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サイレン  作者: 森本泉
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青い世界の人

『青い世界の人』


地球と同じ大きさの紙に、サイレンが絵を描いている。青い絵の具で。青い絵筆を走らせている。さらさらと、軽快に。世界が青く塗り直されていく。

 それにしても深い青だ。

 真夜中みたいに冷徹で、人間そのものの重さと同じくらい永い青だ。世の中に起こりうるすべての瑣末なことを、一瞬で蹴散らしてしまうほどの、文句の言えない青なのだ。

 サイレンは、私が見ているのに気付かないくらい一心不乱に筆を走らせている。かなり必死で描いているんだけど、いかんせん紙の大きさが大きさだ。頑張っていてもなかなか空白は無くならない。どうもサイレンはこの大きな紙を一面絵で埋めてしまうらしいのだ。

 それはいくらなんでも無理だよ。

と私は思ったんだけど、サイレンには伝わらなかったみたいだ。彼はなおもせっせと絵筆を走らせていた。ずっとずっとずっと。私はそれを見ていた。どんなにでも描いていて欲しかった。思う通りに描きなよ。どんな絵が出来上がるのが見せておくれよ。私は見ていた。

でもやっぱり紙が大きすぎるのか、サイレンは終にめんどくさくなってしまったみたいなのだ。

 突然サイレンは絵筆を投げ捨てて、おもむろに傍らにあったバケツを手に取った。中には青い絵の具が満たしてある。

 そしてサイレンはバケツの中身を当たりにぶちまけたのだ!どばああっと!情け容赦なく。

 白い紙の空白に、青いしぶきが飛び散った。

バケツはいくらだってあるのだ。サイレンは絵の具をぶちまけてぶちまけて、ぶちまけた。あっちにも、こっちにも。何個も何個もぶちまけた。紙の白いところを見つけると、迷い無く絵の具をぶちまけた。空白を憎んでいるみたいに。心から青を愛しているみたいに。

やがて世界中に青くないところが無くなってしまった。

 人類の歴史上にかつてなかったくらいの青い世界なのだ。そこに一切の手加減はない。もう手の施しようが無いくらい、どこもかしこも青いのだ。

 それで、もう何処を探しても青くないところなど無いというのに、サイレンは止まらなかった。視界のすべてが青くなっても、猶もバケツをぶちまけ続けた。

 でも世界にはもうサイレンを受け止める余裕がない。とうとう青い雨が降り出した。青い世界に、青い雨。もう訳が分からない。

 青い雨に打たれながら、サイレンはバケツを振り回して笑い出した。

 脳天のゲートが前回になったような笑い声だ。これは人の声か?分からない。聞いた事もない声でサイレンは笑っている。

 **********!!!

 表現のし様がないのでアスタリスクで代用!

 サイレンは笑った。笑いながらバケツを振り回して、猶も笑った。

 ものすごく楽しむ人だなあ。

 私は笑っているサイレンを見ながら、青い波に飲まれてあっぷあっぷした。


 私は昨日と同じく、講議が全部終わった後で図書館棟の踊り場に走った。

 果たしてサイレンはそこに居て、また新しい模造紙を広げているところだった。

「サイレン、やっぱりいたね!」

 我がなら嬉しそうな声だ。

「糸尾。何しにきたの。」

「何って。なんでもないけど来たんだよ。」

 私は階段に腰をかけて携帯を開いた。

「糸尾さん、いつも書いてんだね。」

「ん、糸尾でいいよ。私もサイレンて呼ぶから。サイレンだってひとのこと言えんじゃん。」

 サイレンは無言で空き缶にペットボトルの水を汲むと、大きな刷毛を突っ込んで白い絵の具を溶いた。そしてかなり薄めた白いアクリル絵の具を模造紙にすいすいと塗っていった。そして白が乾くのを待たずに、今度はパレットに青い絵の具を思いっきり絞ると、黒と、それから緑をちょっと混ぜて絵筆に取った。

「おお、青い絵の具とは。」

 昨日みた夢とおんなじじゃないか。

「何?」

「なんでもない。」

 と私は言った。

 サイレンが絵筆を動かし始めた。

 何の形なんだろう。半乾きの白い絵の具の上に青いにじみが広がっていく。どうも滲むことを計算に入れて描いているみたいだ。さっと筆が伸びるとそこから絵の具がじんわりと広がっていって、更にその広がっていく先にサイレンがどんどんと絵筆を運んだ。

 描きながら、だんだんサイレンにリズムが付いてくるのが私にはわかった。だってどんどんどんどん手が早くなっていくんだもん。くるくるくるくるくるくる。白い紙の上が徐々に青く染まっていった。夕べの夢みたいに。

