表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サイレン  作者: 森本泉
3/9

異端児な日々

『異端児な日々』


 小さな頃から一貫して私がこころ惹かれたのは、文字だった。もっというと、言葉、それが形作る文章。

 3歳のとき保育園に入ったんだけど、自分の持ち物に書かれた「いとおいづみ」の、み、の字を、何て美しいんだろうと思って見ていたのを覚えている。い、とづ、はなんとなく単純だけど、「み」はなんかぐううっときゅううっとして、いいじゃないか。

 他のことにはあんまり興味を惹かれなかった。まだ意味も分からなかったけど、手当たり次第絵本を取り出して、ただただページを捲った。

 そこに書かれている文字列に強烈に惹かれた。指でなぞりながら、その書かれていることがなんなのか理解できない自分の限界を残念に思った。

 この文字たちの一つ一つが意味を持ち、その先に世界が広がっている。文字の羅列が世界を創る。私はそのことが嬉しくて、嬉しくて、何処までも広い野っぱらで全人類から拍手喝采されているみたいに絶対的に有頂天になって、親しい友人みたいな文字のつづりを心でなぞった。

 そんなだから私のお絵かき帳には、他の女の子達がお姫様やちょうちょを描いてる中、で意味不明の線分ばかり書かれていた。自分では、文字のつもりだったんだけど、そんなこと知らない人から見たらただのわけの分からないだだ書きだ。

 私はイラストという形象が理解出来なかったのだ。我々には文字がある。言葉で説明すればいい。そうして私たちは分かり合っているんだから。

 でもそのころ私は5歳くらいだったから、私が頭の中にそういうイメージを持っていることなんて周囲の大人は誰も気付かなかった。

 秋の作品展に出すお絵かきに、私は自分なりに考えた「文章」を提出した。あのぐちゃぐちゃな、あれである。

 で、何が起きたというと。

 それを見た先生たちに、私は「アスペルガー症候群ではないか」と判断されて、半年ほどあっちこっちの機関をたらい回しにされていろんな検査をされるという苦行を課されたのだった。

 その時味わった屈辱感を、サイレンならば分かってくれると思って話したのに、何故かサイレンは渋い顔をしている。

「だってあんまりじゃない?いいじゃない何に興味持ってたって。だいたい先生たちはステレオタイプにすぎるのよ。子どもだったら取り合えずクレヨン与えられたら絵を描いてるだろうなんて思ったら大間違いなのよ。」

「いや、俺はクレヨン無くてもお茶とか水とかでも、絵描いてたから、糸尾にそんなこと言われてもわかんねえけど。」

 サイレンは途方にくれたみたいな言い方をした。

 今日のサイレンは階段の踊り場じゃなくて、学食の前のテラスのベンチで、スケッチブックを使って絵を描いていた。

「それにしても、いつも何処でも絵を描いている人なんだね。」

「うーん、糸尾、悪いんだけどさ、言わないで置こうと思ったんだけどさ。言っていいか。」

「何。どうしたの。あんまり良くないことだったら聞きたくないな。」 

 私は思わず身を固くした。

「俺糸尾に、実は全然共感出来ないんだ。と言うのはだな、俺は文字が嫌いなんだ。」

「えー。」

 そんな。

「だって、文字ってもともとは絵だろ。最初はちゃんと絵で描いてたのが、だんだんだんだんめんどくさくなって簡略化されていって、で出来たのが文字なんだろ。」

「まあ、象形文字とか?アルファベットはその限りじゃないと思うけど。」

「でもたいがいそうじゃないか。俺に言わせれば、文字の文化は人間の堕落性の象徴なんだよ。」

 そこまで言わなくても。私はサイレンのあまりの言い草に唖然となった。

「いらねえんだ、文字や、言葉なんて。言葉で情報交換する必要なんて無いじゃないか。絵、描いてればいいんだよ。必要なこと絵に描いてればいいんだ。だって絵の方がもっと沢山情報込められるだろ。」

