五
「すいませんね。今日は信号機の故障でバタバタしていまして。どうぞお掛けください」
駅員に勧められて、私は自分の家のような遠慮のなさでどっかとパイプ椅子に腰かけた。そしてじろりと自分の前に立ち並ぶ大人の男三人を順番に睨みつける。
駅員は何やら落ち着かない様子で机の上の書類をペラペラめくったり、一旦ドアの外に顔を出し左右を確認したりしている。ドアを閉めて、「最近この部屋使ってないんですよね」と呟きながら壁のスイッチを押し、天井の蛍光灯が点灯すると「お、点いた」と少し驚いた顔をする。
まだ十二時前だ。多聞の会社には二時までに着けば良い。もし捕まえた二人のどちらかから今日中に幾らか分捕ることができれば、多聞に金を借りなくても済む。ここまで来たのだから、とことん戦ってけりをつけてやろう。物怖じしているなんて決して思われてはいけない。弱みを見せたら舐められる。
「どうぞ、どうぞ。お二人も座ってください」
駅員に言われて細身の男はしょんぼりを絵に描いたような項垂れ方で腰を下ろしたが、オタクの方は直立不動のまま微動だにしない。
オタクが立っている以上、駅員も腰かけづらいようで、そのまま状況確認を始めた。胸ポケットから黒い手帳を出してメモの用意をする。
「で、どういう被害に遭われたんですか?」
来た、来た。
私は乗車する前から頭の中でシミュレーションしていた通りの受け答えを実践する。まずは俯きがちに下唇を軽く噛んで、痴漢被害者が抱く羞恥と屈辱をアピールすることを忘れない。
「お尻から太腿にかけて何度も撫でまわされました」
一瞬お尻に何か当たりました。多分人の指だと思いますが、確証はありません。などと馬鹿正直に答えていては、何のためにここまで乗り込んできたのか分からない。多少誇張した表現を盛り込んででも故意の犯罪であることを駅員に印象付け、この二人のどちらかから取るものを取らなくては。
「手で?」
駅員が右手を掲げて見せる。
「はい」
「鞄とか傘とかが偶然当たったとは考えられませんか?」
私と会話をしながら駅員の目は私の顔と膝のあたりをせわしなく行ったり来たりする。座っている私の太腿は半分ほど露わになっている。そう言えばスカートの裾を上げたままだった。
「考えられません」
エロ駅員が、と心の中で罵りながらも、目が行ってしまうのは仕方がない、と私は手元を見下ろした。白くすらっと伸びた脚は私の自慢だ。「お尻はスカートの上からでしたけど、太腿は直接触られましたから。内側の方まで」
ここまで来たら後には退けない。嘘八百のついでに泣き真似で一つ鼻を啜ってみる。バッグからハンカチを取り出し口元に当てる。
するとオタクが、「猿芝居を」と吐き捨てるように言った。
淑やかさを演出していた私はその一言に一瞬我を忘れてオタクを睨みつけてしまう。
「それはどれぐらいの時間でしたか?」
駅員にさらに質問をされて、私は慌てて視線を落とした。
「K駅を電車が出てからすぐに始まりました。A駅に到着する前のアナウンスがあって私が腕を掴まえるまでです」
「その腕は犯人の腕ということですか?」
犯人という言葉に細身の男がビクッと身体を震わせる。
私が背筋を伸ばして「そうです」と答えると、オタクは馬鹿馬鹿しいという感じで壁の方に視線を投げた。
「ということは二人から被害に遭っていたと?」
「いえ。一人からです」
「ちょっと待ってください。触っていた手を掴まえたということなら二人ということでしょう?」
駅員は細身のイケメンとオタクを交互に見る。
ここが難所だ、と私はぐっと奥歯を噛みしめる。
「厳密に言うと触っていた手は私が身体を動かした瞬間に引っ込んじゃったので、すぐに背後にいた二人の手を掴まえたんです」
苦しいがこう言うしかない。やはり二人掴まえたのはまずかったか。
駅員が小首を傾げている。彼には先ほどまでのオタオタした感じがなくなり、表情は引き締まっていて、まるで刑事気分で犯人探しにのめり込んでいるように見える。
「じゃあ、触っていた手を捕まえたというわけではないんですね?」
そこを突き詰められるのが一番痛い。
「その手が私のお尻を触っていたんだから『触っていた手』です」
さすがにこれは屁理屈か。しかし、五十万円を手にするにはゴリ押しするしかない。「それに私の後ろにはこの二人しかいませんでしたから」
「それは情況証拠に過ぎないだろ!ふざけるなよ、女!」
気色ばみ私に挑みかかろうとするオタクを駅員が「落ち着いてください」と身を挺して抑える。
何と野蛮な。まるで縄張り争いをする猿だ。
「むきになるのは、やましい証拠よ」
私は挑発的に立ち上がった。オタクが巻き起こした荒っぽい雰囲気に乗じることにしたのだ。この部屋に長居していると、このやけに冷静な駅員のペースで、こちらの目論見が破綻しそうな気がしてならない。「こんな粗暴な人とこれ以上話をしてても無駄よ。さっさと警察を呼んでちょうだい!」
「そうだ。警察を呼べ!白黒つけてやる」
売り言葉を買ったオタクの三白眼に私は内心ほくそ笑んだ。警察沙汰にしてしまえば九十九%私の勝ちだ。
