのは理屈ばっかりで。そこに大きいおっぱいがある。それこそが大事でしょう? 小さいおっぱいに何の意味があるんですか? どんな需要があるんですか?」
「いやはや、おっぱいを大きさで語る事それ自体が愚かであるという事を申し上げているんです。分かりませんかね? 一寸の虫にも五分の魂。おっぱいであればそれだけで十分なんですよ。大きい事は良い事だなんて、クックックッ、おっと失礼。でもそんな事を言われたら流石に笑ってしまいますよ」
日も暮れた時間の閑静な住宅街。2人は自宅付近へと到着し、両家の中間付近に立っている街灯の下、ほぼ自宅の前で声量を抑えること無く議論していた。
「小好さん、あんた知らないでしょうけどアニメの世界じゃ巨乳ばっかりなんだよ? ヒロインっていや巨乳なんだよ? 文字通り溢れんばかりの巨乳なんだよ? まあ、私もアニメを見ている訳じゃなくて、娘が見ていたアニメの登場人物がそんなんばっかりだったってだけだけど……」
アニメとは子供が見る物であるという認識を持っていた大良には、1つ疑問があった。内容迄キチンと見ていた訳では無く、自分の娘が見ているその横で、チラリと画面に目をやると言った程度にしか見た事はなかったが、その子供向けのアニメの中、何故にこれほど巨乳のヒロインばかりが登場するのだろうかと、そう疑問を抱いていたのは確かだった。といっても、それは単に日本そのものが「民主主義」で有ると同時に「巨乳主義」であるという表れなのだろうと、そう漠然と思っていた。
「ふぅ、全く哀しい事ですね。憂う事ですよ。大きければ良いと思っている人達の多い事にね。大きい小さいは関係なく胸を愛でる。そういう情操教育が出来ていない証拠ですよ。そういった教育を受けていない人達が『巨乳こそ正義』と勘違いしているんでしょうね、哀しい事です、悲劇と言っても良い」
小好は俯き嘆息する。目の前の大良を嘆く。世の中の巨乳主義者を嘆き嘲笑う。
「いやいや、小さいのを喜ぶ人なんているんですか? 小さい事を嘆く人のが多いでしょ?」
「いやいや、大きいのなんて不経済もいい所ですよ。大きい事を喜んでいる方がおかしいんですよ」
住宅街の街灯に照らされながら、2人の大人による「巨乳と貧乳」の熱い議論は続いていた。
「そうは言ってもうちの娘もちっちゃいおっぱい、通称『ちっぱい』で悩んでるぜ? がははは。ちっぱいちっぱい、なんてね。がははは」
「はあ。悲しい事です。大良さんの御嬢さん、確か栄子さんでしたっけ? その栄子さんに伝えてあげたいですよ。小さい事を悩むなんて、太陽が沈む事を憂うのと同じ事だと。大良さん、こう言ってはなんですが、それは大良さんのご家庭の教育に問題があると、私は思いますがね」
小好は嘆息する。大良が巨乳に価値を見出している意味が分からないと、その大良の娘が自身の貧乳に悩んでいる意味が理解出来ないと。
「う~ん。例えがよく分かんないけど……って、そんな事言っちゃてさぁ、ほんとは小好さんだっておっきい方が好きでしょ? 貧乳なんか好きじゃないんでしょ? 男同士なんだから正直に言っちゃえばいいのにぃ」
大良には小好が嘘を付いているとしか思えなかった。貧乳を好きな男がこの世に存在するはずが無いと思っていた。だから小好も本当は巨乳が好きなのに、何かそれを隠したい理由があるのではないかと、そう思った。そうであるならば隣人でもあり男同士、相談にも乗るし、巨乳を好きである事を分かち合いたいと、そう心から思った。
「貧乳と言う言葉に呆れてものが言えませんよ。貧乳では無く『美乳』と言うんですよ」
そう言って小好は眼鏡の端をクイっと上げた。その眼鏡が街灯に照らされ、一瞬キラリと光った。
「『美乳』じゃなく『微乳』の間違いなんじゃないんですかね? ガッハッハッ。まあ、どちらにしても大は小を兼ねるって言うでしょ? だったら巨乳も貧乳を兼ねているって事ですよ。だとしたら巨乳こそ正義でしょ? っていうか神でしょ、仏でしょってなもんですな。がははは」
「いやいや兼ねませんよ。美乳のそれと大きいだけの乳と一緒にしないで頂きたい。というか正義って何ですか。それに小さい胸にこそ希望がつまっているんですよ。大きい胸はまさに空っぽですよ。ただの器ですよ。っていうか脂肪ですけどね」
大良は小好を嘆いた。巨乳の良さを理解しない、若しくは巨乳主義を隠し貧乳主義を装っているだけかもしれない小好を嘆いた。
小好は大良を嘆いた。貧乳の良さが理解出来ない、空虚な巨乳を崇める巨乳主義者の大良を嘆いた。
街灯の下、2人の大人による「巨乳と貧乳」の話は尚も続く。
「ねえ小好さん、おかしいと思いませんか?」
「何がですか?」
「男にはおっぱいという脂肪は無いが下には付いている」
「それが何か?」
「女にはおっぱいという脂肪があるが下には付いてない」
「だからそれが何だって言うんですか?」
「付いてる所を恥ずかしがり、付いてない所も恥ずかしがる」
