離別
ベッドに横たわる男性の横に座る女子。
彼の手をただぎゅっと握りしめる。
青年はそのシーンをただ眺めていた。
眠そうな白髪頭の男は少女の金髪を撫で、胸に抱き寄せた。
「ヴェガ、愛しているよ」
耳元で囁く。
かつてあれほど大きかった背中は見る影もない。
ただかつてそうであった事実のみが残る。
「お父さん……」
少女は鼻の詰まった声をだした。
父親は幼子を宥めるように言う。
「案じなくていい、私は幸せだった。それに、すこし遠くに行くだけだろう」
「はい」
彼のセリフを聞いても、萎れている彼女は萎びたままだ。
男は視線を部屋の角に送る。
慣れたアイコンタクトだ。
しかし、彼は名を呼んだ。
「アルタイル、近くに来なさい」
こくりと頷く。
「ああ、先生」
命令され初めて側による。習慣のようなものだ。
窓から差す光が師の顔を照らす。
ああ、なんて青白い。
「この子のことを頼めるか」
死する間際も他の心配か。
頑とした意思を見せる。
「俺には無理だ。俺には資格がない」
片方の頰を釣って微笑む。
「ふふふ、お前は変わらないな」
「先生もな」
師は青年をはっきりと見つめた。しばし逡巡してからその言葉を口にした。
「お前は、諦めないんだろうな」
彼にはその言葉の意味が痛いほどにわかる。否わかってしまった。
ふとデネブは天井を仰いだ。
それまで埋まっていた娘が顔を上げる。
彼はすっと目を閉じた。
静謐な声だった。決別の時を肌で感じさせられる。
「二人とも、強く生きなさい」
「ああ」
「はい」
「夢を、追い続けなさい」
この人の瞼の裏にはなにが映っているのだろうか。青年はふと考え、霧散した。
「……ああ」
「はい」
二人の確かな返事を聞き、満足そうな顔をする。
その父親は、口の両端を釣って笑みを浮かべた。二人だけに向けられた、誰よりも優しい顔だ。
「お別れだ。私の自慢の子供達……愛して、ぃ……」
アルタイルの瞳には、するりと生気が抜けたのが視えた。
「お父さん」と哀しく叫ぶ少女。涙がとめどなく溢れていた。
既にそこには人の抜け殻しかなかった。
ああ、そうか、この人は死んだのか。
俺の運命を変え、新たな人生を与えた人。どこか不死めいたものすら感じていた。でもこうやって、あっさり病にやられて逝ってしまった。
彼の魂は部屋の窓から抜け出て、空に帰ったのだ。
彼はもう、『人』でなく『思い出』になったのだ。
戦場に無残に転がっていた誰よりも、デネブの死は明らかな実感を伴っていた。
ただ、ぼぉっと安らかな師の顔を見つめていた。
そして、唐突に切り出される。ついに破られる二人の沈黙。
「──あなたは」
なおも父の手に縋る少女は、くぐもった声を吐き出した。
「泣きもしないのね」
無表情で青年は言う。
「そうかもな」
呪詛みたいな声音だった。
「……許せない」
それが己に向けられた憤りであることも、本心であろうことも理解できた。
事実上家族であるのに、一方的に距離を置く兄弟への不満。その兄弟が父の愛を受けていたこと。そして、尊敬し愛した父が死んだこと。
きっと全てが折り重なっていた。全てが相乗して混沌としていた。
「そうか」
青年のその淡白な反応に、少女は何も言わなかった。震わせた肩だけで言わんとすることは伝わって来た。
青年は瞬きすらしない。
「俺は、この家を出る」
間髪なしのセリフに、「そう」とだけ返事が返って来る。
青年は寝室を出る。
その扉に背中を預けた。
そうしなければ立っていられそうになかった。
アルタイルは掠れた声で呟いた。
「おやすみ、父さん」