綺羅星
『綺羅星』
気になっていたことを聞いてみた。
「サイレンのサイレンって、どんな漢字書くの?」
滅多にない名前だ。
「さざなみがさわぐ。」
とサイレンは答えた。
私は頭の中で漢字を検索し、携帯メールに書いてサイレンに見せた。
「これであってる?」
騒漣。
「おお。さすがだな、糸尾。一発で当てたやつは初めてだ。」
とサイレンが言った。今日も階段の踊り場で描いています。
「さざなみって漢字はちょっと知らないだろうね、みんな。」
「糸尾って、そういえばなんて名前なの?」
ゼミで初めてあった時は、みんな苗字しか名のならなかったのだ。
「稲積。稲を積むと書いて、いづみ。」
「縁起のいい名前だな。」
「食うに困らないようにという意味で付けられたらしいよ。」
「糸尾の名前。決して珍しくは無いけど、漢字は滅多にないよな。」
「多分10人が10人『伊藤泉』だと思うと思うよ。同じ目的だったら穂積にしてくれたらもっと分かりやすかったのにと思う。サイレンの名前はどういう意味なの?」
「それはだな。」
サイレンは新しい緑の絵の具をパレットに絞りながら、タオルを被った後頭部をごしごし掻いた。
「諸説あって定かじゃないんだ。お父さんが言うのには、お父さんがお母さんにプロポーズしたのがどっかの池のほとりで、その時水面が小波立ってたのが印象的だった。って言うんだけど、お母さんに聞いたら単に生まれた時泣き声がサイレンみたいに元気だったからっていうんだ。この子の名前はサイレンだ!ってピンときたらしいよ。」
「それ、お母さんの案の方が先にあってお父さん案は後付けなんだと思うよ。」
「そうかな。」
「たぶん、お母さんが何が何でもサイレンってつけるって言うから、お父さんが必死になって字を考えたんじゃない。」
「案外、プロポーズ説はフィクションなのかもな。」
私はもう一つ気になっていたことを聞いてみたいと思った。本当はこっちの方がより気になっていた。
「サイレン、どうしてそんなにバイトしてるの?」
「俺親には学費しか出してもらってなんだ。生活費と家賃自分で捻出しないといけないんだよ。」
「どうして。」
今日のサイレンは野原に散らばって咲く花の絵を描いています。
「俺三人兄弟の末っ子だからな。家に金がねえんだ。兄貴は頭良かったから東京の私立行っちゃったし、ねえちゃんは頭悪いのにお父さんが見え張って地方の私立に行かせちまうし。
二人も私立行ったからもう家に金が無くて、俺は大学行きたいならどうしても国立にしろって言われてたんだけど、国立飛ばされちまったんだ、馬鹿だから。」
「美大受験しなかったの?」
我々の大学は文学部哲学科だ。生命倫理学のゼミに所属している。
「前にも言ったけど、俺はただ描くのが好きなだけでちゃんと絵の勉強とかしてないからな。したいとも思わないし。理論はどうでもいいんだ。俺が描きたいように描いていたいだけなんだ。
美大受験しようと思ったらちゃんと画塾に通ってデッサンから勉強しないといけないんだ、何年も。そんなめんどうなことしたくなかったし、それだけの金も家に無かったし。」
「そういうものなのか。」
「で、なんとか大学には行きたからな。専門学校だったら時間も短いし無駄に忙しいし、専門的に身に付けたいスキルも思い浮かばなかったし、絵を描く時間が惜しまれるのは嫌だったんだ。」
サイレンの生活は本当に絵を描くことを中心に回っているのだ。
「進路決める時お父さんと交渉した。お父さんに言われたんだ。学費の分は親から借金という形にしてやる。だけど生活費その他は自力でなんとかしてみろって言われたんだ。それなら大学進学させてやるって。割のいいバイト探したらそのくらいなんとかなるだろうと思って、じゃあ分かったよって言ったんだ。」
「それでなんのバイトしてるの?」
「工事現場の肉体労働。」