「何が言いたいんですか?」
「いつからなんですかね?」
「だから何が言いたいんですか?」
「何故、女はおっぱいを見せる事を恥ずかしがるんですかね? 男は恥ずかしくないでしょ?」
「……なるほど、そういう話ですか」
巨乳と貧乳の話し合いはこのまま並行線を辿りそうだなと、大良はそう判断し別の話題へと切り替えた。もしかしたら小好には、巨乳主義である事を打ち明けられない何か特別な事情があるのかもしれないと、そういった事を察しての事でもあった。
小好は突然話題が切り替わった事に最初はイラついた。美乳の素晴らしさを目の前の男にグウの音も出ないほどに説きたかった。だが大良の巨乳好きを改宗させるのは骨が折れそうだなとも感じていた。相手も自分と同じように思っての話題切り替えなのだろうと察し、切り替わった話に乗る事にした。
「男の胸を見ても何ら問題は無く、女の人の胸を見るのは場合によっては犯罪ですもんね」
「う~ん。一理ありますね。興味深いですね」
「下は男こそ付いているから恥ずかしいというなら分かりますが、女は付いてない事が恥ずかしいって感じですよね」
「ふんふん、なるほどなるほど。興味深いですね」
「小好さんの仰る『美乳』なんて場合によっては男と変わらないじゃないですか? なのに隠し恥ずかしがるっておかしいと思ったことありませんか? 男女平等なら女も水着は下だけ履いてれば良くないですか?」
「ほーほー。なるほど。大変興味深いですね。そういう見方もあるんですね」
小好は今まで考えた事もないその大良の着眼点に感心した。男女という人間の単純ではあるが根本的な違い。原始時代では一切気にされる事は無かったであろうその事に、単なる巨乳主義の中年男と思っていた大良が口にした。自分は考えた事もないそんな事を考えていた大良に対し、頭の下がる思いであった。
「というか、おっぱいなんて所詮は脂肪でしょ? 私の下っ腹と同じ――」
ドグシャっ! ギュシャっ! と、そんな音が夕刻の住宅街に響き渡った。
ミドルキック。大良の妻、大良豊子が夫に対して掛けた技。豊子の右足が鋭く大良の脇腹へと炸裂し、大良はコンクリート塀にめり込んだ。
踵落とし。小好の妻、小好美栄が夫に掛けた技。美栄の右足が空高く上がり、そのまま踵を小好の頭頂部に炸裂させ、小好はアスファルトにめり込んだ。
豊子と美栄の2人は自宅前の公道に於いて、閑静な住宅街を一切気にせずにおっぱいの議論をしている夫達を見るに見かねて家から出てきた。そして背後から忍び寄り技を仕掛けた。
「小好さん、うちのバカ亭主がご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、大良さん。こちらこそご迷惑をおかけいたしました」
主婦感を前面に押し出すエプロンを着けたままの豊子が美栄に、普段着にしては着飾っているなと思しき服を身に纏う美栄が豊子にと、双方が頭を下げながら言った。
「この前、小好さんから頂いたアサリの佃煮、とっても美味しかったわよ。すぐに食べちゃった。あははは」
「あら、それは良かったです。といっても頂き物なんですけどね。オホホホホ」
美栄と豊子は仲の良い隣人である。そんな2人の横で、壁に頭がめり込んだ大良と、アスファルトに頭がめり込んだ小好の2人は、満身創痍の状態で以ってヨロヨロとしながらも、ようやく起き上がった。
「な、なあ……小好さんよ」
「な、なんで……しょ……しょうか。だ……大良さん」
「よ、世の中じゃあ、女性軽視とか女性蔑視とか男尊女卑とか言われているけど、うちらの間じゃ女尊男卑だよな」
「そ……そうですね。仰る通り、自宅を国家と見立てれば、私達の国は女尊男卑ですね。ですが、そんな事を公に口にすると、世界中の女性に殺されてしまうので、決して言わない方がいいですよ」
ヨレヨレのボロボロと、そんな姿の男達は、陽気な会話で和む2人の主婦、否、家に於いては首府と言った存在の横でそんな言葉を交わした。
「じゃあ、大良さん」と、爽やかな笑顔と共に小好が右手を差し出すと、「おっ、おう。握手なんて照れるな」と、大良は照れながらも小好が差し出した右手をしっかりと握リ返した。
「お隣同士、今後とも仲良く宜しくお願い致します」
「おうよ! こっちこそ宜しく」
2人は笑顔で以って固い握手を交わした。大小の違いはあれども、それを好きである事に相違は無い。それは素晴らしいという考えに相違は無い。そんな男達の固い握手が交わされた。そんな握手を交わす男達それぞれの首根っこを捕まえたそれぞれの妻達は、「とっとと家に入れ」と小声で耳打ちし、力ずくで以って男達を引きずりながらに、それぞれの家の中へと入って行った。
そして住宅街に闇が訪れると共に、静寂が戻った。
2020年08月28日 4版 誤字訂正他
2019年11月27日 3版 句読点多すぎた
2019年07月30日 2版 誤字他改稿
2019年05月06日 初版