 この時の私の気持ちを察していただけるだろうか。

 頭頂部に核弾頭がジャストミートした気分だ。

 こんな失望も無い。

 それは、それは。それは私だって確信していたわけじゃない。サイレンなら。サイレンだったら、なんとなく分かってくれるんじゃないかって。そんな風に思っていただけなのだ。

 今まで生きてきてあんまり理解されたことはなかった。私みたいに言葉に心酔している同級生なんて誰も居なかった。

 などなみかぜのたちさわぐらむ

 なんて日本語にうっとりしている中学生なんて身の回りに居なかったのだ。私は孤独だった。つまらなかった。

 でもサイレンは、言葉を愛している訳ではなかったけど、でもどうしようもない世界に住んでいる感じがした。サイレンも私みたいに、人生の最初期に何かにっちもさっちもいかないものに取り付かれて、未だにそこから脱却できないし今後も一向に離脱する気は無いという空気の中に棲んでいた。これはそういう世界を持っている人間にしかこのニュアンスは理解してもらえない。

 だから、なんとなく何だけど、私はサイレンだったらきっと分かってくれるんじゃないかなと思っていたのだ。

「絵に何が出来るって言うんだ!」

 私は思わず言ってしまった。

「言葉で表現した方が確実じゃん!絵に描いてるだけだったらみんなが好き勝手に解釈するじゃん。りんごの絵描いたって見る人に依ったらりんごに見えないかもしれないじゃん。梨に見えるかもしれないじゃん。でも文字で『りんご』って書くからりんご、っていう情報が共有出来るんじゃん。文字は絶対必要だよ。」

「なんだと。」

 サイレンは明らかに気に障ったような声で私をじっと見返した。

「伝える努力をすればいいんだ!分かるように描く努力をすれば。伝わるかどうか不安だから、なんとか伝わるように神経を注ぐんだろ。りんごに見えるように頑張って描くんだ。それによってりんごそのものもよく見えるようになるんだよ。

 りんごのこと絵で描こうと思って、りんごのことなおざりに見えると思うか?出来ねえよ。りんごの情報伝えたいと思うからりんごのことよく見るんだろ?

 でも文字が出てきてからそういうことがなくなっちゃったんだ。取り合えず『りんご』って描いとけばみんな理解してくれるから、それで安心しちゃってるんだ。堕落してんだよ。情報が劣化して深層が見えなくなってんだよ。

 どうする?『りんご』って字で書いてるけど本当はりんごじゃないかもしれないぜ。りんごみたいに見える何かかもしれないぜ、実際にそういうことよくあるじゃないか、食品偽装とか。国産って書いてあったって中国産なことなんでざらにあるじゃないか。文字で情報が限定されるからこういうことが起こるんだよ。

それどころか、文字だったら嘘がつけるじゃないか。絵だったら違うね。絵の情報は嘘がつけないんだ。まんまだから。情報が直に伝わるんだよ。言葉は違うんだ。何もいいことがねえんだ。」

 何か言い返せ。

 私は自らに強く念じた。

 ものすごおく何か言い返したかった。サイレンの言っていることも分かる。結構極端な理屈だけど、一理はあると思った。

 でも、だからこそ、何か言い返したい。その思いが私をはげしく揺すった。このまま言われっぱなしでなるものか、と。BGMはロッキーのテーマで。

「絵で情報を表現出来ても、感情は共有出来ないかもしれないじゃない。」

 言ってて自分で何のことがよく分からなかったけど、でも取り合えず私は言った。

「そりゃりんごとか単純な情報だったらいいけどさ。『おいしい』とか『嬉しい』とか『恐ろしい』とか『憎い』とか、そういう感情表現に対しては描画には限界があるんじゃないの?