 同時にサイレンの表情も変化した。息のテンポが速くなって、口の端が上がって、ははっ、ははっと小刻みに笑い出したのだ。

 サイレンはどんどん手を動かした。彼は白い紙と恋愛しているんだろう。

ああ。

 この人は本当に絵を描くことが好きなのだ。

 私はなんだか居たたまれなくなってしまった。何でかと言うと、うまくは言えないんだけど。今この瞬間に私はサイレンにぐうううっと掴まれてしまったのだ。

 サイレンは嵐みたいに描いていった。青い嵐が広がっていった。

 あらゆるものを巻き上げるつむじ風だ。私は書き始めた。サイレンの嵐を書き留めていたいと思ったのだ。

 青は時に淡く、時に濃く姿を変えながら、模造紙の天地左右をその別なく走り回った。時々石にけっつまづいて舌打ちしたり、立ち止まってジュース買ったり、電車のつり広告を眺めたり、終わったCDを新しいものに取り替えたり、UFOのお湯を切ったり、授業中に居眠りをしたり、サッカーの試合を見ながら頭を抱えたり、テスト中に途方にくれたり、約束していた友達が飲み会に来なかったり、バイトの給料が出た日にちょっと豪華な晩ご飯を食べてしまったり、通り雨に降られたり、映画を見て図らずも泣いてしまったり、なんでもないことで喧嘩したり、それこそ何もかも投げ出して何年も何年も引きこもったり。そんなそんな。あらゆる日常をすべて巻き込んで、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わせて何かかたちを作ろうとしたんだけど果たせなくて、でもなんにもしないわけじゃないからとりあえず俺はいまこうしています。

 そういうサイレンのメッセージを顕現したみたいな、複雑怪奇な絵が出来上がった。

やがて、激しく動き回っていたサイレンの絵筆が徐々に徐々にスピードを収めていく。慣性が力を失うみたいにゆっくりと止まった。サイレンの絵筆が止まるまで私もライティングを止めなかった。

「今日はこんなところか。」

 とサイレンが言ったので、取り合えず満足いくところまでは描いたのだということが分かった。

「これは、抽象画でいいのかな。」

 私が言うと、サイレンはちょっとムッとした顔をした。

「俺はドローイングが苦手なんだ。ペインティングしか出来ないんだ。」

「どう違うんだっけ?」

「形を作るのと色を塗るのの違いだ。俺は形は上手く捕らえられないんだ。ちゃんと絵の勉強したわけじゃないからな。独学なんだ。だから、俺が描くとたいてい抽象画っぽく見えるんだよ。」

 下手だから。

 とサイレンは言った。

 そんなことないよ、と私は思ったんだけど、そんな一言なんかサイレンの信念の前には何の意味も無いだろうから、言わなかった。

「一生独学だけど、結構有名になった画家だっていないことは無いと思うよ。」

「そうなの?」

「サイレン、他の画家の勉強とかしないの?」

「興味ないな。俺は自分が描いてるのが好きなだけだから、他の人がどんなものを描くのかはどうでもいいんだ。」

「チャールズ・ストリックランドみたいな人だ。」

「誰?」

 サイレンは眉間にしわを寄せた。

「小説の主人公。『月と6ペンス』っていう小説の。中年になってから突然絵の勉強始めて何もかも投げ出しちゃった人で。描くものがあんまりにも奇抜だったから生前はまったく見向きされなかったんだけど、死んでから有名になったんだ。ゴーギャンがモデルだったかな、たしか。」

「俺は小説は嫌いなんだ。」

 ふうん。つまらないことを言わないで。

「でもラストシーンが素敵だよ。彼はハンセン病にかかってて死ぬんだけど、死ぬ最後の瞬間までかかって生涯最高傑作を書き上げるの。人類の根源を射抜いたみたいなど迫力の壁画をね。そして遺言でその壁画を燃やしちゃうんだ。」

「それなら俺もやってみたいな。」

「でしょ。サイレンきっと共感できると思うよ。」

 サイレンは口の端をにやっと歪めた。

「さてと。またこれ乾くまで動けないけど、いいの?」

「構わないよ。サイレンと話してるの楽しいから、私待ってるよ。」

「そうか。糸尾、呑める方?」

 とサイレンが聞いた。

「おうよ。なんでも来いよ。」

「ちょっとコンビニ言ってビール買って来るけど、呑まないか。まだ6時くらいだけど。」

「わああ。なんて嬉しい。」

「糸尾動けないから俺が行って来るね。500円出せよ。」

「え、おごりじゃないの?」

「ふざけんな、俺は勤労青年だぞ。」

「そうなの?」

「だから金なんていつも無いんだよ。」

「そう?じゃあ私がお金出すよ。バイト代入ったとこだから。」

「糸尾何のバイトしてるの。」

「講演とかのテープ起こし。出来高払いだけどね。」

 私は財布から1000出してサイレンに渡した。

「グレープフルーツのお酒とポテチ買ってきて。」

 分かった、と言ってサイレンは階段を駆け下りていった。その後姿を見送りながら、私は自分がずっとまったりと笑っていたことに気付いたのだった。


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