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それは突然やってきた。
教室に入ると、自分の机に七色の絵の具でありとあらゆる罵声が書かれていた。周りに座る連中は、せせら笑いをしながら、確実に私よりも上の地位にいた。
それから始まった。私の地獄。
上履きに画鋲が入っているなんて、可愛いものだと思った。トイレに行けば上から水が降ってきたり、教科書は焼却炉に捨てられ、体操着は縫い合わせるのが困難なほど、引き裂かれていた。無視されるなんて当たり前で、担任さえ、この状況を無視していたんだ。
救いなんて、どこにもなかった。
放課後は、屋上に連れて行かれ女子全員から罵られた。罵声を浴びるくらいなら我慢できた、けれど、髪を切られたり、暴力に耐えるのには限界があった。一番面倒なのは、この傷たちを大人に説明しなければならないことだ。
どうしたの?
何があったの?
誰にやられたの?
先生は知ってるの?
イジメられているの?
知ったところで、私を助けてくれるわけでもなく…うちの子がいじめられるわけがないと、親はこの現実を受け入れてくれない。
だったら聞くな。
そう叫びたかった。
私は理解した。この世界に、私を救ってくれる人間は一人もいない。みんなが敵であり、みんなから蔑まされている。
ここは、終わり無き闇だ。
だから、私自らが終わりにしなければならない。終わらせれば、きっと楽になる。私は初めて自由になるんだ。
歩道橋から飛び降りたら、この闇が終わる。こんなに容易いことなら、恐れなどない。
あいつ等から解放されるのなら、喜んでここから降りよう。
「お嬢さん、お嬢さん」
私を呼び止めた声が、私の人生を変える。
「死なんかよりももっといい方法がある」
「いい方法?」
彼は私の闇を一瞬にして理解してくれた。そして、手を差し出してくれた。
「一緒に世界を終わらせましょう」
世界を、終わらせる?
微笑む彼とは反対に、私は眉間にしわを寄せた。
「死神使いというものを、ご存知ですか?」
首を振ると、彼は空を指差した。
「死者は天に昇る者と、地に堕ちる者に分かれます。そのどちらも、案内するのは死神。我々は、その死神を操る力を持っているのです」
死神?死者?何を言ってるのだ?
「お嬢さんにも、その力があります。私が解放して差し上げます」
「死神使いになって、どうするの?」
彼は笑った。
「決まってますよ。お嬢さんが殺したい人間を、好きなだけ殺せばいいんです。この世界を終わらせたいならそうすればいい。死神に不可能はない…我々にも不可能はない」
「でも、殺すなんて…」
彼はゆっくりと私に近づき、私の頬に手を当てた。その冷たさは、私の心と一緒だった。
「可哀相に…こんなに傷ついているのに、誰からも救われない…でも大丈夫、私は理解しますよ。お嬢さんの憎しみも、怒りも、闇も…」
涙が、頬を伝った。
「そうだ。お嬢さん、お名前は?」
彼しかいない。
「…矢藤御…楓」
もう、この人しかいないと思った。
「楓…いい名前だ。初めまして、楓。僕は…」
だから、握りしめた手を、絶対に離さないとここで誓った。
「浪岡烈。よろしく」
暗闇を駆け回るのは好きだ。夜風を切りながら、前へ進む、哀れな人間を見つけに。
「ちょっとぉ!少しは休んでよね、江利意!!」
「泣き虫、お前に合わせてると夜が明ける。ついて来れないのなら、消えろ」
泣き虫。そう呼ばれた少女の本名は、凪津祥子。新命宿の中では、みんなから泣き虫と呼ばれている。
入隊当初から、凪津は泣いてばかりだった。
「そ、そんな言い方しないでよ…」
今も、目に涙を溜めている。
江利意には彼女の性格が理解できない。江利意の家は代々、退治屋として活動してきたエリート家系。弱音を吐くことも、ましてや泣くことなんて許されなかった。だから江利意は、感情を殺して生きてきた。喜怒哀楽、全て捨てることで、強さを手に入れた。
死神使いを壊滅させる為に、それくらいどうってことなかった。
けれど、時々思う。悲しくて泣いたり、嬉しくて笑う凪津を見ていると、これで良かったのかと、疑問に思う自分がいるんだ。
「置いてかないから、泣くな」
優しい言葉なんて滅多に言わない江利意だったが、凪津にだけは、こんなことを言うことがよくある。
「江利意…何か、来る」
西の空を見つめる凪津の目が、震えだしていた。
「凪津、下がれ!」
江利意があと一瞬でも凪津を押すのが遅れていたら、確実に二人は潰されていた。
この、無数の死神たちに。
「ハッロー!ご機嫌麗しゅう、諸君!」
骸骨のように細い身体、狐のようなつり目、直毛の金髪、いつも長い舌を出している口。江利意が大嫌いな死神使い。
「晒之っ」
「やっぱり俺様と貴様は戦う運命という糸で結ばれてるんだろうなぁ!だってそうだろ?俺様が騒ぎたい時にはいつも貴様が現れる!」
「そんな糸、即刻切りたいね…」
江利意が取り出しのは、鞭。
「ここ一体を任された一人として、私も戦います!」
凪津の手に現れたのは、巨大な鋏。
「やれやれ…ホント、貴様等は目障り以外の何者でもないねぇ」
今宵も、戦いが始まる。