 どんな風に憎いとか誰が憎いとか、何があったから憎いとか、そういうこと絵で見たってにわかには分からないよ。

 美術館で絵見たってさ。静物画とかだったら何が描いてあるかどうかくらいは分かるけど、そこに描かれてる人物が誰なのかとか、今何をしているかとか、分からないじゃん。自己判断になるじゃん。分からないよ、言ってもらわないと。誤解が生じるよ。絵で表現できる情報って、かなり限定されてると思うよ。」

「限定されりゃいいんだよ。」

 サイレンはこともなげに言い切った。そこそこ全力で投げたボールをいとも簡単にレフトフライで打ち返されてしまった。

「情報が多すぎるんだよ。今の世界は。多すぎて無駄なもんばっかりあるだろ。どうでもいい情報ばっかりじゃないか。じゃまっけなんだ。もっと情報が減ればいいんだ。

 俺人間の文明がここまで出鱈目に発展したのって言葉が生まれたからだと思うぜ。文字や言葉で表現できるから、国とか宗教とかだって生まれたんだろ。一回に扱える情報が大きくなりすぎて組織が肥大しちまってんだ。でもそれによって起こった駄目なことだっていろいろあるじゃないか。差別とか迫害とか。俺そういうのすごく嫌なんだ。感じ悪いじゃねえか。俺はそういうのがすごい無駄なんじゃないかと思うんだよ。

 絵の段階で止まって置けばよかったんだ。目の前の現実だけに戦力投球していられたんだ。だけど進化の過程で絵を簡略化することを覚えてしまった。それは知能の発達かもしれないけど、でも物事を細部まで捉えようとする努力の決定的な喪失なんだよ。

 いいんだよ、何も分からなくても。誰をどんなにどうして憎んでいるかなんて。分からなくていいじゃないか。糸尾、そんなこと分かって君が幸せになれるのかよ。」

 やんのか。

 とサイレンが言った。

 ぐうの音も出なかった。もう一回魔球を投げてやろうスタミナはもう無かった。

 サイレンはとにかく言葉が嫌いなのだ。言葉が嫌いだというか、きっともう彼はどうしようもないくらい絵を愛しているのだろう。

 完敗だ。どうしようもない。

「泣いてやる。」

「何でだ。」

 本当に涙目になってしまった。でもむざむざ泣きたくなかったから私は両手のひらで自分の瞼を思いっきり押した。閉じた目の上に気持ち悪い色彩が舞う。

 でもこれは見ているほうにすればもう完全に泣いているじゃないか。

「待て、糸尾、分かった。俺が悪かった。」

 サイレンは本気で焦ったみたいにあわててスケッチブックを閉じた。

「だって、それでも私は言葉が好きなのに、そこまでぼろくそに言うことないじゃない。」

「うん、悪かった。いや、気にするな。日本には言論の自由というものがあってだな。」

「無駄じゃないもん、言葉で表現できる事だって無駄なことばっかりじゃないもん!」

「ごめん!分かった、よし糸尾、君の好きなジョージアのエメマンを買ってあげよう。」

「金、あるの?」

「いいよ。そのくらいの出費をケチるほど心まで堕ちちゃいねえよ。」

「じゃあドトールでラテが飲みたい。」

「いいよ。行こう。糸尾午後の講義は?」

「私、3限に世界史の授業あるだけ。」

「じゃあ俺はここで絵描きながら待ってるから授業終わったら来いよ。俺は今日は午後は何も無いんだ。」

「今日はバイトは?」

「ん。今日は夕方からでいい日なんだ。」

 嘘泣きはしてみるもんだ。

「ありがとう。じゃあ授業終わったらまた来るから。」

 私は泣いていないことがばれないようにサイレンに背中を向けて立ち上がった。

 私のこの態度が、サイレンにしてみれば私が決定的に機嫌を悪くしているように見えたらしい。

「糸尾、」

 背中に、なんか切羽詰った感じのサイレンの声が被さってきた。

 でも私は。

このままへそを曲げたと思わせてサイレンに気を遣ってもらうのも悪くないな、と思ったので、わざと何も言わずに、サイレンを見ることなく立ち去った。

 もちろん笑っているところを見られないために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