第一章 3
3
「何でそんな事をあんたに決められなきゃいけないのよ! 馬鹿! デブ! 馬鹿ァ!」
もうすぐ一四歳になるのに、咄嗟に出た罵倒は幼児でも思いつくものだった。
語彙力の欠片もない安直な罵声を力の限り、憎いあの男に浴びせてやった。
それなのにアイツは眉一つ動かさないし、動揺する素振りをまるで見せない。
結局のところ、お母さんのオマケである〝わたし〟対する『愛』なんて、アイツは微塵も持っていなかったんだ。邪魔だから捨てるんだ。そういう奴だ。
その場の沈黙に耐えきれずに家を飛び出し、息せき切って走り続けた。
嘘だ。途中何度か疲れて歩いたけど、それでも頭の中を真っ白にして『お母さんの樹』の下まで走り続けた。ちょっと歩いたけど。
何度かすれ違った町の人々に不審がられながらも、津波から逃れるようにその高台へと命からがらといった様子で駆け込んだ。流石に死ぬことは無いけれど、心を痛めつけられると、助けを求めるようにこの丘に逃げてくる。小さな頃から、唯一わたしが安息を得られる場所で、孤独感を慰めてくれるから。
ここはハザール王立共同墓地と呼ばれる霊園。
戦争で命を落とした兵士達や、身寄りのない死者を引受ける墓所だった。
多くの名も無き死者たちが眠る静閑な土地。その一角に、地上に降り注ぐ陽光を一身に浴びようとする、小さな黄色い花弁を広げた子ヒマワリの花畑がある。花畑を突っ切ると、子ヒマワリが批難してくるようにざわめくのだけど、妖精の言葉はわからないのでいつも気にしなかった。ここまで来ると、お母さんの樹はもう目前。
樹齢二〇〇〇年を超えると言われている、大きな大きな楠木が出迎えてくれた。
天辺の枝葉までは四〇メートル近く、地面に突き立つ幹囲は二五メートル。
苔むした樹皮や地面からはみ出る野太い根っ子のうねりは、他の一直線の木々よりも荒々しさがあるけれど、この樹が生きてきた歴史を表わしているようで神秘的。地元の人々の間では、ご神木として大切にされてきた。けどそれはもう昔の話。
今ではここに来るのはわたしくらいのものだ。
「ハァ――ハァ――」額に浮かんだ汗を拭い、息を整えながら、椅子のように曲がりくねった根っ子に腰を降ろす。
呼吸が落ち着くまでの間、木漏れ日を見上げながら呆けていた。
「わたし、やっぱりアイツの事嫌いよ。お父さんなんて呼べない。デブだし、毛深いし、臭いし――それだけなら別に許せるけど……それだけじゃないのよ。アイツ、ハザールの人達を売り買いしてたの。何の罪もないまま強制収容所に入れられた人達なのに、奴隷にして働かせたり、海外に売り飛ばしたりしてるのよ。ヤメテって言っても、『子供が口を挟むな』って言うばっかり。お母さんだったらあんな事、絶対許さなかったよね。お母さん、どうしてカレンを置いて行っちゃったの――」
この大楠の下には、お母さんが埋葬されている。埋葬といっても、遺体はアイツが勝手に火葬してしまい、その灰をここに埋めた。お金なら沢山ある癖に、埋葬先を共同墓地なんかにして、しかもお墓すら建ててくれなかった。
お母さんは敬虔なウィルク教徒だったのに、復活の日の為の肉体を焼かれてしまった。
アイツはわたしを愛してないばかりか、お母さんに対する愛も、美人だったお母さんのからだ目当てのぶつよくのみだったに違いない。
「お母さんは優しいし、皆から慕われていたし、魔術師で格好いいし、わたしのヒーローだけど、男を見る目だけは無いよね。あんな品性の欠片も何もないブタやろ――あ痛ッ!」
突然頭に受けた強い衝撃に首を引っ込めて悶絶してしまう。
何かと思えば、小枝が――それもチョット太めの枝が頭に直撃したようだ。
「もう、怒ってるの? 本当のことじゃん……。それにアイツに今日言われたんだよ? アルビオンに留学させるって。それも来月。そりゃあお母さんみたいな魔術師になりたいとは言ったけどさ、何の相談もなしに勝手に決めるなんてアリエナイよ。あのブタやろ――あ痛ッ! また!?」
流石にこれ以上のお叱りは貰いたくない。痛いしちょっと血が出てる。樹になって加減を忘れてしまったんだろうか――なんて事を思いながらその場から逃れ、大楠の反対側に回り込んだ。
そこは切り立った崖――というほどでもないけど、高低差があって上り下りには苦労しそうな高台になっている。でもそこからの眺めはとても綺麗で気に入っていた。
ノズリの町が広がり、遠くにある元ハザール王家の宮殿も見える。
昔王都だったノズリの景観は、見ていて面白い。
建ち並ぶ建物が、いくつもの円状に分かれていて、さらに大きな円状に並ぶ建物で囲んでいる。町全体が円で構成されている様は、やっぱり面白い。そこに北東から流れるジャコブ川が入り、ペケ(・・)をつけられているみたい。だけど満点の景色だ。
ところが、この景色を眺めると同時に胸が苦しくなる。
円状都市の東側にある寂れた町――ハザール自治区。そこでは、円状都市に住んでいたハザール人たちが肩身を寄せ合って慎ましい生活を送っている。そう言えば聞こえは良いけれど、実際には迫害されたハザール人たちが荒ら屋に押し込められて、糊口を凌ぐ生活を送っている。
一六年前のランドール共和国との戦争で、ハザール王国は負けて滅んでしまった。
だから今、あの円状都市に住んでいるのはランドール人たちが殆どだった。
お母さんは虐げられているハザールの人々の為に、教会で働いて、魔術師の知識を生かして薬の調合をしたり、食糧の援助をしたり、慈善活動に力を注いでいた。そんなお母さんは立派だと思ったし、たくさんのハザール人に感謝されている姿は、わたしの誇りだ。
その背中を追いかけて、魔術師になる事はわたしの夢だ。でも――。
「この国を出て行きたくないわ。ハザールの皆が苦しんでるのに、一人で出ていくなんてイヤよ。お母さんにも会えなくなっちゃうのよ? 全部置いていくなんてイヤ」
どうしたら良いんだろう。
「本当のお父さんに会いたいな。まだ生きてるのかな。生きてるなら、きっとこの国に居るよね。本当のお父さんだったら、きっとお母さんの事も大事にしてくれたし、ハザールの人達にも優しくしてくれたよね……わたしにも――」
そんな事考えてもしょうがない。走ってきたせいでどっと疲れてしまった。お昼も食べずに家を出たから腹ぺこだ――仕方ないから、イヤだけど家に帰ろうと踵を返したとき。
大楠の根本に、子ヒマワリの花束が供えられていることに気付いた。
「誰か来たのかな……でも、誰だろう」
ランドール政府の通達で、ハザール人は自治区から出ないように奨励されている。だからこのハザール人の霊園に、彼らが墓参りに来ることは滅多にない。
この地に眠る死者達への献花なのだとは思うけど、どうして表ではなく裏側に花を捧げたのだろう。極度の恥ずかしがり屋か、捻くれているのかはわからないけれど、それでも優しい人に違いない。
でもやっぱり心当たりもなく、モヤモヤを引き摺りながら家路についた。
きっと、お母さんなら知っているんだろうな、と思いながら――。