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サイレン  作者: 森本泉
5/9

寝癖

『寝癖』


 朝から雨です。

 日曜日はバイトだといっていたサイレンも、今日は休みになっているだろう。西日本一帯に前線が停滞していて、思いやりに欠ける雨が昨日から続いていた。

 そしてそのせいだけではないんだけど、私はもう決定的に鬱々としていた。自分の心の置き場所が見出せずに、私は不安だったのだ。

「これは恋だろー、やっぱり。」

 口に出していったらなおのことどうしようもなくなってしまった。

 サイレンに対する私のこの気持ちは恋なんだろうと思う、やっぱり。私はサイレンに惹かれている。

 でもそれだけだ。

 その先に続いていくものが無かった。

 このまんまで居たいのだ。都合がいいだけかしれないけど。

 だってサイレンの人生と日常は紙の上にしかない。彼はそれ以上のことに情熱を注ぎ込めないのだ。そのことはしっかりと分かっているつもりだった。

サイレンの恋人は絵筆で、色を塗ることが興味のすべてだ。これが色情か。いや違うけど。ああ。

「絵筆相手に失恋してどうする。」

 自分に突っ込みを入れたらものすごく情けなくなった。

 休日で、雨で、やることもなくサイレンを思っているとものすごおく寂しい気持ちになった。でも、しかたない。

 サイレンが私に対して何も思っていないのは多分確かだ。確かなんだと思うけど、それ以上に私もサイレンに何か期待する気持ちは一切なかった。

 私が思っているのは、単にこのままでいたい、ということだけである。今以上に、進んだり引いたりしたくなかった。

「それはちょっと好い加減すぎるんじゃない。」

 昨日相談した同じクラスの友達には言われてしまった。

 でも、ただ私は。

 サイレンが絵を描いているところを見ていたいだけなのだ。私はサイレンが絵を描いているのを見ているのが好きだ。だって面白いんだもん。楽しんで描いてるっていう空気がガシガシ伝わってくるんだもん。言うなればそういうところが好きだった。

 私は、サイレンが描いたものを世界で最初に見える人間になりたかった。

 いつか見てくれよ。

 サイレンにそう言われたのはとても嬉しいことだった。もっとたくさんサイレンが描いた絵を見ていたいと思った。それ以上に何も望まない。

 でも。

 6月の雨に打たれて私は逡巡していた。

 なんとかして伝えることは出来ないだろうかと。朝からそればっかり考えているのだ。

 そんなことしても無駄なことは分かっている。でも伝えたい。伝えたって何もならないけど。彼女になりたいか?別にそんな気持ちは無い。

 サイレンの下宿がある場所は聞いていた。

 行ってみようかなという気持ちになった。

 目的があったわけじゃない。でも今私は本当に自分の気持ちを持て余していて、サイレンに会ってこの膠着した気持ちを解いてほしかったのだ。


 私はサイレンの部屋の前に立っていた。2階建ての古いアパートで、階段の上り口に「山口」と書かれた銀色の自転車が停まっていた。

 これがサイレンの自転車だとしたら、やっぱり今日は家にいるんだろうか。

 階段下に郵便受けがあった。「山口」という表札は1つだけで、部屋番号は2階だった。

私は階段を上がって2階に行き、山口、と書かれたドアをノックしてみた。インターホンは付いていない。2回、ノックした。反応はない。3回目ノックしてみた。

 もぞもぞ

 という気配がした。誰か動いている。サイレンがドアの向こうに立っている。

 私は気持ちが一気にぱんぱんになってしまった。

「サイレン、私、糸尾。」

 ドアが開いた。

 あんまりなサイレンが出てきた。

 寝起きらしく目がしょぼしょぼで、Tシャツがよっれよれで、無精ひげが伸び放題で、おまけにすごい寝癖だ。

「糸尾。どうしたの。」

 細い声でサイレンが言った。状況が良く分かっていないようだ。

「サイレン、寝てたの。」

 うん。

 ほっぺたをこすりながらサイレンが頷いた。

「夕べ、ていうか今朝か。ずっと、絵を描いていたから。何時?」

「2時半くらい。」

 無いな。

 説明しなくても分かってもらえると思うけど。

 これは無いなと私は思ったのだ。しょうがないじゃないか。

私は完全に自覚してしまった。これは無い。駄目だ。為す術がない。

一晩中かけてぼろぼろになるくらい絵に心酔してるひとに、人間が何かいったって駄目だ。もう確定だ。この恋は、無しだ。

「雨で詰まらないから遊びに来たの。」

 私はなんだか楽しくなって言った。

「上がる?」

 やっと目が覚めてきたらしいサイレンが言った。

「コーヒーくらいならあるよ。」

 私は狭い上にも狭い玄関でレインシューズを脱いで部屋に上がった。2畳程のキッチンを通ると中は畳の6畳間だった。

いったい何処で寝ていたというのだろう。

 サイレンの部屋は至る所紙で埋め尽くされていた。部屋中絵なのだ。足の踏み場も無い、どころじゃなくて、本当に置けるところには全部絵が張られていた。

「サイレン、ここで寝てたの。」

「いや。正確には寝たというか、絵を描いていた記憶はあるんだけど、描きながら気絶したといった方が近いかな。」

 何が描いてあるんだろう。

 ルーズリーフの上に、色鉛筆やクレヨン(多分)で幾筋もの色のうねうねが叩きつける様に描かれているばかりだ。抽象的、というか、サイレンの描く絵はいつも形象から飛躍していると思うんだけど、それにしたってこの一連の色彩の軍勢は、いつにもまして意味不明だった。

