第一章 1
魔女と願いの扉
第一章
1
「この素晴らしい景観が伝わるでしょうか! 青々とした森林に囲まれる美しい湖が広がっております。湖面に揺らめく朝靄を裂いて、水鳥たちが羽ばたいて行きます! カメラさんバッチリ撮って下さい。とれ高ですニャ」
深い森にある湖を前に、映画撮影のスタッフが一人の女と景色を交互に抜いていく。
私はその様子を後ろから憂鬱に眺めていました。
とあるプラカードを握りしめながら。
「そしてこちらが、シンクレア大佐の別荘となっておりますニャ。どうでしょう、立派なお宅です。部屋数はなんと二〇もございます! いったい何に使うのかウチのような庶民には想像もつきません。カメラさん、ススッと下の方を撮して下さい。如何でしょう、これ、プールです。湖が目の前にあるのにプールを設えております。これらは全て、国民の皆様方の税金で出来ております! ごちそうさまでしたニャ!」
先ほどからカメラを前に舞い上がり、全方面に喧嘩を売っているオリーブ色の軍服を着た女。彼女は広義において人間ではあるが、狭義では人間ではない。それは頭の上に立つ二つの大きな耳と、臀部から生える尻尾からもわかる通り、猫科の半獣人。
そして、同じ職場の仲間でもある。
「さて、遅ればせながら自己紹介致します。ウチはアルビオン陸軍、第七独立連隊所属のケメット伍長ですニャ! 普段はシンクレア大佐の従兵兼、運転手兼、使用人兼、ホロホロ係をしています。そして本日ウチの相方を務めていただくのが、上官でもあるこのお方――ルイズ・エリオット・フォン・ピルメル・プルームプルハット中尉でございます!」
どうぞ、と彼女が手を差し出したかと思えば、カメラがこっちを向いた。
「えっ、ちょっと! 私も出るなんて聞いてないわよ!」
段取りもなにも元々無かった訳だけれど、彼女から連絡を受け、任務だと言われてのこのこ来てみればこの有様。映画の撮影をするなんて聞いていないし、出演するなどもっての他。アルビオン軍人としての、そして我が家の品位に係わる問題だった。
せめて前髪だけでも直さないとだし――そもそもこのプラカードはいったい。
「ルイズ中尉、何ををぐずぐずなさっております。髪を気にしたところで素材は大して変りゃあしません。冗談はその眼鏡だけにしてください。それに大佐は平日こそ朝が弱いですが、休日は早起きなのです。起きてしまわぬ内に始めませんと」
何かおかしい。眼鏡を侮辱された事はさておき、これは本当に大佐の命令なのだろうか。
「ケメット、これは本当に大佐が承知されたことなのよね?」
もしこんな事を無許可に執り行なっているとしたら大変な問題となる。
「なにをおっしゃるウサギさん。当たり前ではありませんか。大佐は常々言っておられました。『映画館では戦場のニュース映画ばかり』『この国には娯楽が足りない』『殺伐とした血生臭い映像ばかりを見せられ国民は病んでいる』『そんな状況をあたしは変えたい』『いつかコメディ映画を作って皆に笑顔を届けたいわ』――とッ!」
「その何処に命令要素が――」
「それではこちらにご注目ください!」
ケメットは強引に腕を組んでくると、パチンと指を鳴らした。
すると端に控えていたスタッフたちがプールを取り囲み、プールのゴミ除けに使われているブルーシートを取り外し始めたのだった。そして現れたのは――なんともおぞましい光景だった。
「ちょ、ちょっとケメット! なんなのよこれ!」
「何と申されても、から揚げにすると美味しいウシガエルさんたちですニャ」
「そうじゃない! 見ればわかる! だ、ダメよこれ! これ!」
「ダメも何も、これは予めルイズ中尉の魔術で二日前に集めていただいたものですのに」
「だからダメなの! こんなことに使われるんなら協力なんてしなかったわ!」
あっけらかんと言い放つケメットに詰め寄り、夥しい数のウシガエルで犇めくプールを指差した。これはなんというか――いけない。水面が見えない。
どうして私は悪魔召喚の儀式に手を貸してしまったのだろうか。
「中尉殿」ケメットはポンと肩に手を置いてきて、ゆっくりと首を振った。