「それってきつくない?」
「きついよ。延々と穴掘ったりセメント捏ねたり土嚢運んだりするんだ。
でも割りがいいんだ。手っ取り早く金稼ごうと思ったら、やっぱり体使った方がいいんだ。」
サイレンは、授業の有る無いにもよるがだいたい週に3日そうしたバイトで働いて、それ以外の時間はほとんど絵を描いていると言った。休みの日はそれこそ朝から晩まで描いているのだという。
「我ながらこの生活が性に合ってると思ってるんだ。」
サイレンは水で濯いだ筆をぼろぼろになった雑巾で拭きながら言った。
「だから俺決めてるんだ。大学卒業したら今の会社に就職させてもらって、で1年のうち11ヶ月は馬車馬のように働くんだ。それで節約して金溜めて、残りの1ヶ月で地球のいろんな場所に行くんだ。そして絵を描くんだ。」
「そのこと、会社の人はいいよって言ってくれてるの?」
私が聞くとサイレンは大きく頷いた。
「その旨社長に相談したんだ。就職したら1年に1ヶ月は休みが欲しいって。何でだって聞かれて、自分は一生かけて好きなように絵を描きたいんです!って言ったら、後はなんにも聞かずに承諾してくれたよ。」
「懐の大きい社長さんだね。」
「うん。若いもんはそのくらいじゃないといけねえって言われた。」
サイレンは信念を込めてそう言った。そして再び作画に向かうべく、頭のタオルをきゅっと締めた。
それは。
それは素晴らしい人生だろう。実際にそんなことが実現したら。
でもまあ、現実はいろんなトラブルやシガラミがあったりして、なかなか思った通りにはいかないもんなんだけどね、と思ったけど言わなかった、マナーだ。
「じゃあ取り合えず最初に何処いきましょ?」
「モンゴル。」
サイレンは即答した。
「モンゴル?なんでモンゴルなの?」
魅力的な風景の国だったら他にも沢山あるのに。もっとマチュピチュとかグレートバリアリーフとか、そういうんじゃないのか。
「何て言うのかな。先ずは自分のルーツに戻ってみたい気がするんだ。東洋人ってモンゴルで発生したんだろ。」
「モンゴル草原がモンゴロイド揺籃の地とは言われていますね。」
サイレンは力強く頷いた。
「自分の遺伝子が記憶してるかもしれないものを、なんとしても自分で一度見てみたいんだ。
俺はモンゴルに行って遊牧民の人捕まえて話しつけて、一緒に草原を馬で駆けて羊の干し肉齧って、塩味のミルクティー飲むんだ。」
「塩味?」
「モンゴルでは紅茶に塩入れるらしいぜ。」
「へえ。変わってるね。」
「モンゴルの人にしてみたら、甘い紅茶の方が珍しいんじゃないかな。」
サイレンはまだ見ぬモンゴルの草原を思うように、色とりどりに咲いた花の上に極薄い緑の線を何本も刷いた。花が風に吹かれているようにも見るし、それによって草の陰に埋もれていくようにも見える。
「それでさ、糸尾。」
「何。」
「俺いつも思うんだ。糸尾、草原の夜空って想像できるか。」
私はちょっと考えた。
「テレビでなら見たことあるけど。」
「実際目で見たらどんな気がするだろうって思うんだ。星以外に光が無いんだぜ。どんなものなんだろう。どんな光景なんだろうって。その時俺は何を思うんだろう。どんな絵が描けるんだろうって。
実はその時のことを想像して、少し夜空の絵も描いてみたりしているんだ。」
いつか見てくれよ、とサイレンは言った。
私は、モンゴル草原のど真ん中に絵筆を握って突っ立っているサイレンを想像した。
頭上にはぎっしりと綺羅星。
その存在感は抜群で、光の粒と言うよりは何かの生き物の群れのように見える。一つ一つが生きて言葉を発しているように見える。あんまり遠くで、あんまり小さいから、その言葉の意味が分からないだけで。
ふうん。
サイレンはそういう未来に憧れているのか。いっちゃってるな、このひとは、と私は思ったのだった。