しかし、ここでもこのちんちくりんの駅員が立ちはだかる。
「それがそう簡単には警察も来てくれないんですよ」
駅員は同情を誘うような泣き顔を見せる。「最近こういう痴漢がらみのケースが増えてましてね。犯罪と呼べるものだけじゃなく、ちょっとした誤解や痴話喧嘩というものもかなりあるんです。警察さんにしてみたら、何でもかんでも呼ぶのはやめにしてもらいたいってことだと思うんですよね。ですからもう少し私がお話を伺って、確実に犯罪があったというところまで確認させてください」
駅員の言葉には説得力がった。
今時の警察はそういうものなのかもしれない。ちょっとした揉め事ですぐに一一〇番通報してしまう人が増えていると言うし。
なだめるように言われると私もオタクも反論できなかった。一人座って顔色を失っている細身の男だけが安心したように息をついている。
オタクも少し気勢をそがれたのか、漸く空いている椅子に腰を下ろした。大きなバッグを大事そうに膝の上に抱え黙ってしまう。
仕方なく私もオタクから顔を背けるようにして座り直す。
「電車の中でのお二人の位置関係は?」
にこやかに駅員に問いかけられ、オタクが腕組みしながら渋々口を開く。
「俺がこの女の右後ろだ」
「ではそちらの方が左後ろですね?」
細身の男が無言で二度三度と頷く。
駅員が再度私に顔を向ける。表情のない眼だ。何を考えているのか分からない。敏腕の刑事にじりじりと追い詰められているような心細い気分になる。
「お尻を触っていたのは右手でしたか?それとも左手?」
「ちょっと覚えていません」
核心を突かれている気がする。ここを間違えると大変なことになりそうな直感があった。私は取りあえず惚けることにした。
「指の形で分かりませんか?」
「動転していたので」
「そうですか」
駅員は少し考え込むような表情をする。それは私の供述に嘘がないかと疑っているように見えた。「では質問を変えましょう。あなたは先ほど太腿を内側まで触られたとおっしゃいましたよね」
「はい」
「触られたのはどちらの足でしたか?」
どちらの足が良いのだろう。私の答えで犯人がどちら側に立っていたか駅員は推測するのだろう。細身の男を犯人に仕立てるにはどちらの足を選ぶべきなのか。オタクが右後ろにいたってことは左後ろに彼がいたってことだから、彼の手と私の足との位置関係はどうなっているんだっけ。頭の中が混乱してくる。しかし、ここで沈黙は一番まずい。私は急きたてられるように口を開いた。
「右です」
「本当に右足ですね?」
駅員の抑揚のない確認の問いかけが、私を不安にさせる。
「たぶん右……いや、どうだったかな」
自信なく小首を傾げるとオタクが目を剥いて「はっきりせんかっ!」と声を荒げる。
「右よ、右足!」
急かされて慌てた私の脇が甘いと見たのか、駅員が畳みかけるように質問を投げかけてくる。
「そのとき触っている手の親指は上にありましたか?それとも下?」
次々に質問を浴びせられ私は息苦しさを感じた。狭い室内の酸素が足りなくて脳への供給が追いつかない。親指はたいてい上にあるものではないか。私は深く考えることもできないうちに選択していた。
「上でした」
「ということは太腿を触っていた手は左ということになりますね。後ろから右足の内腿を左手で触っているということは、犯人は右後ろにいた人である可能性がかなり高い」
駅員がオタクの顔を怖いものを見るように窺う。続いて私と細身の男の視線もオタクに集まった。
「ふざけるな!」
オタクの顔が赤鬼の面のように朱に染まった。今にも頭から角が生えてきそうな形相で私を指差して怒鳴り散らす。「こいつの憶測話で俺を犯人扱いするな!」
「あくまでやってないと?」
駅員はどこまでも冷静だ。
「当たり前だ。どうして俺が痴漢などといった小悪党にならなきゃいけないんだ。武士の名折れだ!同じ犯罪なら国会議事堂に車で突っ込んで、腐敗した政治家どもに天誅を食らわせてやるわ」
「その思想は十分に犯罪レベルだわ。痴漢じゃなくても警察に突き出さなきゃ」
私が再び立ち上がってオタクを非難する。
するとまたもや駅員が格闘技のレフェリーのように絶妙のタイミングで間に割って入る。
「まあまあ。何でもかんでも警察というわけには」
今度は私を窘めるような口調だ。「そもそもこちらのうちの少なくともお一人は犯人ではないということになりますよね?」
くそ。それは否定しようがない。
「大事なことは真犯人を逃さないということよ」
私は旗色が少しずつ悪くなっていくのを感じていた。同時に胸が詰まるような息苦しさが増していく。冤罪による名誉棄損ということで訴えられたら、逆にお金を取られることになるかもしれない。そんなことになっては本末転倒だ。
「確かにそれは大事だと思いますけど」
駅員はひとまず被害者の心情を汲み取ってくれたようだ。「ところでそちらの方は?痴漢の犯人に心当たりはありませんか?」
駅員に言葉を求められて、細身の男の青ざめていた顔色にサッと赤みが差す。
「ぼ、ぼ、僕も、さ、触ってませんよ」