「大佐の思いを汲み、それを実行に移すのが士官の役目、延いては下士官の責務。大佐の気持ちを無駄にしてはなりません。大佐が国民のために身を粉にして実現を夢想してきた計画を、中尉の一存で無下にしても宜しいので? 答えは否ですニャ。先日のことを覚えています? 大佐は遂に、ミラルーデンの墓所を捜し当てたのです。大量の創造器が出土し、国王陛下より大変名誉な勲章を授与されました。部下であるウチたちも、それに見合う大きな贈り物が必要なのです。夢見る少女のようにロマン馬鹿の大佐に、この映画というロマンを受け取って貰おうではありませんか。さあ、カードをしっかり握って。準備は整いました。では参りましょう――もう朝の六時を回りますのニャ」
これは……地獄への片道切符だ――。
そう理解していながら、あれよあれよと流されて大佐の別荘に足を踏み入れていた。
しかし考えてみれば、これは大佐を驚かせようという主旨の企画だろう。
きっとあの大量のウシガエルがプールを占拠している光景を見せて、寝起きのところを驚いてもらうというソフトな内容なのかもしれない。そうよルイズ、きっとそう。
だってそれ以外に危惧しているような展開を作る余地が無い。
そもそもこれは大佐が歴史的大発見をしたことで、『羽根付き獅子星銅勲章』を授与された事に対するお祝いなのだから。きっとみんなが笑顔で終わるに違いない。
この気持ちを知ってか知らずか、ケメットはずいずいと先へ進んで行き、二階へとカメラマンらスタッフ達を招き入れていく。
「ではいきます――おはようございますニャ~……」
寝室に手をかけたケメットは声を押し殺し、音を立てないように静かに扉を開けた。
すると、寝室の奥に繋がる細い通路の先に居た大きな影が蠢く。
ギョッとして動揺するカメラマンに、大丈夫だとケメットは自信たっぷりに身振りで答え、〝彼〟に近づいていく。
その影の正体とは、毛布の上に体を丸めて眠っていたヒグマ程もある巨大な灰色狼――ハティだ。
彼はこちらに気付くとその野太い首を持ち上げ、ケメットをジッと見つめて、箒のように大きな尻尾をわっさわっさと振り始めた。ハティは大佐の使い魔であるから、自分達とも面識がある。ケメットにいたっては餌やり係という立場でもあり、互いに獣要素があるからか、気心が知れた仲らしい。
「静かにするニャ。お前は何も見なかった。良いかニャ?」
悪党が手下に言い含めるような口ぶりで話しかけるケメットに、ハティは喉を鳴らして顔を伏せ、我関せずを決め込んでしまった。
「さあ、こちらが大佐の寝姿となっておりますニャ~……すやすやと良く眠っておられます。カメラさん良く撮ってください、この犬畜生のナイトキャップも。本邦初公開のお宝映像です。ファン必見ですニャ」
やりたい放題のケメットに言われるがまま、カメラマンは足元から舐めるように大佐の腑抜けた寝顔までをフィルムに収めていく。カーテンから差し込む朝日に大佐の金糸のような髪が照り輝いていた。怖いもの知らずというかなんと言うか、いっそのこと大佐にはここで起きてもらって一喝してくれた方が気が楽だった。
「ではいきます」ケメットはそう言うや否や、壁際のベッド下を弄ってするすると透明の糸伸ばしながら後ろに下がってきた。ピアノ線?
「大佐ァ! 朝ですニャ――ッ! おはようございマース!」
ケメットの馬鹿でかい声に掛け布団がビクリと揺れる。
大佐は身じろぎしながら緩慢な動作で足を使いながら布団を押しのけると、水玉模様のパジャマから伸びる白く艶めかしい足が布団を挟んだ。
「いま何時よ……まだ六時じゃない。あともう少しだけ――ん?」
眠たげな上に酒焼けした声で、壁に掛けられている時計に赤茶けた瞳を向けた大佐は、寝室に異様な数の人間が居ることに当然気付いた。そしてポカンこちらを見渡して上半身を起こすと――「今です!」とケメットがピアノ線思い切り引っ張った。
直後にガコンッ、ミシミシッ、ベキバキッ、と明らかに家屋が崩壊する音が聞こえてくる。大佐は自分の寝室に押しかけてきていた見知らぬ者たちと、壁から聞こえる騒音に困惑して「なに、何ッ――」と忙しなく周囲を見渡す。
そして、ベッドの置かれた側の壁が音を立てて剥がれ落ちた。
途端に吹き込んでくる風に大佐は息を呑み、朝の冷たい風と澄んだ空気を不本意な形で味わいつつ、美しい湖畔を強制的に堪能させられ、遂に危惧していたことが現実となる。