「これは何がテーマなの。」

 うん。

「糸尾。インスタントしかないけどいいか。」

 サイレンが電気ポットに水を入れながら言ってくれた。

「いや、お構いなく。」

「夕べ寝る前に急に気になっちゃったんだ。糸尾、俺腹減ってるから飯食っていい?」

「いいよ。」

「俺の名前なんだ。」

 サイレンはぽにょの絵の付いたどんぶりに冷ご飯(だと思う)を盛ると、冷蔵庫からスライスチーズを出して乗せた。そのまま流しにもたれて立っている。

「食べないの。」

「レンジで温めてから。」

「あっためればいいんじゃない?。」

「ばかやろう、糸尾。電化製品を一度に二つも使えるか。一回に一個だ。」

「なんでまた。」

「電気代がすっとぶじゃねえか。」

 幸いサイレンが持っていたのはティファールの一人用電気ケトルだったので私のコーヒーの湯はすぐ沸いた。

「牛乳無いから砂糖だけでいいか。」

 サイレンはりらっくまのカップにコーヒーを入れて渡してくれた。

「サイレン。コンビニ物が好き?」

「俺はもらえるものはできるだけもらう。」

「サイレンの名前って、どういうこと。」

 サイレンはどんぶりをレンジ(今時レンジ機能しかついてないようなちょーおんぼろな奴だ。恐らく、引っ越す時にお払い箱になるはずの実家のレンジを持ってきたんだろう。そしておそらくサイレンの実家では、サイレンが持ってくから新しいレンジ買おう、という話になったに違いない。)に入れた。

「糸尾、俺の名前の話ししたろ。」

「漣が騒ぐ。」

「そう。小波ってなんなんだろうなって思ったんだ。ちょっと想像してみてよ。」

「水面がざわざわあっと。なってる感じ?」

「そう。ざわざわしてる感じ。それってどんな物なんだろうなって、思って、いろいろ描いて見たんだけど、描いても描いても納得できなくて、そうしたらいつのまにか時間が経ってて。」

 サイレンはレンジの中からどんぶりを取り出して、その上にテーブルに置いてあった玉子を一個割りいれた。温泉玉子らしかった。

「あーあ。コレステロールが。」

「まだまだこんなもんじゃないぜ。」

 サイレンは何故かにやりと笑った。そして小ぶりのもの入れといった体の冷蔵庫からマヨネーズを出してうにいいいいっとご飯の上に絞った。

 私は我慢できずに叫んだ。

「人でなし!!」

「どうだ、外道だろう。」

 何故か誇らしげなサイレン。

「そして、これに醤油を垂らしてぐっちゃぐちゃに混ぜて食う、と。」

 実際サイレンはスプーンでご飯を豪快に混ぜ込むと、せっせと食べ始めた。

「太るよ、サイレン。」

「ばかやろう、糸尾。ガテン系はこのくらいカロリー取っとかないともたねえんだよ。」

 俺特製、カロリー丼だ。

 とサイレンは言った。

 私は床に落ちているサイレンの「名前」を一枚拾ってみた。

 それは小波というより、底なし沼のようだった。

 出口を探しているのだ。

 サイレンの、描きたいモチベーションが出口を求めてのたうっている。出口のある方向は分かっている。分かっているけど見つからない。

 こういう言い方は不本意なんだけど、サイレンは潤沢な才能に恵まれているわけじゃないから。頭の中に生まれるイメージを、すんなり手が外に出してくれるわけじゃないから。

 ものすごい小さい出口にでっかい何かを無理やりぶつけてるみたいに、苦しい想いをしているんだろうなあ。

 その苦悩が、ピンクと青と、それから紫と黒がなみなみと重なり合っているその絵から伝わってくる。

 無いな。

「サイレン、これ一枚もらってもいい。」

「いいけど、いいの?どうするの?そんなもの。」

「なんとなく。私サイレンの描くの好きだし。」

 あ。

 うっかり告白してしまったか。

 まあいいか。きっと文脈は正しく伝わっていまい。

「糸尾。これ食ったら何か食いに行くか。」

「えーと、サイレン。日本語の意味が分かりません。」

 今まさにどんぶりご飯食べてるのに。

「なんかすげえ腹減ってるんだ、俺。なんか食いに行こうぜ。」

「昨日何食べたのよ。」

「えーとな。麦茶かな。」

「え。お茶だけ?」

「うん。なんか絵描いてたら、飯食うの忘れてた。」

「そんなのおなか空くの当たり前じゃん。行こう。ご飯食べに行こう、今すぐに。」

「待ってくれ。いくらなんでも顔を洗わせてくれ。」

 サイレンはどんぶりを流しに置くと、とことこと洗面台に歩いていった。

 今度何かご飯作ってあげないといけないかな、と私は妙に切実に感じてしまった。


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