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サイレン  作者: 森本泉
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オートクチュール

『オートクチュール』


「うーん、むずかしいなあ…。」

 サイレンが頭抱えていた。私は悪いことしたなあ、と思ってちょっと後悔したんだけど、でもどうしようもなかった。

「俺そんなふうに絵を描いたこと無いからなあ。難しいなあ。」

 7月15日は私の21歳の誕生日だ。そのことを話したらサイレンが

「プレゼントやるよ。何がいい。」

 と聞くので、つい

「じゃあ私のために絵を描いて。」

 と言ってしまったのだった。

 今サイレンは頭を抱えている。これは私の軽率だった。ちょっと考えたら分かることをちょっと考えずに言ってしまった私が悪かった。

 サイレンは絵を描くことをシステマティックに考えていない人だった。商業的に絵を描くことをゴールに設定しているわけじゃないし、だからこそ正規に絵の勉強をしたわけでもない。デッサンとか構図とか絵を描く上で必ず考えることも考えない。必要に駆られて絵を描いているわけじゃない。

 まったく自分が好きだから描いているだけだったのだった。

 いつだって自分の好きなように描いているし、好きに描きたいようにしか描かない。だから私はそんな感じで、いつものように好きなように一枚だけ描いてくれたらいいんだと思っていたのに。

「うーん難しい。」

 サイレンは頭抱えている。どうもサイレンにとって、オーダーされて絵を描くということはちょっとした事件らしいのだ。

「いーよサイレン。いつもみたいにいろんな色使ってぱーっと描いたようなので。それがサイレンらしいもん。そういうのが一枚欲しいのであってね。」

「いいや糸尾、簡単に言ってくれるなよ。確かに俺は絵の才能は無い。糸尾にしてみたらいつもぱーっと描いているように見えるんだろう。でも俺は結構いつも神経使って描いてるんだっ。どの一枚も結構真剣なのっ。」

 いつに無く強い口調である。相当悩んでいるようだ。

「じゃあ、やめとこうか。何か他のものリクエストしようか。」

「いや、いやあ…。いいよ。描くよ。大丈夫だ。描けるよ。せっかく誕生日だからな。描けなくてどうすんだ、俺。うん、たまにはこんな風に絵を描いたって。」

「いや、だからそんな深刻に考えなくても。」

「いいや、糸尾、見えないかもしれないが俺は絵に対して常に全力投球なんだ。そんな急に手抜きしろって言われても、出来ねえよ。」

「いや、手抜きしろってことでは…。」

 なんだなんだ。転がり出した雪球はだんだんあらぬ形に成長していくぞ。サイレンは抜け出せないスパイラルにはまってしまったらしい。はめてしまった私としては、はめた私の方もだんだん焦り出した。まずい。

「糸尾、悪いけどちょっと引きこもって良いか、たぶんなんとかなると思うんだけどなあ。」

「うん、いいよ…。」

 そこで私たちは別れた。サイレンは本当に引きこもってその一枚に集中しているみたいで、学校に出てこなくなってしまった。生活が掛かっているんだからバイトには行ってるんだろうけど、大丈夫かなあ、へまして怪我しないかなあ、ちゃんと食べてるかなあ、体壊さないといいけどなあ、とその間私も気が気じゃなかった。

 気がついたら7月になっていた。サイレンとは4月に今のゼミが始まった時に出会ったけど、なんだかんだでいつも一緒にいた気がする。そしてそれは、ひょっとしてとんでもないことだったのかもしれない。

 私はいつのまにかサイレンが自分の近くにいることが当たり前だと思っていたみたいだ。サイレンがどう思っているのかは不透明。しかし何人かの女友達は顕かに私たちが付き合っているんだと思っていた。

 ほんとは違う。

 そしてサイレンの男友達がはたして私のことを

「サイレンの彼女」

 と認識しているかどうかは、確認不可。サイレンはきっとそういうことを気に留めないし、私としてもあえてそういうことをサイレンにはちょっと聞けない。

 それで、ともかくにもサイレンと会わなくなってから私は毎日がすごおおくつまらなくなった。サイレンが居てくれると一日が如何に退屈しないかいやでも自覚した。

 確かに、サイレンが居ても居なくても私は文章を書いているだけだし、サイレンだって絵を描いているだけだし、それはお互い一人でいても二人で居ても同じなんだろうけど、その同じことをしている時に隣に誰かいて話しかけたら反応があるというのはなんて希少なことだったんだろう。     

 こういう人間関係はもうないだろうな、と私は思う。

 多分、私はこれからも生きる。40年は堅い。今後40年生きるとなればそれは今まで生きてきた3倍を生きるということだ。今まで生きた時間の3倍となればそれはちょっとした長さだ。

 でも駄目だ、と思う。

 こういう人間関係はもうない、と私は思う。

 どういう、というと正確に記述することは出来ない。でもサイレンみたいに、ちっとも気が合わないのにお互い相手のことを絶対に否定しない、お互い相手を否定して自分の方が正しいんだとは言わない存在。でも気が合わない。でもそういうことは大した問題じゃないと思える関係。うん、ない。そんな人は居ない。

 この2週間ほどの時間を、私は物凄く無為に、物凄く学生的に過ごすしかなかった。真摯に講義を受けて真摯にレポートに取り組んで真摯に友達と遊んだ。それ以外にすることが無かった。