ベッドの片側の足が折れ曲がると、大佐はそのまま屋外に転がり落ちていった。
剥がれた壁が坂道となり、その先にはあのウシガエルで犇めき合うプールが大口を待っているのだ。
「いやッ、待って待って待ってッ――ケメェェェェエット! お前かァァァァアアッ!」
滑り落ちていく大佐は壁にしがみ付こう体勢を入れ替え、視界に捉えた私たちを見るなりそう叫んだ。それは激昂にも近い――いや、完全に怒髪天を衝いていた――声を上げ、それが悲鳴に変わる頃、ウシガエルのプールに呑み込まれていった。
なんと巧妙な仕掛けだろう。悪いと思いつつ舌を巻いてしまった自分が悔しい。
後先など全く考えていないであろうこの事件の主犯は、腹を抱えて大笑いしていた。
「ニャハハハハハハッ! 傑作だニャーッ! はしゃいでますのニャーッ!」
その後、カエルたちが輪唱を始めているプールへと急いでかけつけた。そこには濡れ鼠の大佐がひっそりと佇んでおり、プールから上がる気力も無いのか、茫然自失なのか、頭にウシガエルを載せた状態で固まっていた。
最後の仕上げだと、カメラの熱い視線と共にお鉢が回ってくると、もうヤケクソだった。
プラカードを掲げて恐る恐る、それでも努めて明るく、幽鬼のような大佐に声をかけた。
「だ、大成功~……」
ブチッ、という通常ではありえない音が聞こえた気がした。ウシガエルを頭から金繰り捨てた大佐は「ウガーッ!」と野獣のような奇声を上げて私の両足を掴み、プールに引きずり込んできた。
「いやァああアアアッ! 違うんです私巻き込まれたんです違うんです! 大佐待って――ごめんなさぁぁぁい! ブクブクブkbb……」
「もう一人はどうしたァ」
頭を押さえつけられ顔の半分以上がプールに沈みこんでいた。気持ち悪い。涙が溢れてくる。目の前をウシガエルが泳いでギョッとしてしまう。ちょっと水を飲んじゃった。
ごぼごぼと泡ぶくを発して痙攣気味に犯人を指差した。
「大佐! ウチ達からのお祝いに、コメディ映画をプレゼントですニャ!」
楽しんでいただけましたか? とケメットは意気揚々、純真無垢の笑顔でやってきた。
「ケメット、これを仕組んだのはあんたね。なぜこんなことをしたの説明しなさい」
「何をおっしゃるカエルさん! 大佐ご自身が仰ったではありませんか。『いつかコメディ映画を作って皆に笑顔を届けたいわ』――ッと! ナイスなリアクションでしたニャ!」
「ケメット、あたしはね――映画を作りたいと言ったの。いつ、誰が、コメディアンになってリアクション芸を大衆に晒したいなんて言ったんだバカタレ!」
その衝撃の事実を、その大きな耳で聞きとめたケメットは表情を凍らせた。彼女は楚々と襟を正すと、敬礼をしてから回れ右で方向転換、脱兎の如く逃げ出した。
「午後からサロンの予約がありますので失礼しますニャ!」
「そんなのが通るかァアアアアアアッ!」
∴ ∴
怒り心頭のシンクレアが不届き千万な部下を鬼の形相で追いかけ、湖の桟橋へと追い詰めたところで彼女の両足タックルが決まり、二人は仲良く湖へと落っこちていく映像がスクリーンに投射される。
白黒映像の中で織り成す彼女達の馬鹿騒ぎに、映画館を訪れた観客は大笑いしていた。
恒常的に戦時下にあるアルビオンにおいて、プロパガンダ映画の製作は戦意向上のために必要不可欠な物で、政治的に重要な役割を占めていた。
国民の同意が無ければ戦争はできないからである。
しかし、その殺伐とした業界に、戦意向上の代表格である賢天の魔術師が自ら出演したコメディ映画『シンクレアのドッキリ大作戦』が彗星の如く現れる。
戦場の華として知られる賢天の魔術師の、普段では見る事の出来ない意外な一面が見られるとして、瞬く間にその評判は広まった。短い映画であることも相まって、何度も何度も繰り返し映画館に足を運ぶ観客が後を絶たず、その年の話題をさらったのである。
更に、意図して出来るとは思えないほどリアルな怪演で、業界関係者を呻らせるなど高評価を得てしまった。今年の主演女優賞候補に名前が挙がるなど、シンクレアは不本意な形で注目を浴びることになったとか、ならなかったとか。
この成功に気をよくしたプロデューサーが早速第二弾を企画し、エージェントのケメットに接触を図ったとか、図らなかったとか――。
それはまた、数ヶ月後の話である。