七
「お客様は、お名前は?」
駅員は再度興味をオタクに向け直したようだった。職業が画家だということだけで北条を白と判断したのだろうか。
オタクはイケメンが北条と名乗ったあたりから明らかに様子が変だった。厳つい顔で北条を睨みながら、何やら小さく口を動かし続けている。呪文のようなものを唱えているようだった。
「オンベイシラマンダヤソワカ、オンベイシラマンダヤソワカ、オンベイシラマンダヤソワカ」
「お名前は?」
駅員が声を大きくして訊ねなおした。
オタクは口の動きを止め、北条に向けていた目を、鋭さはそのままに駅員に移した。まるで見る者を石化させるような禍々しい力を感じさせる眼差しだ。
「人に名前を訊ねるなら、まず自分が名乗れ。それが礼儀というものだ」
「ここに名札つけてますよ」
駅員は左胸に目を落とし、そこにある名札を指さした。そこには「直江」とある。
名乗らなくても名札を読めば分かるだろう、と言いたいらしい。しかし、それは客に対して誠実さを欠く態度ではないか。私は礼儀を指摘したオタクの更なる怒りを予知して、その怒鳴り声に心の準備をした。
しかし、意外にもオタクは「おや?」という感じで目元から力を抜いた。顔をほころばせたようにも見える。
「姓はナオエか?とすると、名はカネツグか?」
目を輝かせて訊ねるオタク。一体直江という名前の何が彼を喜ばせているのだろうか。
「タクヤです」
駅員直江が笑顔を浮かべて答えると、オタクは途端に興味を失ったようで明後日の方角に目をやる。駅員直江はその視線を追いかけ、笑みを顔に貼り付けたままオタクの視界に入り込んだ。「で、お名前は?」
「答える必要はない」
「え?」
駅員直江は口を開いたまま固まった。会話の流れから自分が名乗ったらオタクも名前を教えてくれると思うのは当然だ。「そりゃないですよ。人に名前を言わせたのなら自分も答えるのが礼儀じゃないんですか?」
「そんな礼儀は俺は知らん。質問に対して答えるかどうかは問われた方の自由だ」
相手に名乗らせた以上、自分も名乗るのが礼儀だろう。屁理屈こねやがって、という思いを私は視線に込めてオタクを心理的に突き放した。駅員直江も北条も同じような目でオタクを眺めている。
「あとで警察の方にお伝えするので名前を教えてください」
笑顔を消して今度は事務的に問いかける駅員直江。
警察という言葉に反応したのか北条が顔を強張らせた。
オタクは小さく舌打ちをしたが、こちらも警察を持ち出されてこれ以上駅員直江の心証を悪くしたくないと思ったのか、誰からも目を背けて小さく「上杉だ」と吐きだした。
怪しい。偽名ではないのか。ありきたりな名前に胡散臭さを嗅ぎとって私はいきり立った。
「免許証見せなさいよ」
現住所も知りたいところだ。生年月日が分かればこの年齢不詳のオタクが何歳なのかもはっきりする。
「見せる必要はない。そもそも俺が痴漢なんかするわけがない。毘沙門天に誓ってやってない」
「やった人はみんなそう言うのよ」
毘沙門天に誓って、とは言わないが、何とかに誓って、という何の納得も得られないような言い回しを良く耳にする。
「みんなって誰のことだ。お前はこんな風にしょっちゅう痴漢をでっちあげて駅員に突き出してるのか」
お決まりのパターンのように、やはり駅員直江が「まあまあ」となだめに入る。
「ところでビシャモンテンって何です?」
愚かな質問をする奴だという冷ややかな目で、上杉と名乗ったオタクが駅員直江の頭のてっぺんから足の先まで舐めるように見る。
「仏教の中の神」
意外にも説明を与えたのは北条だった。他の三人が驚いたように一斉に北条に注目すると、彼は恥ずかしそうに俯いた。
「上杉さんのご職業は?」
駅員直江のこんな質問は、名前もなかなか言わなかった上杉には無視されてしまうだろう、と私は思ったが、北条が毘沙門天について知っていたのに気を良くしたのか、あっさり返事をした。
「本とおもちゃの会社をやっている」
やっているということは経営者ということか。私は少なからず驚いた。
会社とは名ばかりの露店のようなものではないのか。このオタクっぽくパッとしない地味な外見は、いつまで経っても親の脛をかじるフリーターの方がしっくりくる。まあ、上杉がお金持ちである方が今は都合が良いのだが。
「へー。どんな本とおもちゃですか?」
駅員直江は興味を持ったようだが、私はオタクっぽい上杉が売る本やおもちゃなどどうでも良かった。どうせアニメのフィギュアの贋物を東南アジアあたりで大量に作らせ、薄暗い道端に並べて売っているのだ。
「いろいろだ」
「大人も買います?」
「そりゃ買うさ」
大人のおもちゃ販売、と呟きながら手帳に書き込む駅員直江に「大人のおもちゃとか言うと語弊があるだろ」と上杉が食ってかかる。
確かにそこは同情の余地がある。
「女」
少し冷静さを取り戻した表情で、坊主頭が真正面に見つめてくる。
「何よ」
「示談金目当ての狂言なんだろう?今、謝るなら許してやる。白状しろ」
直球でたくらみを言い当てられたが、それが逆に想定問答どおりで私は滑らかに切り返した。
「嘘なんかついてないわ。私があなたたちの手を掴んだのがその証拠よ」
「なら、言ってやるがな。お前、電車を待っている時に女子高生とサラリーマンの痴漢騒ぎを見たよな。その後すぐにお前が階段の陰でこそこそとスカートの腰を折り返して短くしてるのを、俺は見てるんだよ。わざと太腿を露わにして、寄ってくる男を痴漢に仕立て上げようとしてたんだろ」
チッ。見られていたか。しかし、それは決定的証拠にはならない。ここは逆手に取ってやる。
「折り返したのはそっちの方が可愛いと思ったからよ。そこまで見ていて電車でも私の背後にいたなんて、あんた、痴漢だと思ってたら、ストーカーでもあったわけね。私のこと、いつからつけてたのよ。おー、怖いったらありゃしない」
「何だとぉ」
オタクは目を剥いて怒りだした。頭から湯気が立ちそうだ。「あくまで白を切るか。それなら俺もここに顧問弁護士を呼ぶぞ」
弁護士。そういう発想になるところが企業の経営者らしくはあった。私は思わず顔が引きつるのを感じた。そんな大事にはしたくない。これで示談金も取れず多聞との約束にも遅れたら、何をしているのか分からない。
私と上杉が睨みあい、室内が静まりかえった。