 もしかしたら、このままサイレンとは無かったことになるんじゃないんだろうかと私は思った。2週間電話もメールもしなかった。

「調子どお~」

 なんて能天気なメール打つことを、その間の空気が赦さなかった。サイレンの方も2週間何も言ってこなかった。あまりにも完璧に、日常からサイレンの気配が消えてしまったので、私はこの3ヶ月ほどのサイレントのやりとりが、

「はい、ウソ。」

 と言われても、案外すんなり受け入れられる気がしていた。

 でも誕生日を1日過ぎた木曜日、夕方の講義がやっと終わってうちに帰るとマンションの1階のコインランドリーの横にサイレンが座っていた。もう見るからによれよれで、目のしたがげっそりしていて、だから私は思わず、

「何が食べたい?」

 と聞いた。

「コーラと焼きソバ。でかいの。」

 サイレンは即答した。良かった、人間食欲があるうちはそんなに参っていない。私はカバンから部屋の鍵を出してサイレンに渡した。

「302だから。上がって待ってて。カップ焼きソバでいいの?」

 うん。とサイレンは頷いた。

「コンビニ行ってくるからやかんでお湯沸かしといてくれるかな。」

「糸尾。」

「何?」

 立ち上がったサイレンが弱弱しく言う。

「何号室だっけ?」

 サイレンは新聞紙で包んだ平たいものを大事そうに持っていた。

 もしかしたら、ずっとまともに食べてないんじゃないのかな。

 大盛り焼きソバを食べているサイレント見て私は心配していた。サイレンは食べ方は綺麗なんだけど、いつもの倍くらいのペースで大量のソバを咀嚼している。この2週間どんな状態だったのか、うーん、聞き辛い、ていうか聞けない。

「糸尾、すまん。」

 サイレンは空になったポリ容器の前で手のひらを合わせた。

「いいよ、そんくらい。気にしないで。」

「いや、違うんだ。焼きソバの話じゃないんだ。」

 サイレンは私に新聞紙の包みを差し出した。

「これ。くれるの。」

「今はこれで勘弁してくれ。」

 新聞紙は二重になっていて、中から額縁が出てきた。結構しっかりした額縁だ。サイレンの財力だからそれほど高価なものではないだろうけど、でも額縁だ。サイレンが今まで自分の描いた絵を額縁に入れているところなんて見たことも無い。

 中に入っているのは真っ白い紙だった。

 私は意味が飲み込めなくてそれをじっと見た。何か斬新な手法なんだろうかと思ってひねったり回したりしてじっと見た。ひょっとして北極にいる白熊の親子が描いてあるのかもしれないと思って紙の上にその輪郭を探した。

 でも、どう見方を変えても、それはただの一枚の紙だった。その上にペンとか絵の具とか、何かが刷かれた痕跡は、やはりどうしても無かった。

 私はこの贈り物に対して自分がどういったらいいのかを考えた。

「糸尾、すまん。」

 サイレンがまた言った。

「糸尾の名前って、稲を積む、だろ。」

「うん、稲を積むと書いていづみ。」

「だからそういう絵を描こうかなと思ってたんだ、最初はね。」

「稲穂が頭垂れてるような感じ?」

「うん、田んぼとかそんなようなの。」

 でもサイレンは結局なんにも描けなかったのだと言う。

 イメージが決まってからサイレンは画板の上に止めた一枚の画用紙に向かった。

 でもどうしても描けなかったんだそうだ。

「なんでだか分からないけど、描けないんだ。」

 サイレンは絵の具箱を出してきてパレットを開いて絵筆を握ったまま、画用紙を見つめていつまでもいつまでも沈黙していた。

 週に3日は最低でもバイトに行かなくてはいけなかった。ご飯を食べたり風呂に入ったりもした。不確かだったけど睡眠も取った。

 でも一向に絵を描き始められる気配は無かった。

「こんなに長い時間全く絵を描かないなんて初めてだった。」

 私が文章を練ろうとした時に割りとすんなり言葉の列が浮かんでくるみたいに、サイレンも絵を描くとき絵筆に何色を取ってどんな形をなぞるかがいつも明快に頭に浮かんでくる。

 でも今回ばかりは駄目だった。どれだけ待っても時間を掛けても、頭の中は真っ白に沈黙しているだけだった。

「初めてだったけど、でも悪くなかった。」

 やがてサイレンは、その白と、沈黙と会話しているような気になっていたという。真っ白は無言だったけど、それが表現している意味は分かっていたのだ。

ああ、俺にはこの絵は描けない。

 サイレンはそう悟った。

「でも一生描けない訳じゃないと思うんだ。俺は多分、いつになるか分からないけどいつかはこの絵が描ける。今描けないだけなんだ。俺はいつかこの絵が描ける時が来たら、きっとそのことが自分で分かると思う。その時が来たら、地の果てからでも糸尾のところに帰ってきて、でこの絵を描くよ。それまで、この額縁持っててくれよ、糸尾。白紙のままで悪いけど。」

「ありがとう。」

 なんて言ったらいいかわからなくて、私はとりあえずそう言った。からっからに乾いた頭の中で、

 なんだろう、すごいうれしいぞ。

 と思っていたんだけど。


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